第二十三話 ドアの前
ひなたが、学童から帰ってきて言った。
「ママ、あのおまわりさん、うちに来る」
「来ないよ。なんで」
「みくちゃんが言ってた。ひなたのおうち、けいさつが来るって」
里村は鍋の火を弱めた。
「誰から聞いたって」
「みくちゃんのママ」
ひなたはランドセルを置いて、こたつに入った。それきりその話はしなかった。子どもは、大人が思うほど覚えていない。覚えていないふりが上手なだけかもしれない。
里村は味噌を溶かしながら、鍋の中を見ていた。
集会所の集まりのあとから、棟の空気が変わった。
誰かがいたのではなく、みんながお互いを見ていただけだった、という話になった。それで安心した人もいるらしい。里村は安心しなかった。
安心しなかった人たちは、次のことを考え始めた。
みんなが家にいたのなら、あの晩、外にいたのは誰か。
里村の名前は、三日で出た。
最初に気づいたのは、廊下ですれ違ったときの会釈の形である。二階の人が、こちらを見てから会釈をした。前は会釈をしてからこちらを見た。順番が逆になった。
次は、洗濯物だった。物干しに出しておいた子どもの上着が、風で隣の家の側へ落ちていた。前なら、隣が拾って玄関のノブに掛けておいてくれた。今度は、落ちたまま二日そこにあった。
三日目に、はっきり言われた。
棟の入り口で、五階の女に呼び止められた。
「里村さん、あの人と話したんですってね」
「あの人」
「亡くなった、桑名さん。あの晩、里村さんのところへ行ったって聞きましたけど」
「……来ました。玄関で少し」
「何時ごろ」
「8時過ぎです」
「何を話したんですか」
「何も」里村は言った。「私は当時ここに住んでいませんでしたので、分かりませんと」
「じゃあ、あの人が最後に会ったのは里村さんってこと」
「そんなことは」
「だって、そのあと誰も会ってないでしょう」
言い方に棘はなかった。棘がないほうが、あとまで残る。
部屋に戻って、里村は下駄箱の上を見た。
名刺が、名前を下にして置いてある。ひと月半、そこにある。捨てられなかったし、拾い上げて読む気にもならなかった。
里村はそれを裏返した。
会社名と、部署名と、名前。それだけの紙である。
その夜、寝かしつけたあとで、里村は座って考えた。
自分が持っているものを、順番に並べてみた。
一つ。あの人はうちに来た。8時過ぎだった。私は答えなかった。名刺は郵便受けに入れられて、いまも下駄箱の上にある。
二つ。あの晩、洗い物をしていたときに、階段のほうから足音がした。ドアのすぐ外まで来て、止まったように聞こえた。私は出なかった。あの階段は上の音が近く聞こえる。だから、上の階の誰かだと思った。
いま考えると、思っただけである。
三つ。あれは、停電の前だったか、後だったか。
里村はそこで止まった。
停電したのは9時20分だと聞いている。自分が洗い物をしていたのは、篠田が帰ったあとだから、9時を過ぎていた。電気が消えたのは、洗い物のあとだった気もするし、途中だった気もする。途中なら、暗いなかで洗っていたことになる。それはない。
順番が、思い出せない。
思い出せないことを、言っていいのだろうか。
四つ。佐久間さんのこと。
里村は膝の上で手を組んだ。
先週、あの人がうちに来た。玄関先で、まずひなたの学校のことを聞いて、それから転居先の話になった。初期費用が出せないと言うと、そういう物件もあると言って、不動産屋の名刺を置いていった。知り合いだから、私の名前を出しなさい、と。
次の日に電話をかけた。話は早かった。保証会社の審査があるが、通ればなんとかなるかもしれない、と言われた。ひなたの学校も変わらずに済む距離だった。
電話を切ったあと、里村は台所に立って、しばらく動けなかった。三か月、どこへ行っても断られていたことが、名刺一枚で動いた。
あの人がいなければ、うちは期限までに出られない。
それを分かっていて、あの二週間のことを言うのか。
あの人は、桑名さんが亡くなってから二週間、ずっと顔色が悪かった。声をかけたら、ありがたいよ、と言った。あの日から、また元に戻った。ごみ置き場に出て、掲示板を直して、うちにも来た。
悪い人ではない。悪い人ではないから、余計に、あの二週間のことが気になる。
気になるが、それは私の主観である。
主観を言うと、あの人が疑われる。この団地でいちばん人を助けている人が、私が余計なことを言ったせいで、疑われる側になる。
里村は手を解いた。
解いてから、また組んだ。
11時前に、上着を着た。
深津は集会所には残っていないだろう。16時までだと聞いている。ただ、あの人は団地に住んでいる。向かいの棟の四階だと、誰かが言っていた。
行って、話す。
名刺のことと、足音のことと、順番が思い出せないこと。佐久間さんのことは、言わない。言うとしたら、顔色が悪かった、というだけにする。それなら悪口ではない。
里村は玄関へ行き、鍵を回した。
回したところで、奥からひなたの声がした。
「ママ」
手が止まった。
「どこ行くの」
「なんでもない。すぐそこ」
「ひとりになるの」
里村は戻って、布団のところにしゃがんだ。ひなたは半分眠っていて、目は開いていなかった。それでも、里村の袖をつかんだ。手ではなく袖のほうを、いつものようにつかむ。
しばらくそうしていた。
ひなたの呼吸が深くなってから、里村は立ち上がった。玄関へ戻り、ドアノブに手をかけた。
かけたまま、動かなかった。
行って、話す。話したら、どうなるか。
管理会社の人は書く人である。書けば記録になる。記録になれば、誰かが読む。読んだ人が、里村さんはあの晩こう言っていた、と言う。棟に伝わる。伝わり方は、この二か月で嫌というほど見た。順番を変えて、少しずつ形を変えて、戻ってくる。
戻ってきたとき、うちには子どもがいる。
あの人が亡くなったことに、私は関係がない。関係がないのに、関係がある人になってしまう。
里村はドアノブから手を離した。
鍵を閉め直した。二度、確かめた。
上着を脱ぎ、ハンガーに掛けた。掛けてから、下駄箱の上の名刺を、また裏返して、名前を下にして置いた。
明日にしよう、と思った。
明日、集会所が開く時間に行けば、廊下で見られることもない。夜に外へ出るより、そのほうがいい。
里村は電気を消して、布団に入った。ひなたが寝返りを打って、こちらへ寄ってきた。
佐久間は、一階の廊下にいた。
夜のこの時間に外へ出るのは、ここ二か月の習慣になっている。眠れないので、外の空気を吸って、それから寝る。それだけである。
顔を上げると、3階の廊下に人が立っていた。
里村である。上着を着て、玄関のドアの前にいる。ドアノブに手をかけたまま、動かない。
佐久間はその姿を、下から見ていた。
しばらくして、里村は手を離した。それから部屋へ入り、ドアが閉まった。鍵の音が二度した。
明かりが消えた。
佐久間は廊下の柱のところに立ったまま、3階を見上げていた。
あの人は、どこかへ行こうとしていた。行こうとして、やめた。
やめたのは、今夜だけかもしれない。




