第二十七話 保存期間
里村明日香の死は、事故として処理された。
階段室で足を滑らせ、後頭部を段の角に打ったものと見られる。争った跡はない。所持品もそのままだった。サンダルの片方が三段目に引っかかっていたこと、階段室が暗かったこと、床に置かれた非常灯が下から照らす形になっていたこと。それらが、そのまま説明になった。
深津は警察に二度呼ばれ、同じことを二度話した。二度目のときに、あの非常灯はいつからああなっているのかと聞かれた。三年前からです、と答えた。
「管理会社としては、それでよかったんですか」
「よくありません」
「直さなかった理由は」
「解体が決まっているためです。緊急を要する場合は申請すれば直せますが、申請していません」
「なぜ」
深津は答えた。
「私が、必要ないと判断しました」
書き取られた。書き取られたものは、たぶんどこにも行かない。
葬儀は、里村の姉がすべて手配した。
千葉のほうから来た人で、深津は手続きの説明をするために二度会った。ひなたはその人が引き取ることになった。学校は転校になる。転居先の契約は解除された。保証会社の審査は通っていたと、不動産屋から連絡があった。
通っていた、と聞いたときに、深津はしばらく言葉が出なかった。
三月末までに出ていけばよかった家が、二月を待たずに空いた。
鍵の返却は姉が来てやった。荷物は業者が入った。ひなたの折り紙が、こたつの上に積んだままになっていたので、姉がそれを紙袋に入れて持ち帰った。数えると、十七あった。
深津は記録を当たり始めた。
当たる先は三つある。
一つ目は、本社の倉庫である。前の管理会社から引き継いだ物のうち、目録に載っていないものが残っていないか。十月に照会をかけたまま、返事が来ていなかった。催促すると、三日後に返ってきた。該当なし、である。段ボール四箱ぶんの引き継ぎ品が保管されていて、中身は図面と竣工書類だけだった。
二つ目は、団地の管理室である。二十年前まで管理人が常駐していた部屋で、いまは物置になっている。深津は鍵を申請して開けた。申請には理由の欄があり、そこには「解体前の残置物確認」と書いた。嘘ではない。
中身は、ほとんどが備品だった。壊れた掃除機、ペンキの缶、脚立、蛍光灯の予備。書類は一つもなかった。棚の埃の付き方から見て、何年も前に一度、まとめて片づけられている。
三つ目が、自治会だった。
自治会には、防災関係の綴りがある。宇野が十年つけている自主点検表と、その前の代からの綴り。二十年前の分があるとすれば、そこである。
宇野の部屋は、前と同じように片づいていた。
上がってもらい、深津は上がった。バインダーは、棚の同じ位置にある。
「古い綴りのことでうかがいました」
「古い、と申しますと」
「宇野さんが担当されるより前の、防災関係の記録です。二十年前まで遡れるものがあれば」
宇野はしばらく黙っていた。黙り方が、いつもと違った。この人はふだん、相手の言い間違いを待つために黙る。今日は、自分の言葉を選ぶために黙っていた。
「ございません」
「保管はされていなかったということでしょうか」
「保管はしておりました」
深津は手帳を開いた。
「前任の方から引き継いだ綴りが、段ボール一箱ぶんございました。私が担当になったときに、内容を確認しております。総会の議事録、消防への届出の控え、点検表。年代は、いちばん古いもので二十七年前です」
「その中に、二十年前の点検表は」
「ございました」
深津は書く手を止めた。
「先月、処分いたしました」
部屋のなかの音が、急に大きくなったように感じた。加湿器の音である。ずっと鳴っていた。
「……処分」
「はい。自治会の文書管理の内規では、防災関係の保存期間は五年と定めております。五年を超えたものは、年度末までに処分することになっております。これは私が作った内規ではありません。前々代のときに定められたものです」
「五年」
「五年です。処分の記録も残しております。ご覧になりますか」
宇野は立ち上がり、バインダーとは別のファイルを持ってきた。開いて、深津のほうへ向けた。
文書処分記録。日付、品目、数量、処分方法、担当者。いちばん下の行に、先月の日付が入っている。品目の欄には「防災関係綴り(保存期間経過分)」とあり、処分方法は「溶解処理」、担当者は宇野の名前だった。
日付は、集会所で臨時の集まりがあった週の、金曜日である。
「この日に」
「はい」
「集まりのあった週ですね」
「そうなります」
深津は顔を上げた。
宇野は、こちらを見ていた。目を逸らさなかった。逸らさないが、視線が少し高い。深津の額のあたりを見ている。
「あの集まりの前と後で、何かお決めになったことはありますか」
「ございません」
「では、なぜこの日だったのでしょうか」
「年度末までに処分することになっております」宇野は言った。「年度末までであれば、いつでも構いません。私は、まとめて行う日を決めておりまして、毎年その時期です。去年は十二月の第二金曜日でした。一昨年は十二月の第三金曜日です。記録がございます」
ファイルの前のページを繰ってみせた。
去年の欄がある。一昨年の欄もある。どちらも十二月の金曜日だった。
「規定の保存期間を過ぎていましたので」
その一言で、話は終わった。
深津は、それ以上聞かなかった。
聞くとすれば、次の質問はこうなる。あの綴りの中身を、あなたは読みましたか。二十年前の点検表に、七号棟の手すりについて何か書いてありましたか。
読んでいれば、覚えているはずである。覚えていて処分したのなら、意図がある。
だが、宇野は覚えていないと答えるだろう。十年前に一度確認しただけの書類の中身を、覚えているほうがおかしい。おかしくない答えのほうを、この人は必ず選ぶ。
そして、それは嘘ではないかもしれない。
深津は手帳を閉じた。
「お時間をいただき、ありがとうございました」
「いえ」
玄関で靴を履いているとき、宇野が言った。
「深津さん」
「はい」
「私は、嘘は書きません」
深津は振り返った。
宇野はバインダーを胸の前で水平に持っていた。いつもの持ち方である。
「十年つけてまいりましたが、一度も嘘は書いておりません。書いていないことはございます。書けと言われていないことは、書きません。それは嘘ではありません」
「……そうですね」
「そうです」
ドアが閉まった。閉まってから、内側で鍵の音がした。
集会所へ戻る道で、深津は数えた。
二十年前の点検表は、もうない。当時の管理会社の記録もない。管理室にも何もない。手すりの支柱は補修されていて、補修したのが誰かは分からない。桑名千尋が撮った写真は、彼女の携帯の中にあったはずで、それは遺族が引き取っている。中身を見たかどうかは分からない。
残っているのは、自分が撮った写真だけだった。
補修されたあとの写真である。
深津は集会所の鍵を開け、スチール棚の下の段を開けた。紙袋が入っている。桑名様 遺品 保管、と書いた紙が貼ってある。
しばらく見て、閉めた。
まだ読まなかった。




