Lesson 8 予定を埋めれば考えずに済む
1989年4月25日(火) 08:30
一
オフィスに入る前、廊下の掲示板に貼られた連休予定表を見直し、僕は心の中で舌打ちした。二月半ばから貼られているものだから、いまさら確認する必要なんてない。それでも朝から同僚たちが、その紙の前で浮き立った声を上げていた。
「今年はデカいよな!」
「ハワイ行くの、私」
「私はシンガポール」
四月二十九日から五月七日まで、きっちり九連休。分かっていたし、普通ならありがたい話だ。ところが予定表を眺めているうちに、僕の胸は重くなった。
(母さんに電話しないといけない)
日曜も月曜も、結局できなかった。
(まだ、心を整理できてない)
休みが長ければ、考える時間が増える。考える時間が増えれば、あの夜の言葉を何度も思い出す。そうして受話器を取れば、謝るつもりがまた余計な一言に変わる気がしてならない。
僕は祝日を並べた政府と、九連休を設定した会社を少しだけ恨みたくなった。
席に着いてスケジュール帳を開き、現実逃避の方法を考える。昼も夜も、学院のレッスンを詰め込めるだけ詰めてやろう。会社が休みなら昼のクラスも取れるし、夜だって構わない。
ところが、学院も同じように休みだった。
(そういうときにこそ営業しろよ)
空白を埋めれば、考えなくて済むのに。
実家へ帰ることも考えた。母さんと話すため、ではない。むしろ逆だった。電話で母さんと二人きりになるより、父さんや兄ちゃんたちがいるところで顔を合わせる方がまだましだ。実家なら、母さんもいきなり結婚の話ばかりはできないだろう。
チラッと顔を出して、当たり障りのない話をして、それで終わらせる。結局、考えていることは謝り方ではなく、どうすればまともに話さずに済むかだった。
仕事は、そんな僕を容赦なく連休へ押し込んでいった。通関も書類も前倒しで進め、いつもより二日分先まで片づける。机の上が紙で埋まるのは嫌いじゃない。期限と数字が並んでいるあいだは、何をすればいいのかが分かる。
忙しさは、罪悪感の隙間にちょうどよく詰まってくれた。
二
その夜、僕はいつも通り学院へ向かった。ジェニファー先生のクラスだった。
教室のドアが開くなり、彼女の明るい声が飛んでくる。
"Okay, everyone! Today, we're going to talk about where you live!"
(よし、みんな! 今日は住んでいるところについて話すわよ!)
――住んでいるところ。
その言葉を聞いた瞬間、僕は妙に安心した。母さんの話でも、結婚の話でもない。ただの家だ。建物で、箱で、壁と屋根があって、部屋数や広さを説明すれば済む。
最初に和装の女性が話し、続いてOLさんが二人。駅から近いとか、キッチンが狭いとか、日当たりがいいとか、それぞれ自分の暮らしを簡単な英語にしていく。
"Wonderful! Beautiful! I love it!"
(すばらしい! 素敵! 大好き!)
いつものように、ジェニファー先生は大きく頷いて拍手する。教室に笑いが起き、その軽さに僕も少し救われた。
僕の番が来る。
"NAO! Your turn!"
(ナオ! あなたの番!)
"My house is fifteen minutes from my office by car."
(僕の家は、会社から車で十五分です)
"It has five rooms, a living room, a dining room, and a kitchen. It's too big for one person."
(部屋が五つあって、それにリビングとダイニング、キッチンがあります。一人暮らしには大きすぎます)
"There is a big yard. And the house used to be a farm warehouse."
(大きな庭があります。それと、この家は昔、農業倉庫でした)
距離、部屋数、元の用途。自分でも、いかにも僕らしい説明だと思う。感情が入らないから楽だった。
そこで、庭の隅にある石窯の話をした。
"And in the yard, we have a stone oven."
(それと、庭に石窯があります)
"We can use it for smoking, baking, and steaming."
(燻製にも、焼き物にも、蒸し物にも使えます)
"We can bake six medium pizzas at the same time."
(Mサイズのピザなら、同時に六枚焼けます)
日本語なら、まだいくらでも説明できる。けれど英語では、知っている単語に置き換えるしかなかった。薪を入れるところは両手で形を作り、熱が中を回る様子を指で描き、石の厚みは両手の幅で表す。正しい単語が出なくても、ジェニファー先生は僕の言いたいことを拾ってくれた。
そんなふうに話しているうちに、ふと違和感を覚えた。いつもなら相槌も身振りも止めない彼女が、僕を見たまま黙っている。
"…Are you okay, Jennifer-sensei?"
