第二十二話 訂正しない
尾関の家には、自治会の記録が二十年ぶんある。
総会の議事録、会計報告、夏祭りの収支、防犯灯の設置要望書。段ボール六箱のうち、四箱が尾関の会長時代のものである。役を降りるとき、次の代へ引き継ごうとしたが、そんなに要らないと言われた。要らないと言われたものを捨てられなかったので、家に置いてある。
朝、尾関はときどきその箱を開ける。
防犯灯の要望書は、三度出して三度目に通った。役所の担当が代わるたびに一から説明し直し、住民の署名を集め直した。いまも団地の東側に立っている二本は、あれで付いたものである。誰も知らない。付いたものは、最初から付いていたことになる。
この団地でやってきたことは、たいていそうだった。
やった人間しか覚えていない。
その話が回ってきたのは、月曜の午前だった。
ごみ置き場のところで、四号棟の女に言われた。
「尾関さん、聞きました。あれ、全部見間違いだったんですって」
「何が」
「あの晩のことです。誰かがいたって話。うちの主人が聞いてきたんですけど、階段の音は上と下の区別がつかないとか、非常灯が下にあるから影が大きく見えるとか。それで、みんな別々のものを見たように思っただけだって」
「誰が言ってるんだ」
「3階の、堀内さん。管理会社の人に説明したそうです」
尾関は袋を持ったまま立っていた。
「堀内というのは、あの、いつも窓のところにいる人か」
「そうです」
「あの人は、外に出ないだろう」
「出ないから、ずっと見てたって話ですよ」
女は少し声をひそめた。
「うちの主人が言うには、尾関さんが見たっていう人も、宇野さんだったんじゃないかって。ほら、ジャンパー、みんな同じのだから」
尾関は袋をごみ置き場に入れた。ネットをかけ直そうとして、四隅のブロックの位置が違うのに気づいた。誰かがすでにかけ直したあとだった。
「私は見えるほうだ」
「え」
「昔から、見えるほうなんだ」
その日の午後から、電話が続いた。
自治会の役員だった者、昔一緒に祭りをやった者、階の代表をしている者。みんな、同じことを聞いてくる。あれはどうなっているのか。誰の言うことが本当なのか。自治会としてどうするのか。
尾関は、同じように答えた。
「私が見たものは、私が見た。それだけだ」
「じゃあ、堀内さんの話は」
「あの人は三年、部屋にいる人だろう。部屋にいる人間に、外のことが分かるか」
言ってから、それは筋が通らないと自分でも思った。部屋にいるからこそ、外を見ていたことになる。だが、通らないと思ったところで、言った言葉は戻せない。
夕方、集会所で臨時の集まりを開くことにした。
尾関が声をかけたのではない。階の代表の一人が「みんなで一度話したほうがいい」と言い出し、場所を押さえた。尾関は連絡を受けた側だった。二十年、この団地で場所を押さえるのは自分の役目だった。
人は、二十人ほど集まった。
パイプ椅子を並べたのは深津である。管理会社の人間は説明の立場で来ており、前のほうには座らなかった。
最初に、階の代表が話した。堀内から聞いた話を、順番に説明した。窓ガラスに映ること、非常灯の影のこと、階段の音のこと、ジャンパーのこと、止まった時計のこと。
説明のあいだ、部屋は静かだった。
説明が終わると、五階の女が手を挙げた。
「じゃあ、私が見たのは何なんですか」
「影だと思われます」代表が言った。「階段室の入り口に立った人の影が、下から照らされて大きく見えたと」
「誰の影ですか」
部屋が、少し動いた。
「誰かが階段室にいたってことでしょう。その人は誰なんですか」
「それは、分かりません」
「分からないままにするんですか」
二階の男が言った。
「うちは足音を聞いてる。上から下りてくる音だと思ったけど、下から上がってくる音かもしれないって話でしょう。じゃあ、あの時間に階段を上がった人がいるってことだ。誰なんだ」
「あの晩、みんな家にいたって言ってるじゃないですか」
「言ってるだけだろう」
その一言が出たときに、部屋の空気が変わった。
あちこちで、小さく話し始めた。あんたのところは何時に寝たのか。うちは9時には寝ていた。それなら、あの時間に廊下を歩いていたのは誰だ。宇野さんは廊下に出たと言っていた。宇野さん、あなた懐中電灯を持って何をしていたんですか。
宇野が立ち上がった。
「点検です。停電の際は、廊下の非常照明の作動を確認することになっております。記録も残しております」
「非常灯なんて、床に置いてあるんでしょう。三年も」
「置いてありますが、通電しております」
「通電してるって、それ点検になるんですか」
宇野は口の中で何か言い、それから座った。座ってから、バインダーを膝の上で持ち直した。
尾関は前に出た。
出れば静かになると思った。二十年、この場所で何度もそうしてきた。手を上げて、みんな、と言えば、話がやむ。
「みんな」
半分は静かになった。半分は、まだ話していた。
「順番に話そう。こういうことは、順番に話さないと、必ずこじれる。私は自治会長をやっていたときから、そう言ってきた。まず、事実を確かめる。次に、原因を考える。最後に、対策を決める。この順番を守れば」
「尾関さんは、何を見たんですか」
声が飛んだ。誰が言ったか、尾関には分からなかった。
「私は、ジャンパーを着た男を見た」
「それ、宇野さんだったんじゃないんですか」
「違う」
「なんで違うって言えるんですか」
尾関は口を開いた。
開いてから、そこに、いくつかの言葉があるのが分かった。あの晩は暗かった。距離もあった。目の薬を差している。夕方は少しにじむ。私は前にも一度、宇野を佐久間と呼び違えた。あの日は、まだ明るかった。明るくても間違えた。
その全部を、言わずに済ませる言い方が一つだけあった。
「私は、見えるほうだ」
部屋が静かになった。
静かになり方が、いつもと違っていた。二十年前、みんなが黙るときは、こちらの話を聞くために黙った。いまは、聞くのをやめるために黙っている。
「尾関さん」五階の女が言った。「私、あなたの見たものを信じてたんですよ。ずっと」
「信じてくれていい」
「もういいです」
女は椅子に座り直し、こちらを見なくなった。
集まりは、一時間ほどで終わった。
結論は出なかった。誰かが記録を取っていたわけでもない。ただ、二十人が集まって、互いに、あの晩どこにいたのかと聞き合って、それから帰った。
帰る人の流れの中で、佐久間が近づいてきた。
「尾関さん、お疲れさま」
「なんだ」
「いや、あんたが言わなかったら、もっとひどくなってたよ。ああいうときに前に出る人がいないと、団地は崩れるからね」
尾関はパイプ椅子をたたんでいる深津のほうを見た。
「あんたも、そう思うか」
佐久間は椅子を二つ重ねて、脇へ寄せた。
「みんな、あの晩は家にいたんだよ」佐久間は言った。「家にいて、それぞれ怖い思いをした。それだけのことだ。誰かを探したって、出てきやしない。もうすぐこの建物はなくなるんだから」
「そうだな」
「そうだよ」
佐久間は椅子を運びに行った。
尾関は最後の一脚をたたみ、壁に立てかけた。立てかけてから、部屋を見回した。
誰も、自分に話しかけてこなかった。




