第二十話 以上です
報告書は、木曜日に提出することになった。
本社の法務が内容を確認したうえで、遺族と警察への説明資料として残す。処理としてはそこで終わりである。工事の入札は年明けで、解体の準備はもう動き出している。
深津は水曜の夜に清書した。
経緯の欄には、確認できた事実だけを書いた。停電の時刻は複数の証言があること、復旧の時刻に幅があること、外へ出たと答えた住民はいないこと、棟の入り口の扉の開閉音を二名が別々に聞いていること。手すりの補修については、発注記録がない旨と、写真の添付。
書きながら、何度か手が止まった。
止まるのは、いつも同じ箇所だった。原因の推定を書く欄がないところで止まる。書く欄がないのだから、止まる必要はない。それでも止まる。
茅野は木曜の午後に来た。
いつもと同じように泥を落とし、いつもと同じ椅子に座った。深津は報告書と、添付の一覧表を出した。
茅野は最初のページから順に読んだ。読む速さが一定で、途中で戻ることがない。三分ほどで最後まで行き、それからもう一度、経緯の欄に戻った。
「扉の音は、二人が聞いているんだな」
「はい。階段室にいた住民と、3階の住民です。時刻がほぼ一致しています」
「9時47分と、10時20分」
「はい」
「外へ出たと答えた人間はいない」
「おりません」
茅野は書類を机に置き、角を揃えた。
「これは、誰かが出入りしたということだ」
「そうなります」
「その誰かは、うちの調べる範囲か」
深津は答えなかった。
「警察には出す。うちが判断することじゃない」茅野は言った。「うちが書くのは、聞いた話を聞いたとおりに書くところまでだ。そこから先へ行くと、うちが決めたことになる」
「はい」
「聞き取りの原本は」
深津はスチール棚からファイルを出した。一覧表の元になった手帳の複写と、各戸の記録である。堀内の証言の別紙も入っている。篠田の訂正も、名前つきで綴じてある。
茅野は受け取り、順に繰った。
「篠田さんというのは、高校生か」
「はい」
「未成年の証言を載せるなら、保護者の同意が要る場合がある。法務が言うだろう」
「本人には、名前が載ることを説明しています。同意も得ています」
「保護者には」
「……伝えていません」
「伝えろとは言わない。法務が要ると言えば、そのとき考えろ」
茅野はファイルを閉じた。閉じてから、机の上を見た。手帳が置いてある。深津が今朝まで使っていたもので、日付の欄に赤い印がいくつかついている。
「以上か」
深津は湯呑みに手を伸ばしかけて、その手を膝に戻した。
手帳のあいだには、二つに折った紙が挟んである。日付と戸番と、階と方向。線にすると一階から五階まで上がっていく経路になる紙である。
一拍置いた。
「以上です」
「分かった」
茅野は書類とファイルを鞄に入れ、留め具を閉めた。それで終わりだった。
なぜ出さなかったのかを、深津はそのあと順番に並べてみた。
第一に、あれは退去手続きの記録である。事故の経緯とは関係がない。関係のない書類を添付すると、報告書の性質が変わる。
第二に、出せば佐久間の名前が載る。載れば、本社の法務は必ず確認を求める。この人物は誰か、なぜ全戸を回っていたのか、会社との関係は。
第三に、確認を求められれば、佐久間本人に聞くことになる。誰が聞くにせよ、聞かれた側は、責められていると受け取る。世話を焼いただけの人間が、書類の上で「不審な行動」の欄に入る。
第四に、あの人は何もしていない。
並べ終わって、深津は自分の指が手帳の端を押さえているのに気づいた。
どの理由も正しかった。四つとも、業務の言葉で説明できる。説明できないのは、なぜ「以上です」と言ってしまったのかということだった。
黙っていることと、以上ですと言うことは違う。前者は、聞かれなかったことに答えなかっただけである。後者は、聞かれたことに答えた。
深津は手帳を開き、折った紙を出した。
広げて、線を見た。一階から五階へ、廊下に沿って、端から端へ。
この紙を明日出しても、遅くはない。追加でご報告します、整理が済んでいませんでした、と言えばいい。茅野は理由を聞かないだろう。
明日でも、来週でもいい。
深津は紙を折り直し、手帳に挟んだ。挟む場所を、後ろのほうのページに変えた。
報告書が出たことは、その週のうちに住民へ伝わった。
伝えたのは深津ではない。伝わり方も、いつもと同じで、誰が最初に言ったのかは分からない。
「もう終わりなんですって」
棟の下でそう言われた。四階の、窓の外に人が立っていたという家の人である。
「終わり、といいますと」
「調べるの。会社としては終わりなんでしょう。自殺ってことで」
「原因を決めるのは警察です。うちは経緯をまとめただけですので」
「じゃあ、あの晩に外にいた人のことは、どうなるんですか」
深津は答えを探した。探しているあいだ、相手はこちらの顔を見ていた。
「私は、見たんですよ」その人は言った。「見たものが、どこにも行かないままなんです」
どこにも行かないまま。
そのとおりだった。二十人近い人が、それぞれの見たものを話して、その全部が紙の上に並んで、並んだまま止まっている。並べても、どこにも行かない。
その人は、それ以上は言わずに行った。
週明け、集会所の窓から茅野の車が見えた。
来る予定は聞いていない。深津は書類を置いて立ち上がりかけ、そのまま座った。
車から降りた茅野は、集会所のほうへは来なかった。並木の手前で、コートの男と立ち話を始めた。先月から何度か見かけている、警察の人である。
二人は五分ほど話していた。
茅野は途中で二度、手帳を出して何か確認した。男のほうはうなずいて、それから七号棟のほうを指した。指してから、何か言った。茅野が首を振った。
深津は窓から離れた。
離れて、机に戻り、退去の面談の予定表を開いた。開いてから、また窓のほうを見た。
二人はもういなかった。車も出ていた。
夕方、茅野から電話があった。用件は工程の話だった。年明けの入札の日程が一週間早まったので、退去の面談を前倒しにできるかという確認である。深津は空きを見て、二件動かせると答えた。
「それから」茅野は最後に言った。「報告書は受理された。法務からは何もない」
「ありがとうございます」
「篠田さんの件も、そのままでいいそうだ」
「分かりました」
「今日、警察の方と少し話した」
深津は受話器を持ち直した。
「うちに聞きたいことがあるそうだ。何を聞かれるかは言わなかった。窓口は私だから、お前のところへは行かない」
「はい」
「何かあれば言う」
電話が切れた。
深津はしばらく受話器を持っていた。何かあれば言う、というのは、たぶん本当に言うという意味である。この人は、そういうところで嘘をつかない。
自分が今日、何かを言う機会は二度あった。二度とも黙っていた。
深津は手帳を開き、後ろのページの紙を確かめた。
あることを確かめただけで、広げはしなかった。




