第二十五話 16時
電話は、朝いちばんに鳴った。
集会所の鍵を開けて、ストーブに火を入れて、まだ湯も沸かしていない時間である。受話器を取ると、女の声だった。声が小さいので、二度名乗ってもらった。
「七号棟の、里村です」
「里村さん。おはようございます」
「あの、お話ししたいことがあって」
深津は手帳を開いた。
「うかがいます」
「電話では、ちょっと」里村は言った。「そちらへ、うかがってもいいですか」
「もちろんです。ご都合のよい時間をおっしゃってください」
少し間があった。奥で、子どもが何か言っているのが聞こえた。
「16時でもいいですか。子どもが学童から帰る前に、済ませたいので」
「16時ですね。お待ちしています」
「あの」
「はい」
「大した話ではないかもしれません」
「うかがってから、大した話かどうかを決めるのは、こちらの仕事です」
電話の向こうで、息を吐く音がした。
「じゃあ、16時に」
深津は手帳の今日の欄に書いた。16時、里村様。
書いてから、様を消して、さんにした。
茅野が来たのは、11時過ぎだった。
予定にはなかった。引き戸を開けて、泥を落として、それからいつもの椅子に座った。座る前に、部屋を一度見回した。
「苦情が来ている」
「……はい」
「四号棟と六号棟の住民から、本社の窓口へ電話があった。管理会社の担当者が、住民に事件の話を聞いて回っている。そのせいで住民同士が疑い合うようになった。会社として何を調べているのか説明しろ、という内容だ」
深津は湯呑みを二つ出しかけて、一つにした。
「経緯の聞き取りは、報告書のためでした。報告書はもう出しています」
「出したあとも回っているだろう」
「……はい」
「何を確かめている」
深津は答えを探した。
停電の夜、外へ出た人がいます。全戸が出ていないと答えています。誰かの言っていることが事実と違います。
言えば、話が続く。続けば、佐久間の名前が出る。昨日、自分は一階の四戸に確認済みの印をつけた。つけたばかりだった。
「時刻の確認です。報告書に載せた証言の、細かいところを」
「報告書は受理されている」
「はい」
「受理された書類の細部を、いま確かめる必要があるか」
「……ないかもしれません」
「そうだ」茅野は書類を出して、机で角を揃えた。「うちは調査機関ではない、と最初に言った」
「言われました」
「言われて、そのとおりだと答えた」
「はい」
「深津。工程を言う。年明けに入札、二月から仮囲い、三月末で退去、四月に着工だ。ここから先は、住民が出ていく作業しか残っていない。出ていく人たちに、いま必要なのは何だ」
「転居先と、費用と、日程です」
「そうだ。それだけだ」
茅野は書類を鞄に入れた。
「今日から、聞き取りはやめろ。住民から話しかけられたら聞け。それは業務だ。こちらから訪ねて、あの晩のことを尋ねるのはやめろ」
深津は膝の上で手を組んだ。
「今日、16時に、住民の方が一人こちらへ来られます」
「誰だ」
「七号棟の里村さんです。ご本人から連絡がありました。話したいことがあると」
茅野の手が止まった。
「向こうから来るのか」
「はい」
「なら聞け」茅野は言った。「来た人の話を聞くのは、窓口の仕事だ。ただし、こちらから追わないこと。聞いた内容で、うちが動くかどうかは私が決める」
「分かりました」
「それと、聞いた内容は必ず私に上げろ」
「……はい」
茅野は立ち上がり、引き戸のところで一度振り返った。
「深津。お前がやっていることは、たぶん間違っていない。ただ、うちがやることではない。その二つは別だ」
「はい」
引き戸が閉まった。
深津はしばらく座っていた。それから湯を沸かし、湯呑みを二つ出した。
午後は、退去の面談が二件あった。
どちらも三十分ほどで終わり、深津は15時前に集会所へ戻った。
部屋を片づけた。パイプ椅子を一脚、机の前に置き直し、座面を布巾で拭いた。ストーブの前の位置に動かして、灯油の残量を確かめた。湯呑みを洗い、茶葉の缶を出した。
やることがなくなったので、座って一覧表を見た。
里村の行は、六列目が「なし」になっている。停電の時刻は9時ごろ、場所は自室。書いたのは自分である。書きながら、この家は聞き直さなくてよいと判断したことを覚えている。
16時になった。
深津は引き戸のほうを見た。
16時5分。
16時12分。
子どもの帰る時間の前に済ませたい、と言っていた。学童からの帰りは、たいてい17時前後である。少し遅れているだけかもしれない。荷造りの途中で手が離せなくなったのかもしれない。
16時30分。
深津は電話をかけた。呼び出し音が十回鳴って、切れた。留守番電話にはならなかった。
もう一度かけた。同じだった。
17時。
外が暗くなった。集会所の窓から、七号棟が見える。3階の南側の端に明かりが点いた。堀内の部屋である。里村の家は、この角度からは見えない。
17時20分に、引き戸が鳴った。
深津は立ち上がった。立ち上がってから、来たのが六号棟の住人だと分かった。退去済みの住戸の鍵を返しに来たのである。
「遅くにすみません。仕事の帰りで」
「いえ。お待ちしておりました」
鍵を受け取り、番号を確かめ、受領の判を押して控えを渡した。三分で済む手続きである。相手は世間話をしなかった。この二か月、住民は世間話をしなくなっている。
「では、失礼します」
「お疲れさまでした」
引き戸が閉まった。
深津は座り直し、鍵を封筒に入れて、日付を書いた。書きながら、いま自分が、引き戸の音で立ち上がったことを思い返した。
17時40分。
深津は上着を取って、引き戸に手をかけた。かけて、そのまま戻った。
こちらから追わないこと。今日、そう言われたばかりだった。訪ねていって、玄関先で話すことになれば、それは訪問である。訪問すれば、また誰かが見る。見られたことが伝わって、里村さんのところへ会社の人が来た、という話になる。
彼女が来なかったのには、理由がある。
理由は、たぶん、そういうことだった。夜に外へ出て、集会所に入るところを誰かに見られる。それを避けたのだろう。あるいは、話すのをやめたのかもしれない。やめる自由は、彼女にある。
18時。
深津は座り直した。もう少し待つことにした。
待つあいだ、一覧表の裏に、明日の予定を書いた。午前に面談が一件。午後は退去済み住戸の鍵の回収。それから、里村の家へは行かない。行かないが、廊下ですれ違うことはある。すれ違ったら、こちらからは何も言わない。向こうが何か言えば、聞く。
18時40分。
湯が沸いたまま、二度沸き直していた。深津は電源を切った。
19時。
立ち上がって、ストーブの火を落とした。灯油の匂いが強くなって、それから弱くなった。パイプ椅子を元の位置へ戻し、拭いておいた座面に、埃が一つも積もっていないのを見た。
湯呑みを二つとも、棚に戻した。
手帳を開いて、今日の欄を見た。16時、里村さん。
深津は線を引かなかった。明日の欄に、同じことをもう一度書いた。
明かりを消し、鍵をかけた。
外は冷えていた。並木を抜けるとき、七号棟の窓を数える癖がついているのに気づいた。3階の南の端は点いている。里村の家のあたりは、この位置からは見えない。
深津は自分の棟へ歩いた。




