第二十四話 何も見なかった
堀内は、集会所が開くと同時に来た。
9時ちょうどである。深津がストーブに火を入れているところだった。
「これを」
封筒だった。中身は、先日渡した控えと、それに書き足した紙が数枚。堀内は椅子に座らず、立ったまま説明した。説明の順番は整理されていて、時刻から入り、次に仕組みへ移った。
窓ガラスに映ること。床の非常灯が作る影。上下の分からない階段の音。同じ形のジャンパー。止まった時計。
深津は書き取りながら、一つずつ確かめた。どれも、確かめれば分かることだった。確かめれば分かることを、二か月のあいだ、誰も確かめなかった。
「では、皆さんが見たのは」
「お互いです」堀内は言った。「それと、ご自分です」
深津はペンを置いた。
置いてから、しばらく紙を見ていた。腹の底のほうが、少し冷えた。
この二か月、自分は聞いて回っていた。聞くたびに、証言は増えて、食い違って、確定しなかった。確定しないから聞き続けた。聞き続けたことで、住民は互いを疑い始めた。
確かめれば分かることを、確かめずに、聞いていた。
「もう一つ、あります」堀内が言った。
「はい」
「9時47分に、棟の入り口の扉が鳴りました。10時20分にも鳴りました。そのあいだ、下を明かりが動きました。あれは、映り込みでも影でもありません」
「……はい」
「誰かが、外にいたということになります」
深津は封筒の中身をそろえた。
「そのことは、どなたかにお話しになりましたか」
「いいえ」堀内は言った。「見間違いのほうは、いろいろな方に聞かれましたので、順番にお答えしました。こちらは、まだどなたにも」
「……ありがとうございます」
「どうすればよろしいでしょうか」
深津は答えるのに時間がかかった。
「こちらで確認します。一階の方から、順に」
午前中に、三戸を回った。
高齢の夫婦は、9時前には床に就いたと言った。二人とも耳が遠く、扉の音は聞いていない。単身の男性は、テレビが消えたので寝たと言った。子どものいる家では、停電のあいだ子どもが泣いていて、それどころではなかったと言われた。
どの家でも、深津は同じ聞き方をした。
あの晩、棟の外へ出られたことはありましたか。玄関の外へ、少しでも。
三戸とも、出ていないと答えた。
残るのは、一戸だった。
佐久間の部屋は、こたつが出ていた。
湯呑みが二つ、天板の上に置いてある。呼び鈴を押す前にドアが開いたのは、二か月あまり前に千尋が来たときと同じだった。
「悠一くん、寒かったろう」
「お忙しいところ、申し訳ありません」
「忙しくないよ。座りなさい」
座布団が出ていた。深津は座り、鞄から手帳を出した。出したところで、茶が置かれた。
「あんた、痩せたね」
「そうでしょうか」
「痩せたよ。ちゃんと食べてるかい。あの人が亡くなってから、ずっと走り回ってるだろう。会社もひどいね、あんた一人にやらせて」
「仕事ですので」
「仕事だからって、限度があるよ」
深津は手帳を開いた。
「あの晩のことを、一階の方に順番にうかがっています」
「聞いてるよ。上から順に回ってるんだってね」
「はい」
「私にも聞くのかい」
「はい」
佐久間は湯呑みを両手で包んだ。
「聞きなさい」
「9時47分ごろに、棟の入り口の扉が開いた音を、二人の方が別々に聞いておられます。10時20分ごろにも、もう一度」
「そうかい」
「あの扉は、二度鳴ります。バネが強いので」
「鳴るね。昔から鳴る。直せと言われて、業者を呼んだこともあるよ。直らなかった」
「その時間に、外へ出られましたか」
佐久間は湯呑みを置いた。
置く音がした。それだけの音である。
「出ないよ」
「……そうですか」
「9時には寝てた。歳を取ると早いんだ。電気が消えたのは知ってる。目が覚めたから。でも、起きなかった。真っ暗ななかを起きたって、転ぶだけだからね」
「10時20分ごろは」
「寝てた」
深津は手帳に書いた。書きながら、次の質問を探した。
探している時間が、少し長くなった。
「悠一くん」
「はい」
「私は、何も見なかったよ」
顔を上げた。
佐久間は、こちらを見ていた。責めてもいないし、怒ってもいない。困った顔でもない。ただ、言い終わった人の顔をしていた。
「あの晩、何が起きたのか、私は知らない。知らないことは、何も言えない。あんたの仕事の邪魔をする気はないよ。聞かれたら答える。答えられることは、それだけだ」
深津は口を開いた。
開いて、何かを言おうとした。
言おうとしたものが、あった。全戸の署名が日付順に並んでいて、その順番があなたの歩いた経路になっていること。その経路を作った人は、どの家に誰がいて、誰が何時に寝るかを知っていること。あの晩、外へ出た人がいて、その人は一階から出たとしか考えられないこと。
それを言うと、この人を疑うことになる。
疑う根拠は、順番だけである。順番は、親切の順番でもある。
息を吸って、そこで止まった。
二十年前も、同じ椅子ではないところで、同じ人の顔を見て、同じように止まった。あのとき言おうとしたことは、結局言わないまま二十年たった。
「……そうですか」
喉から出たのは、それだけだった。
「そうだよ」
佐久間は湯呑みを持ち上げ、一口飲んだ。
「あんた、あの晩は家にいたのかい」
「はい。部屋におりました」
「何か見たかい」
「……いえ。何も見ていません」
「そうだろう。みんなそうだよ」
佐久間は笑った。
「みんな、家にいて、何も見ていない。それでいいんだ。無理に何か見たことにすると、あとで困るのは自分だからね」
帰り道は、風が強かった。
並木の葉はもう落ちきっていて、路面に貼りついている。深津は集会所まで歩いて、鍵を開け、机に座った。
一覧表を出した。
一階の四戸の欄に、順に印をつけた。確認済み。確認済み。確認済み。
最後の一戸のところで、ペンの先が欄の上で浮いた。
それから、書いた。確認済み。
書いた瞬間に、肩の力が抜けた。
抜けたことに、深津は少し驚いた。この二か月、ずっと肩に力が入っていた。証言が揃わないこと、時刻が決まらないこと、誰かが外にいたのに誰も出ていないこと。全部が宙に浮いたままで、その浮いたものを毎日見ていた。
いま、一つ決まった。
一階からは誰も出ていない。四戸とも確認した。全戸が「出ていない」と答えた。答えが揃った。
揃ったのだから、扉の音は、別の説明がつくということになる。風かもしれない。誰かが上の階から下りてきて、外へ出て、また戻ったのかもしれない。篠田が気づかなかった可能性もある。あるいは、二人が聞いた音が同じ音ではなかったのかもしれない。
いくらでも説明はつく。
つくということは、確定しないということでもある。それは分かっていた。分かっていたが、今日はもう考えなかった。
深津は一覧表を伏せた。
手帳を開き、後ろのページを確かめた。二つに折った紙が、そこにある。
広げなかった。
外はもう暗くなっていた。深津は明かりを消し、鍵をかけ、自分の棟へ歩いた。歩きながら、久しぶりに、腹が減っていることに気づいた。




