第二十一話 同じところから
深津は、水曜の午後に来た。
前もって、集会所の名前で紙が入っていた。何日の何時ごろにうかがいます、ご都合が悪ければお知らせください、と書いてある。堀内はその紙を、机の上に置いたままにしていた。捨てるのが惜しかったからではない。捨てる理由がなかった。
「先日うかがった内容を、こちらで整理しました。誤りがないか、見ていただけますか」
上がってもらった。座布団はないので、椅子を出した。三年前に一つだけ買ったものである。自分は窓辺の椅子に座った。
紙は三枚あった。時刻順に並んだ表と、七号棟の平面図に印をつけたものと、もう一枚。
「これは、ほかの方からうかがったものです」深津は言った。「お名前は伏せています。堀内さんの時刻と突き合わせたいので、内容だけ」
堀内は受け取って、上から読んだ。
四階の東側。窓の外に人が立っていたように見えた。窓は閉めていた。
五階。廊下に出たら、階段室の入り口に背の高い人影。二メートル近かった。
二階の西側。階段のほうで足音。上から下りてくる音だと思った。確かめには出ていない。
三階の別の家。窓ガラスに人が映ったので振り返った。誰もいなかった。
自治会の元会長。ジャンパーを着た知らない男。佐久間ではない、宇野でもない。
四号棟の女性。9時20分に下で物音。
「私が申し上げた時刻と、合っておりますでしょうか」
「合っています」堀内は言った。「四階の明かりは10時に近い時刻でした。この方が窓の外を見られたのが、その前後でしたら、合います」
「五階の方は」
「あの家の明かりも、10時に近かったと思います。廊下へ出られたのなら、そのすぐあとでしょう」
深津は書き取った。
一時間ほどで、確認は終わった。堀内は自分の言った時刻を一つずつ確かめ、間違っていたところを二つ訂正した。深津は帰り際に、その三枚のうち二枚を置いていった。
「こちらは控えです。お手元に置いてください。何か思い出されたら、書き足していただけると助かります」
「よろしいのですか」
「お名前は伏せてありますので」
玄関で靴を履きながら、深津が言った。
「三年前の転入手続きの控えを、確認しました」
堀内はドアノブに手をかけたまま、動かなかった。
「担当は、私でした」
「……そうですか」
「申し訳ありません。覚えておりませんでした」
謝られた。
堀内は、その言葉を一度、頭のなかで置き直した。この人は、覚えていないことを謝っている。忘れていたことを、悪いことだと思っている。
「気になさらないでください」堀内は言った。「あの日は、私も何も申し上げませんでしたので」
深津は頭を下げて、帰っていった。
ドアを閉めて、堀内は少しのあいだ玄関に立っていた。
あの32分を、この人は持っていない。持っていないほうが普通である。窓口に立つ人は、一日に何人も相手にする。こちらは一人しか相手にしていない。同じ32分でも、重さが違う。
重さが違うということを、堀内はこの三年で一度も考えたことがなかった。
夜になって、机に紙を並べた。
深津が置いていった二枚と、自分がこの一週間に書き足したものである。書き足したのは、時刻ではない。誰が、いつ、どこを通るか。三年ぶんの、頭のなかにあるものを書き出したものだった。
カーテンは半分開けてある。部屋の明かりを点けているので、ガラスに机の上が映っている。紙の白いところが、外の景色に重なって浮いていた。
堀内は一枚目を見た。
四階の東側。窓の外に人が立っていた。窓は閉めていた。
あの家は、10時に近い時刻に明かりを点けている。懐中電灯か、ろうそくか。何にしても、部屋のなかに小さな明かりがある状態である。
部屋に明かりがあって、外が暗ければ、窓ガラスは鏡になる。
堀内は顔を上げた。目の前のガラスに、自分が映っている。手を上げると、向こうも上げた。
あの人が見た「窓の外に立っている人」は、窓の外にはいない。
二枚目。
五階。階段室の入り口に、背の高い人影。二メートル近かった。