(……どうかしましたか、ジェニファー先生)
彼女は二度瞬きをしてから、確認するように身を乗り出した。
"You mean… a real stone oven? At your house? Really?"
(本物の石窯ってこと? あなたの家に? 本当に?)
"Yes. It's real. We also have a barbecue grill."
(はい。本物です。バーベキュー台もあります)
その瞬間、彼女の顔が点火したみたいに明るくなった。
"Oh my God. NAO, you live alone, right?"
(ちょっと待って。ナオ、一人暮らしよね?)
"Yes…"
(ええ……)
"Could we have a party there? A big one?"
(そこでパーティーできる? 大きいやつ!)
僕は返事をする前に、一度だけ瞬きをした。どうして家の説明が、そういう話になるんだ。
三
レッスンが終わると、ジェニファー先生は廊下へ飛び出し、夜シフトの講師たちを捕まえて石窯の話を始めた。
ネイティブ同士の会話は、授業中とは速さが違う。全部は聞き取れない。それでも、僕の家と石窯が話題になっていることくらいは分かった。
"No way. You're exaggerating, Jenny."
(うそでしょ。ジェニー、盛ってるよ)
別の先生も笑う。
"Six pizzas at once? Come on."
(同時に六枚? ないない)
僕の中で、何かがカチンと鳴った。別にムキになる必要はないし、僕の家が疑われたところで困るわけでもない。それなのに、昔からそこにあるものを、大げさな作り話みたいに言われると妙に腹が立った。
気がつけば、一歩前へ出ていた。
"Seeing is believing."
(百聞は一見に如かずです)
自分の口からそんなフレーズが出てきたことに、僕自身が少し驚いた。
"Do you want to see it?"
(見てみますか)
言った瞬間、ジェニファー先生の目が輝いた。
"Yes! April twenty-ninth! Let's all go!"
(行きたい! 四月二十九日! みんなで行きましょう!)
「え?」
僕が聞き返すより早く、彼女は周りの講師たちへ声を掛け始めた。誰が来る、誰が車を出す、何を持っていく。夜シフトだけではなく、昼シフトの講師にも声を掛けようという話まで出ている。
数分前まで「見てみますか」という話だったはずなのに、いつの間にかパーティーの開催が決まっていた。本来なら、ここで止めるべきだった。
(家に人が来れば、母さんのことを考えなくて済む)
その考えが頭をよぎる。
(少なくとも、連休の初日は埋まる)
僕は結局、「ちょっと待ってください」と言わなかった。
四
四月二十八日のレッスン前、僕は参加予定者を聞かされた。
ジェニファー先生、ベネット先生、スミス先生、マーカス先生。そのほか講師が数人。合わせて十人前後になるらしい。
「十人……」
思わず日本語で呟いたが、嫌だとは思わなかった。むしろ人数を聞いた瞬間から、頭の中で庭の動線を組み替えていた。
テーブルは物置から二台出せば足りる。椅子は室内用を何脚か持ち出す。ピザ生地は余裕を見て八枚分。薪は前日に乾いたものを選び、燻製は火入れの前に仕込んでおいた方がいい。
肉だけでは重いから、実家でもらった野菜も使える。冷蔵庫の中身は今夜から減らしておけば、材料を入れる場所も空く。飲み物は向こうが持ってくると言っていたが、水と氷くらいはこちらでも用意しておこう。
何時に火を入れ、何時に温度を上げ、みんなが来るころに最初の一枚を焼けるか。庭のどこに人が集まり、どこなら出入りの邪魔にならないか。そんなことを順番に考えていると、いつの間にか頭の中がそれだけで埋まっていた。
そういうことを考えている間だけ、母さんの声が遠のいた。
帰り道、信号待ちで止まり、僕は小さく息を吐いた。安堵というより、空白が埋まったことへの妙な安心だった。九日も続く連休の最初の日に、朝から準備する理由ができた。買い出しへ行き、庭を片づけ、薪を割り、料理をする。
少なくとも、そのあいだは受話器の前に座らなくて済む。
(家に帰ったら、さっそく段取りだな)
信号が青に変わり、僕はハンドルを握り直した。
石窯は、たしかに庭の隅にある。僕にとっては、昔からそこにある古い設備にすぎない。数年ほとんど使わず、この前ようやく中に残っていた灰を掃除したばかりだ。
けれど、どうやら僕が思っているより、ずっと珍しいものらしかった。




