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三十一センチの向こう側  作者: 春凪とおる


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第二話 名前市場と、キツネの橋

 灯台へ行く道は、市場の中を通っていた。


 坂を下りきると、大きな屋根の下に、店がずらりと並んでいる。

看板には『名前市場』とあった。


「名前を売ってるの?」

「売ってるのは言葉。名前も、言葉のうちだから」


 ソラは肩の上で、そっけなく言った。

 店先には、ガラスの瓶が山のように積まれている。

 瓶の中を、文字が魚みたいに泳いでいた。


『ありがとう』は金色。『おめでとう』は赤。

『またね』は、ふわふわした水色の尾をひらひらさせている。


 航太は思わず足を止めた。


「すごい……」

「見とれてないで。ほら、こっち」

「ちょっとだけ! あ、これ『ひみつ』って書いてある。ふたが開かないや」

「開けるな。大事な瓶ほど、ふたがかたいんだ」

「ふーん。これは? 『おなかすいた』」

「それは安い」


 航太は笑った。ソラも、ちょっとだけ笑った。

 けれど、市場は静かすぎた。


 店番のそろばんや万年筆たちは、店先でうとうとしている。

風がないので、看板も、のれんも、ぴくりとも揺れない。


 ぴし。


 小さな音がした。

 航太のすぐ横の瓶に、細いひびが入っていた。

中で泳いでいた『ごめんね』が、ひびに向かって、ぐい、ぐい、と体当たりしている。


「あ」


 ぴしぴし。

 ぱりん。


 瓶が割れた。


『ごめんね』が飛び出す。

それを見た隣の瓶の言葉も、そのまた隣の瓶の言葉も、いっせいに騒ぎだした。


 ぱりん、ぱりん、ぱりぱりぱりぱり!


「やばい、やばい、やばい!」


 ソラが翼をばたつかせた。


「風が止まってるから、瓶の封がゆるんでたんだ!」


 市場じゅうの言葉が、空へ舞い上がった。


『さよなら』『まって』『わすれた』『いやだ』『また明日』


 文字は虫の群れのように渦を巻き、くるりと向きを変えて、まっすぐ航太に飛んできた。


「えっ、ぼく!?」

「宛先がないんだ! 届けたくて、でも宛先がなくて、近くにいる誰かにくっつく!」

「早く言ってよ!」


 言葉が、体じゅうにはりついた。

 顔にも、腕にも、背中にも。


くすぐったい。


『ねむい』が耳にとまり、『おなかすいた』が鼻の頭にぺたっとついた。

 そして、全部が髪にからみついた。

 ぐいっ、と頭が後ろへ引っぱられる。


「いたたたた!」


 束ねた髪が、何十もの言葉に引っぱられている。

リボンがずれ、結び目がゆるみ、文字がその間に入りこんで、もつれていく。


「ソラ、取って! 取って取って!」

「ぼくは配達係であって、取る係じゃない!」

「手伝ってよ!」

「宛先のない言葉は配達不可だ! 放っておけば、そのうち飛んでいく!」


「そのうちって、いつ! ぼくの髪、今ちぎれそう!」

「じゃあ、引っぱれば!」

「引っぱったら、もっと絡まるよ!」


 言い返してから、航太ははっとした。


 そうだ。


 毎朝、髪を結んでいる航太は知っている。

絡まったときに力まかせに引っぱると、結び目はかえって固くなる。


 航太は深呼吸した。

 手を伸ばし、髪の中を探る。

 一番外側。飛び出している毛先に近いところ。

 そこに絡んだ言葉の端をつまんで、力を入れずに、少しだけ押し戻すようにして、ゆるめる。

 

