Lesson 7 心を持っていかれるのが怖い
1989年4月22日(土) 00:06
一
受話器を叩きつけた音が、まだ耳に残っていた。
玄関に座り込んだまま、僕は壁に背を預けている。蛍光灯の白い光が靴箱の木目を浮かび上がらせ、時計の秒針だけが規則正しく動いていた。息はとっくに落ち着いているはずなのに、胸の奥だけが妙にざわついている。
――何を言った。
母さんに言い返す間も与えず、僕はまくし立てた。
清隆と清和は孫じゃないのか。兄ちゃんがどれだけ気を遣っていると思ってる。僕は血を繋ぐための種馬か。兄ちゃんがいるのに、どうして二年後に僕を産んだ。
最後の方は、ほとんど叫んでいた。
順番も理屈もなかった。ただ、長いあいだ押し込めていたものが、出口を見つけて一気に噴き出した。その中でも「種馬」という言葉だけが、ひどく鮮明に残っている。
(取り返しのつかないことを言った)
分かっている。分かっていて、一番痛いところを突いた。
――誤射。
いや、違う。分かって撃ったなら、誤射じゃない。ただの八つ当たりだ。
母さんの声の震えが、耳の奥に残っている。僕は途中から「泣き落としだ」と決めつけた。そう思わなければ、自分の言葉の重さに耐えられなかったのだと思う。
あの沈黙の向こうで、母さんは泣いていたんだろうか。
頭を抱えたまま、いつの間にか目を閉じていた。
新聞受けの金具が風で鳴り、目を開ける。玄関脇の小窓が、いつの間にか青白くなっていた。どうやら、そのまま夜を越したらしい。
背中と腰が痛い。首を回すと鈍い音がした。
電話は鳴らない。
鳴ってほしくない気持ちと、鳴ってほしい気持ちが、同じ場所に居座っていた。
二
午前中は何も手につかなかった。
顔を洗い、歯を磨き、着替えた。土曜日なら洗濯をして、掃除機をかけ、昼前には買い物へ出る。それがいつもの順番なのに、今日は一つ終えるたびに、次に何をするのか分からなくなった。
昼を少し過ぎた頃、玄関のチャイムが鳴った。
「……開いてるか」
兄ちゃんの声だった。
「開いてるよ」
引き戸が開き、春の空気と一緒に土の匂いが入ってくる。兄ちゃんは野菜の入った段ボール箱と、一升瓶の入った手提げ袋を持っていた。
「酒も持ってきた」
「……うん」
僕の顔を見て、兄ちゃんは眉を上げた。
「ひどい顔だな」
「まあね」
それ以上は聞かなかった。茶の間へ上がると、兄ちゃんは僕が出した湯呑みに酒を注ぐ。
「車は?」
「今日は恵子に送ってもらった。帰りは電話しろってさ」
「そっか」
米の甘い匂いが立った。実家の酒だ。
僕らはしばらく黙って飲んだ。兄ちゃんは急かさないし、僕も自分から切り出せなかった。何杯目か分からなくなった頃、兄ちゃんが湯呑みを置いた。
「母さん、泣いてたぞ」
喉が詰まった。
「……そう」
「電話切ってから、しばらく台所に座ってた。親父は何も言わんかった」
「……そのつもりはなかった」
「分かってる」
兄ちゃんは視線を落としたまま、少し間を置いた。
「俺のせいだ」
「何で兄ちゃんが」
「俺は、ずっと関係あると思ってる」
淡々とした言い方だった。だから余計に腹が立った。
「それ、やめろよ」
「何を」
「何でも自分のせいにするの」
兄ちゃんは返事をしない。
「僕は兄ちゃんを守ったつもりだった」
「守らんでいい」
即答だった。
少しだけ腹が立つ。守りたいわけじゃない。見ていると、勝手に守りたくなるのだ。
「守らんでいいって言われても……」
「直樹」
兄ちゃんは湯呑みを指先で回した。
「母さんは、お前を責めたいわけじゃないと思う。たぶん、焦ってるんだ」
「何に」
「知らん」
兄ちゃんは小さく息を吐いた。
「親父が年取ることかもしれんし、お前が家から離れていくことかもしれん。俺には分からん。ただ……母さんも、昨日は言い方が悪かった」
「兄ちゃんは、腹立ってないの」
「立ってるよ。母さんにも、お前にも、自分にも」
そう言って、兄ちゃんは酒を飲んだ。
僕も湯呑みを傾けた。少し苦かった。
三
「兄ちゃん」
「うん」
「あかね農高で、モテたろ」
兄ちゃんの手が止まった。
「……誰に聞いた」
「恵子さん。笑ってた」
兄ちゃんは露骨に嫌そうな顔をした。
「余計なことを」
「じゃあ、本当なんだ」
「昔の話だ」
僕は湯呑みを置いた。
「それで、何で恵子さんだったの?」
兄ちゃんはしばらく考えた。恵子さんは高校卒業前に実家へ押しかけ、父さんと母さんを相手に話をつけて、それから兄ちゃんと付き合い始めた。思い立ったら一直線という人だが、兄ちゃんはその逆に見える。
「……あいつだけは、頭から離れんかった」
「それだけ?」
「それだけで十分だろ」
兄ちゃんは少し照れたように鼻をこすった。
「向こうが勝手に来て、勝手に親父たちと話して、気づいたら逃げ道なくなっとった」
「それ、恵子さんが聞いたら怒るよ」
「聞かせるな」
二人で少しだけ笑った。
羨ましい、というのとは少し違った。
「僕さ」
「うん」
「誰かに、そこまで心を持っていかれるのが怖いのかも」
口にしてから、自分で驚いた。
兄ちゃんは何も言わず、湯呑みを少し持ち上げた。乾杯というほど大げさでもなく、続きを促すでもない。
それで十分だった。
四
一升瓶の中身がだいぶ減った頃、兄ちゃんは立ち上がった。空いた小皿を重ね、段ボールの端を揃え、来たときと同じように静かに帰り支度をする。
「母さんに、電話するか?」
喉の奥が詰まった。
した方がいい。それは分かっている。ただ、いま電話をしたら、謝るつもりがまた別の言葉に変わりそうだった。
「……今日じゃなくて、いいかな」
「明日でもいい。でも、逃げるな」
「……うん」
兄ちゃんは玄関脇の電話を借り、恵子さんに迎えを頼んだ。しばらくして外に車の音が止まると、靴を履き、引き戸へ手を掛けたまま振り返らずに言う。
「直樹。母さんのこと、嫌いになるな」
「……ならないよ」
自分の声が少し掠れていた。
兄ちゃんが帰ると、家の中はまた静かになった。ただ、昨日の静けさとは違って、酒の匂いと野菜についた土の匂いが残っている。
僕は玄関へ行き、昨夜へたり込んだ場所を見た。三和土の冷たさを、足の裏がまだ覚えているような気がする。
電話の前に座り、受話器へ手を伸ばした。
握ったまま、しばらく動けなかった。
(……明日)
ずるいのか、現実的なのか、自分でも分からない。
やがて僕は受話器から手を離し、茶の間へ戻った。兄ちゃんと使った湯呑みを流しへ運び、蛇口をひねる。
水の流れる音が、やけに大きく聞こえた。