あそこの非常灯は、床に置いてある。三年前から置いてある。堀内は毎日その前を通る。床から照らせば、そこに立つ人の影は壁を上って、天井のところで折れる。実際より、はるかに大きくなる。
二メートル近い人影は、二メートル近い人ではない。
三枚目。
二階の西側。階段のほうで足音。上から下りてくる音だと思った。
この階段は、上の音も下の音も、同じところから聞こえる。堀内はそれを、引っ越してきた最初の年に覚えた。廊下を確かめに出て、誰もいなかったことが二度ある。二度目からは出ないことにした。
上から下りてくる音だと思った、というのは、思っただけである。
四枚目。
三階の別の家。窓ガラスに人が映ったので振り返った。誰もいなかった。
これは、振り返った人が正しい。誰もいない。映ったのは、その部屋のなかのものである。
五枚目。
ジャンパーを着た、知らない男。
あのジャンパーは、自治会が全戸に配った。紺色で、反射のテープが付いている。夜に見れば、テープの位置と輪郭しか分からない。誰が着ていても同じ形になる。
それに、あの元会長は、前にも間違えている。
堀内は覚えている。二か月ほど前の夕方、買い物から戻る途中で見た。あの人が自転車置き場の屋根の下から、七号棟の入り口を横切る人に向かって、佐久間さん、と呼んだ。振り返ったのは宇野だった。堀内は少し離れたところで足を止め、二人が笑って別れるまで待ってから、棟へ入った。まだ日が完全に落ちる前だった。明るいうちでも、間違えていた。
六枚目。
9時20分に、下で物音。
これは合わない。
堀内は自分の書いたものを見た。四号棟の3階の部屋に明かりが点いたのは、9時20分ではない。あの棟は正面から見えるので、点いた窓は分かる。9時50分前後だった。
物音を聞いて、明かりを点けたのなら、物音は9時50分ごろである。
ではなぜ、あの人は9時20分と言ったのか。
時計を見たからだ。
止まっている時計を。
堀内は椅子から立ち上がった。
立ち上がって、また座った。
紙を全部、机の上に広げ直した。
誰も嘘をついていない。全員が、自分の見たものを言っている。ただ、見たものが、見たと思ったものと違っていた。
窓に映った自分。床の明かりが作った影。上下の分からない足音。同じ形のジャンパー。止まった時計。
どれも、この団地にあるものである。
外から来た誰かではない。この棟に住んでいる人間と、この棟に置いてあるものと、この棟の暗さで、全部説明がつく。
七人が七通りのものを見たのではない。
七人が、お互いを見ていた。
堀内はしばらく動かなかった。
この団地の人たちは、二か月のあいだ、誰か知らない者がいたと言い合ってきた。夜の立ち話の場所が変わり、挨拶の距離が変わり、犬の散歩の経路まで変わった。その全部が、隣の部屋の人の影と、自分の顔と、止まった時計のためだった。
窓の外は暗い。向かいの棟の窓が、いくつか光っている。
あそこに住んでいる人たちの生活を、堀内は全部知っている。何時に出て、何時に帰るか。どの部屋の子どもが夜泣きをするか。誰が最近やつれたか。
知っているのに、名前を三つしか知らない。
見ていることは、知っていることではなかった。
もう一つ、残った。
9時47分に、棟の入り口の扉が鳴った。10時20分に、もう一度鳴った。
あのあいだ、下を東から西へ、腰の高さの明かりが動いた。
あれは、映り込みではない。影でもない。ガラスの向こうではなく、こちら側の地面を動いていた。時計も関係がない。堀内は自分の携帯で時刻を見ている。
誰かが、外にいた。
全員が、家にいたと言っている。全員である。
堀内は紙をそろえ、上から順に読み直した。読み直すあいだ、指が震えているのに気づいて、机の縁を握った。
見間違いだったと分かれば、みんな安心する。
安心したあとに、残る。
一人だけ、本当に外にいた人が。
堀内は時計を見た。10時40分。集会所はもう閉まっている。
紙を封筒に入れ、上着を椅子の背にかけた。それから窓辺に戻り、椅子に座って、外を見た。
今夜は誰も歩いていなかった。