『まって』が、するりと外れた。

「あ」


 ソラが目を丸くした。


「外れた」

「毛先のほうから、一本ずつ。コツがあるんだ」

「……ふうん」


 ソラは自分の翼をじっと見た。それから、咳ばらいをして、肩の上でぴょんと跳ねた。


「言葉は封筒に入れる決まりだよ。ぼくのかばんの、空いてる封筒を使え」

「手伝ってくれる?」

「しょうがないな。かばんは貸す」


 航太は髪から言葉を外しては、封筒に入れた。


『わすれた』をはがす。『いやだ』をはがす。

『また明日』は、思ったよりおとなしかった。

『ねむい』は、封筒に入れるとすぐに寝た。


 ほどきながら、航太は気づいた。

 言葉のあいだに、細くて黒いものが混ざっている。


 糸くずだ。


 髪に絡まった言葉の端に、黒い糸が絡んでいる。

指でつまむと、すっと体温を奪われるような、冷たい感じがした。

糸は、ひとりでに指に巻きつこうとする。


 航太は急いで振り払った。糸は石畳にぽとりと落ちて、消えた。


「今の、なに?」


 ソラは、いつもの調子で答えなかった。

 黒い目で、糸の落ちた場所をじっと見ている。


「……前は、こんなの、なかった」


 それだけ言って、すぐ顔を上げた。


「早く終わらせよう。日が暮れる」

「うん」


 最後の一枚は、髪の一番奥にひっかかっていた。


 航太はそっと引き出した。

 折りたたまれた、小さな手紙だった。

 封筒には、鉛筆でこう書かれている。


『ごめんね。あした、ちゃんと』


 そこから先は、水にぬれたみたいににじんで読めない。

宛名の欄も半分破れて、『…へ』という一文字だけが残っていた。


「これだけ、宛先が読めない」

「配達不可の山に入れる」

「入れない」


 航太は、手紙をかばんの封筒にすべりこませた。


「預かる。宛先、あとでわかるかもしれないし」

「勝手に決めるな」

「ぼくの髪にくっついたんだから、ぼくの預かりだよ」

「その理屈、通るかなあ」


 文句を言いながらも、ソラはかばんの口をきちんと閉めた。


 髪を結び直して、リボンを締める。

 これで市場は抜けられる。


 そう思ったとき、前方に橋が見えた。

 市場の端を流れる川に、古い石の橋が架かっている。

その向こうが、灯台への道だ。


 橋のたもとに、小さな屋台があった。


 屋台の前に、シルクハットをかぶったキツネが座っている。

金色の眼鏡をかけて、銀のそろばんをぱちぱち弾いていた。


 屋台には、大きな看板が出ている。


『橋を渡る者、髪ひと束』


「髪……ひと束……?」

「あー」


 ソラが小さな声で言った。


「キツネだ。商売人。話が長いから、気をつけて」


 航太が近づくと、キツネは顔を上げた。


「おやおや、お客さん。ずいぶんと立派な髪をしているね」


 航太は、反射的にリボンを押さえた。


「あの看板、本当?」

「もちろん。この橋の通行料は、髪ひと束。ちょん、と切るだけ。痛くない」

「ぼくの髪は、今日、美容室で切るんです。もう予約してあるから、ここでは切りません」

「おや、そうかい? 切る日が決まっているなら、少し早めても同じことだろう」


 一瞬、航太の手が止まった。


 ひと束。たったそれだけで、灯台まで行ける。

 けれど、すぐに首を振った。


「同じじゃないです」


 航太はきっぱり言った。


「自分で決めた日に、決めた場所で切るんだ」


 キツネの眼鏡が、きらりと光った。


「頑固な子だね。では、髪はいらない。ただし、この橋を渡らなければ、灯台へは行けないがね」

「橋を渡らなければ、通行料はいらないんですか?」

「おや?」

「看板には、橋を渡る者、って書いてあります」


 キツネは眼鏡をくいっと押し上げた。


「その通り。橋を渡る者から、髪をもらう」

「渡る、って、どういうことですか?」

「橋の端から端まで、足を乗せて、向こう岸に着くことさ」


 航太はうなずいた。


「橋の端から端まで、足を乗せる。わかりました」


 航太は、橋のたもとを見まわした。

 川は、それほど広くない。深くもなさそうだ。


 橋のすぐ下の杭に、小さな木の舟が一艘つないであった。

舟の中には長い竿が一本。縁には、色あせた札がぶらさがっている。


『わたしぶね ごじゆうに』


「ソラ、あれ」

「渡し舟だ。川を渡る舟。誰でも使っていいやつ」

「じゃあ、使おう」


 航太は石段を下りた。

 キツネが慌てて立ち上がった。


「おいおい、坊や、どこへ行くんだい」

「向こう岸へ」


「橋はこっちだよ」

「橋は渡りません」


 航太は舟に乗りこみ、竿を手にとって、杭を押した。

 舟が、ゆっくりと岸を離れた。


「ちょっと待て! その舟だって、橋の下を通るじゃないか! 橋の下は、橋のうちだ!」

「さっき、橋を渡るっていうのは、橋の端から端まで足を乗せることだって言いました」


 航太は、竿を川底に突きながら言った。


「ぼくは、橋に足を乗せてません。舟の上です」


 キツネは、口を開けたまま固まった。

 ソラが肩の上で、ぷっと吹き出した。


「そ、そうだ……そう言った……」

「言ったよね」

「言った……言ったが……」


 キツネは、そろばんを握りしめた。


「ちょ、ちょっと待ちなさい! ならば、その舟は渡し舟だ。渡し舟の通行料は、わたしが……」

「札には、ごじゆうに、って書いてありますよ」

 

キツネの尻尾が、へなへなと垂れた。


 舟は橋の下をくぐった。

 石の天井から、ぽたりと水滴が落ちる。薄暗い中を、舟はゆっくり進んだ。


 橋の向こう側へ出ると、まぶしさに目を細めた。


 向こう岸の石段に竿を突いて、舟を寄せる。

 航太は、ぴょんと飛び移った。


 靴の底が少しすべった。でも、ちゃんと立てた。


「やった!」


 ソラが空に向かって、くるりと一回転した。


「あのキツネの顔、見た? 見た? 見たよね!」

「見た!」

「ぼくたち、すごくない?」

「すごい!」


 二人は顔を見合わせて、声を出して笑った。

 背中のほうから、キツネの声が追いかけてきた。


「まったく、近ごろの子どもは口が達者で!」


 けれど、その声に怒りはなかった。むしろ、少しだけ感心しているように聞こえた。

 それから、キツネは遠くを指さした。


「坊や。灯台には、もう長いこと、誰も登れていない。鐘が鳴らなくなってからは、道もよく迷う」

「迷う?」

「行けばわかる。気をつけな」


 航太が前を向くと、灯台は、さっきよりずっと近くに見えた。

 近づくほどに、鐘に巻きついた黒いものが、大きく、重たく見えた。


 空は、まだ動かないままだった。

 航太は、ソラのかばんの口を、そっとのぞいた。


 『ごめんね。あした、ちゃんと』


 誰にも届いていない言葉が、封筒の中で、小さく鳴った気がした。


「……行こう」

「うん」


 二人は、灯台に向かって歩きだした。


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