第二十六話 階段室
電話が鳴ったのは、21時40分だった。
宇野の声だった。
「深津さんですか。宇野です。七号棟3階の里村さんのお宅で、お子さんが一人で泣いておられます。ドアは開いております。中には、お子さんだけです」
深津は上着を取りながら聞いた。
「里村さんは」
「おられません。近所の方に確認しましたが、どなたも見ておりません。私が気づいたのは21時32分です。廊下を通ったときに声がしましたので、声をかけました。お子さんは、お母さんが出かけたと言っております」
「いま、そちらにおられますか」
「おります。ただ、私は男ですので、部屋には入っておりません。廊下で待っております」
「すぐ行きます」
ひなたは、玄関のたたきに座っていた。
靴を履いていない。パジャマの上にカーディガンを羽織って、膝を抱えている。泣いてはいなかった。泣いたあとの顔だった。
「ひなたちゃん」
深津はしゃがんだ。目の高さを合わせた。
「お母さん、どこへ行ったか聞いてる」
「ちょっと出てくるって」
「何時ごろ」
ひなたは首を振った。子どもに時刻を聞いても仕方がない。深津は聞き方を変えた。
「ごはんは食べた」
「食べた」
「テレビは見てた」
「見てた。アニメのやつ」
番組の名前を聞くと、19時からの三十分のものだった。それが始まる前に出た、とひなたは言った。
「そのあと、帰ってきてない」
「うん」
「分かった」
深津は立ち上がった。宇野が廊下で待っている。
「宇野さん、恐れ入りますが、ここでお子さんと一緒にいていただけますか。私は棟のなかを見てきます」
「私でよろしいでしょうか」
「玄関を開けたままで結構です。廊下から声をかけていただければ」
「分かりました。19時前から不在であれば、二時間半経過しております。警察へは、いま連絡すべきでしょうか」
深津は一瞬考えた。
「先に棟を見ます。五分で戻ります」
3階の廊下から、階段のほうへ歩いた。
外は冷えていて、風が廊下を通り抜ける。手すりに手をかけずに歩いた。階段室の入り口へ入ると、風が切れた。
なかは暗い。
床の隅に灯具が置いてあって、そこだけ緑がかった光が出ている。段の縁が下から照らされて、上のほうが黒い。
深津は自分の携帯を出し、明かりを点けた。
上を見た。4階へ上がる段が、途中まで見える。それから下を見た。
下りた。
2階までの段に、何もなかった。1階まで下りて、外の扉のところまで行き、それから戻った。
3階を過ぎて、4階へ上がった。
4階と5階のあいだの踊り場は、風が来ない。篠田がいつも座っていると言っていた場所である。空き缶も、ごみもない。
深津は5階まで上がり、それから引き返した。
引き返しながら、携帯の明かりを段の下へ向けた。
3階と4階のあいだの、下から三段目のところに、片方だけサンダルが落ちていた。
深津は足を止めた。
サンダルは、爪先を上に向けて、段の角に引っかかっている。女物である。買い物に出るときに履くような、簡単なものだった。
明かりを下へ動かした。
踊り場の隅に、人が倒れていた。
壁とのあいだの、いちばん暗いところだった。上から下りてきたときには見えない角度である。深津が立っている位置からは、足のほうしか見えなかった。
「里村さん」
声が出た。自分の声とは思えないくらい、小さかった。
段を下りて、しゃがんだ。
肩に触れた。冷たかった。首のところに指を当てた。当てる場所を確かめるのに、少し時間がかかった。
深津は携帯を持ち直し、119を押した。
押しながら、もう片方の手で、明かりが彼女の顔に当たらないように、少しずらした。
救急隊が着いたのは、22時8分だった。
深津は階段室の入り口に立って、下から上がってくる隊員に道を空けた。二人が踊り場でしゃがみ、一人が下へ戻って何か言った。
しばらくして、隊員の一人が立ち上がった。
立ち上がり方で、分かった。あの朝と同じだった。
警察が来た。階段室に規制のテープが張られた。3階の廊下から人が締め出され、住民が下の広場に集まりはじめた。誰かが、また、と言った。誰かが、なんで、と言った。
深津は警察官に説明した。
21時40分に連絡を受けたこと。お子さんが一人でいたこと。19時前から不在であること。21時55分ごろに階段室で発見したこと。触ったのは肩と首であること。ほかには何も動かしていないこと。
「あなたは、この方と面識が」
「管理会社の担当です。退去の手続きで、何度もお会いしています」
「最後に話されたのは」
「今朝、電話で話しました」
「内容は」
深津は答えるまでに、間が空いた。
「16時に、集会所へ来られる予定でした。お話ししたいことがある、と」
「何のお話か、聞いておられますか」
「聞いていません。電話では言えないと」
「来られましたか」
「……来られませんでした」
警察官は書き取った。ペンの音がして、それから、次の質問が来た。
深津は同じように答えた。答えているあいだ、頭のなかでは、16時5分、16時12分、16時30分、17時、という数字が並んでいた。
湯呑みを二つ出して、洗って、また出して、最後に二つとも棚へ戻した。座面を拭いたパイプ椅子には、埃が一つも積もっていなかった。
ひなたは、宇野が見ていた。
廊下に立ったまま、玄関の内側にいるひなたと、ドア越しに話していた。話していたというより、宇野が一方的に説明していた。いまお母さんを探しています、救急車が来ています、大人がたくさんいますから大丈夫です。ひなたは何も言わなかった。
篠田が来たのは、そのすぐあとだった。
下の騒ぎを聞いて上がってきたらしい。3階の廊下の入り口で警察官に止められ、住民じゃないのかと聞かれ、住んでると答えて、通された。
深津の横を通り過ぎて、まっすぐひなたのところへ行った。
「おい」
ひなたが顔を上げた。
篠田は玄関のたたきに座り、ひなたと同じ高さになった。何も言わなかった。ひなたが、篠田の袖をつかんだ。手ではなく、袖のほうをつかんだ。
そのまま二人とも動かなかった。
宇野が深津のほうを見た。何か言おうとして、やめた。バインダーを持ってきていて、それを胸に抱えたまま、廊下の端へ寄った。
深津が階段室の前に戻ったのは、日付が変わるころだった。
規制のテープが張られている。なかは、まだ照明が入っていた。作業をしている人の影が、壁で動いている。
床の灯具は、そのまま置いてあった。
深津は入り口に立った。
自分の影が、壁を上っていく。頭のところが天井まで届いて、そこで折れ曲がっていた。首から上が異様に長い。
五階の女が見たと言ったのは、これである。
深津は動かなかった。動かないので、影も動かなかった。
三日前、この建物のなかで起きたことは全部説明がつくと分かった。窓に映るもの、床が作る影、上下の分からない音。分かって、住民は互いを疑いはじめ、それから、一人だけ本当に外にいたという話が残った。
残ったところで、自分は印をつけた。確認済み、と四つ書いた。
書いた翌日に、この人は電話をかけてきた。
深津は壁の影を見ていた。
背後で、誰かが階段を上がってくる音がした。振り返る前に、その音は3階の廊下のほうへ逸れていった。




