↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
石窯のある家 ――英語より難しい、ふたりの距離  作者: 早瀬 構


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

8/12

Lesson 7 心を持っていかれるのが怖い

1989年4月22日(土) 00:06


一


 受話器を叩きつけた音が、まだ耳に残っていた。


 玄関に座り込んだまま、僕は壁に背を預けている。蛍光灯の白い光が靴箱の木目を浮かび上がらせ、時計の秒針だけが規則正しく動いていた。息はとっくに落ち着いているはずなのに、胸の奥だけが妙にざわついている。


 ――何を言った。


 母さんに言い返す間も与えず、僕はまくし立てた。


 清隆と清和は孫じゃないのか。兄ちゃんがどれだけ気を遣っていると思ってる。僕は血を繋ぐための種馬か。兄ちゃんがいるのに、どうして二年後に僕を産んだ。


 最後の方は、ほとんど叫んでいた。


 順番も理屈もなかった。ただ、長いあいだ押し込めていたものが、出口を見つけて一気に噴き出した。その中でも「種馬」という言葉だけが、ひどく鮮明に残っている。


(取り返しのつかないことを言った)


 分かっている。分かっていて、一番痛いところを突いた。


 ――誤射。


 いや、違う。分かって撃ったなら、誤射じゃない。ただの八つ当たりだ。


 母さんの声の震えが、耳の奥に残っている。僕は途中から「泣き落としだ」と決めつけた。そう思わなければ、自分の言葉の重さに耐えられなかったのだと思う。


 あの沈黙の向こうで、母さんは泣いていたんだろうか。


 頭を抱えたまま、いつの間にか目を閉じていた。


 新聞受けの金具が風で鳴り、目を開ける。玄関脇の小窓が、いつの間にか青白くなっていた。どうやら、そのまま夜を越したらしい。


 背中と腰が痛い。首を回すと鈍い音がした。


 電話は鳴らない。


 鳴ってほしくない気持ちと、鳴ってほしい気持ちが、同じ場所に居座っていた。


二


 午前中は何も手につかなかった。


 顔を洗い、歯を磨き、着替えた。土曜日なら洗濯をして、掃除機をかけ、昼前には買い物へ出る。それがいつもの順番なのに、今日は一つ終えるたびに、次に何をするのか分からなくなった。


 昼を少し過ぎた頃、玄関のチャイムが鳴った。


「……開いてるか」


 兄ちゃんの声だった。


「開いてるよ」


 引き戸が開き、春の空気と一緒に土の匂いが入ってくる。兄ちゃんは野菜の入った段ボール箱と、一升瓶の入った手提げ袋を持っていた。


「酒も持ってきた」


「……うん」


 僕の顔を見て、兄ちゃんは眉を上げた。


「ひどい顔だな」


「まあね」


 それ以上は聞かなかった。茶の間へ上がると、兄ちゃんは僕が出した湯呑みに酒を注ぐ。


「車は?」


「今日は恵子に送ってもらった。帰りは電話しろってさ」


「そっか」


 米の甘い匂いが立った。実家の酒だ。


 僕らはしばらく黙って飲んだ。兄ちゃんは急かさないし、僕も自分から切り出せなかった。何杯目か分からなくなった頃、兄ちゃんが湯呑みを置いた。


「母さん、泣いてたぞ」


 喉が詰まった。


「……そう」


「電話切ってから、しばらく台所に座ってた。親父は何も言わんかった」


「……そのつもりはなかった」


「分かってる」


 兄ちゃんは視線を落としたまま、少し間を置いた。


「俺のせいだ」


「何で兄ちゃんが」


「俺は、ずっと関係あると思ってる」


 淡々とした言い方だった。だから余計に腹が立った。


「それ、やめろよ」


「何を」


「何でも自分のせいにするの」


 兄ちゃんは返事をしない。


「僕は兄ちゃんを守ったつもりだった」


「守らんでいい」


 即答だった。


 少しだけ腹が立つ。守りたいわけじゃない。見ていると、勝手に守りたくなるのだ。


「守らんでいいって言われても……」


「直樹」


 兄ちゃんは湯呑みを指先で回した。


「母さんは、お前を責めたいわけじゃないと思う。たぶん、焦ってるんだ」


「何に」


「知らん」


 兄ちゃんは小さく息を吐いた。


「親父が年取ることかもしれんし、お前が家から離れていくことかもしれん。俺には分からん。ただ……母さんも、昨日は言い方が悪かった」


「兄ちゃんは、腹立ってないの」


「立ってるよ。母さんにも、お前にも、自分にも」


 そう言って、兄ちゃんは酒を飲んだ。


 僕も湯呑みを傾けた。少し苦かった。


三


「兄ちゃん」


「うん」


「あかね農高で、モテたろ」


 兄ちゃんの手が止まった。


「……誰に聞いた」


「恵子さん。笑ってた」


 兄ちゃんは露骨に嫌そうな顔をした。


「余計なことを」


「じゃあ、本当なんだ」


「昔の話だ」


 僕は湯呑みを置いた。


「それで、何で恵子さんだったの?」


 兄ちゃんはしばらく考えた。恵子さんは高校卒業前に実家へ押しかけ、父さんと母さんを相手に話をつけて、それから兄ちゃんと付き合い始めた。思い立ったら一直線という人だが、兄ちゃんはその逆に見える。


「……あいつだけは、頭から離れんかった」


「それだけ?」


「それだけで十分だろ」


 兄ちゃんは少し照れたように鼻をこすった。


「向こうが勝手に来て、勝手に親父たちと話して、気づいたら逃げ道なくなっとった」


「それ、恵子さんが聞いたら怒るよ」


「聞かせるな」


 二人で少しだけ笑った。


 羨ましい、というのとは少し違った。


「僕さ」


「うん」


「誰かに、そこまで心を持っていかれるのが怖いのかも」


 口にしてから、自分で驚いた。


 兄ちゃんは何も言わず、湯呑みを少し持ち上げた。乾杯というほど大げさでもなく、続きを促すでもない。


 それで十分だった。


四


 一升瓶の中身がだいぶ減った頃、兄ちゃんは立ち上がった。空いた小皿を重ね、段ボールの端を揃え、来たときと同じように静かに帰り支度をする。


「母さんに、電話するか?」


 喉の奥が詰まった。


 した方がいい。それは分かっている。ただ、いま電話をしたら、謝るつもりがまた別の言葉に変わりそうだった。


「……今日じゃなくて、いいかな」


「明日でもいい。でも、逃げるな」


「……うん」


 兄ちゃんは玄関脇の電話を借り、恵子さんに迎えを頼んだ。しばらくして外に車の音が止まると、靴を履き、引き戸へ手を掛けたまま振り返らずに言う。


「直樹。母さんのこと、嫌いになるな」


「……ならないよ」


 自分の声が少し掠れていた。


 兄ちゃんが帰ると、家の中はまた静かになった。ただ、昨日の静けさとは違って、酒の匂いと野菜についた土の匂いが残っている。


 僕は玄関へ行き、昨夜へたり込んだ場所を見た。三和土の冷たさを、足の裏がまだ覚えているような気がする。


 電話の前に座り、受話器へ手を伸ばした。


 握ったまま、しばらく動けなかった。


(……明日)


 ずるいのか、現実的なのか、自分でも分からない。


 やがて僕は受話器から手を離し、茶の間へ戻った。兄ちゃんと使った湯呑みを流しへ運び、蛇口をひねる。


 水の流れる音が、やけに大きく聞こえた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。