第一話 鏡から落ちてきた郵便屋
洗面所の時計は、七時四十分を指していた。
美容室の予約は午後三時。まだ七時間以上もある。
それなのに、朝比奈航太は朝から落ち着かなかった。
鏡の前で、背中まで伸びた髪をひとつにまとめる。
黒に少し茶色が混じった髪は、毛先だけがくるんと外にはねていた。
三年間、後ろ髪にはさみを入れていない。
今日、これを切る。
切った髪は、ヘアドネーションで寄付する。
七歳のとき、航太が自分で決めたことだ。
「今日で最後か」
口に出してみると、変な気分になった。
うれしいような、もったいないような。
どっちも本当で、どっちが大きいのか自分でもよくわからない。
洗面台の引き出しから、青いリボンを出す。
紺に近い青い布に、銀色の糸で星が七つ。
祖母が縫ってくれたものだ。
端が少しほつれているのは、三年間、毎朝結んで、毎晩ほどいてきたせいだった。
髪を束ねて、リボンをくるりと回す。きゅっと引いて、蝶結び。
最初は母に結んでもらっていた。今は、目をつぶっても結べる。
それはちょっと自慢だ。
けれど、髪が長くて困ったことは数えきれない。
夏は首の後ろが汗でべたべたになるし、プールのあとは水泳帽の中でぐちゃぐちゃになる。
風の強い日は、顔じゅうにまとわりついた。
それに「女の子みたい」と笑われたことも、一度や二度じゃない。
そのたびに腹が立った。でも、言い返すのも面倒で、いつも黙っていた。
どうせ今日で終わりだ。
「航太ー、ごはんよー」
台所から母の声がした。
「すぐ行く!」
返事をして、鏡に背を向けようとした、そのときだった。
こつん。
鏡の中から、音がした。
ふり返る。鏡には、航太の顔と、後ろの白い壁が映っている。
こつん、こつん。
音は、鏡の内側から聞こえていた。
「……え?」
顔を近づけた瞬間、鏡の表面が水のようにゆらいだ。
何かが、ぼん、と飛び出してきた。
「うわっ!」
航太は尻もちをついた。
洗面台の上に、黒っぽいものが転がっている。
鳥だった。
羽は紙でできていて、折り目がくっきり見える。
翼には、切手が何枚も貼ってある。
目は、黒いインクの点がふたつ。胸には小さな革のかばんをさげていた。
鳥はひっくり返ったまま、足をばたばたさせて叫んだ。
「いたたた! そこの人間! 起こして!」
「しゃ、しゃべった!」
「しゃべるさ、郵便屋だもん! いいから起こして!」
おそるおそる指でつつくと、鳥はころんと起き上がった。
曲がった尾羽をぶるぶる振って、胸をそらす。
「ぼくはソラ。風待ち郵便局の配達係。今、すごく困ってる」
「ぼくは……航太」
「知ってる。朝比奈航太、十歳。長い髪と、青いリボン。やっと見つけた」
「ぼくを探してたの?」
「鏡の通り道が開くのは、ほんの少しの間だけなんだ。その間に、助けてくれそうな人を探してた。そしたら、ちょうど君が鏡の前にいた」
「ちょうど、いただけ?」
「ちょうど、いただけ」
ソラは堂々と言った。
航太は拍子抜けした。もう少し特別な理由があるのかと思った。
「で、何に困ってるの?」
「風が止まった」
航太は窓を見た。庭の木が、さわさわと揺れている。
「吹いてるよ」
「君の世界の風じゃない。ぼくらの町で、手紙や贈り物を送り出す風だよ」
ソラは、かばんから紙を引っぱり出した。
くしゃくしゃの地図だった。
海に面した小さな町。屋根の上には郵便受けが並び、真ん中に高い灯台が立っている。
灯台のてっぺんの鐘だけが、黒いぐるぐるで塗りつぶされていた。
「あの鐘が鳴ると、風が吹く。風が吹くと、手紙が飛ぶ。でも今は全部止まってる。ぼくも風がないと、遠くまで飛べない。配達係なのに」
ソラの翼が、しょんぼり下がった。
「だから、手伝ってほしい」
「ぼくが? 鳥にできないことを?」
「鳥には、手がないだろ」
「それは、そうだけど」
言い返せなくて、航太は口をとがらせた。
それから、洗面所の時計を見た。七時四十五分。
「ぼく、今日は用事があるんだ。午後三時に、髪を切りに行く」
「三時? それなら大丈夫。鏡の扉が開いている間は、君の世界の時間はほとんど動かないんだ。ちょっと行って、ちょっと助けて、帰ってくればいい」
「ちょっとって、どのくらい?」
「ちょっと」
航太は考えた。
鏡の向こう。紙の鳥。風の止まった町。
映画でしか見たことのないような不思議な鳥が、洗面台の上から航太を見上げている。
それに、しょんぼりしたソラを置いていくのは、なんだか嫌だった。
「……ちょっとだけなら、間に合うよね」
「間に合う、間に合う! 郵便屋は時間を間違えない!」
少し怪しい自信だった。
「お母さん! もうちょっと髪を整えてる!」
「早くしなさいよー!」
母の声を背中で聞いて、鏡に向き直る。
さっきまで映っていなかった扉が、そこにあった。
古ぼけた、緑色の木の扉。
ソラが肩に飛び乗った。紙の足が、ちくりとする。
「行くよ。目をつぶって。着地は、まあまあ痛い」
「まあまあって――」
言い終わる前に、鏡が航太を飲みこんだ。
冷たい。ぐるぐる回る青と赤。
封筒みたいな白い紙が、顔の横を流れていく。
どすん。
航太は、石畳の坂道に転がり出た。
膝がじんじんした。足が痛くて、まあまあ、どころじゃなかった。
「ごめん、ごめん。ほら、顔を上げて」
顔を上げると、海の匂いがした。
封筒のように薄い建物が、坂の両側にぎっしり並んでいる。
屋根は切手みたいにぎざぎざで、街灯には小さな光を入れたガラス瓶がぶらさがっていた。
空には、紙飛行機が浮かんでいた。
けれど、一機も動いていない。
空中で、ぴたりと止まっている。
港の船も、坂を歩く古時計も、みんな動きを止めたみたいに静かだった。
町の真ん中に、灯台が立っていた。空を突き刺すほど高い。
そのてっぺんに、大きな鐘が見えた。
鐘のまわりには、黒いものが、ぐるぐると何重にも巻きついている。
「あれを、もう一度鳴らしたいんだ」
ソラの声は、いつもより小さかった。
航太はリボンを結び直した。
――まずは、あそこまで行かなくちゃ!




