Lesson 6 家族だからこそ構えが下がらない
1989年4月21日(金) 21:25
一
玄関の電話機が、赤く点滅している。
鍵を閉め、靴を脱ぎ、ネクタイを緩めたところで、僕は立ち止まった。一定の間隔で灯っては消える赤い光が、こちらを急かしている。
(母さんだ)
見なくても分かる。昨日は再生せずに消した。今日も同じようにすれば、それで済む。
受話器へ手を伸ばしかけたところで、兄ちゃんの声がよみがえった。
――構えを下げろ。
学院では、少しずつできるようになっている。分からなければ聞き返し、笑われても死なないと腹をくくれば、以前ほど肩も上がらない。
けれど、家族となると話は別だった。
再生ボタンを押す前に、電話が鳴った。
けたたましい音ではない。それでも、逃げ道を塞がれたような気がした。
「……もしもし」
『ああ、直樹? よかった、出てくれて』
母さんの声は、いつもより少しだけ速かった。
『あのね、アンタ、今度の日曜――』
そこまで聞けば、だいたい見当がつく。
『直樹アンタ、いつになったら結婚するの。もう二十五になるんでしょ。いつまでもフラフラしてないの』
「平成の適齢期は二十八だよ。それに、自分の相手くらい自分で決める」
なるべく平らな声で返した。感情を乗せると、引き返せなくなる。
『決まった相手……いるの?』
「……いまはいない」
受話器の向こうで、わずかな間が空いた。
『若い時期なんて、あっという間に過ぎるのよ』
分かってる、と言いかけてやめた。その返事は母さんには何の意味もない。むしろ、分かっているならどうして、と続くだけだ。
心配なのか、焦りなのか。
『でね、お見合いのお話があるの』
やはり来た。
僕は一度、息を吐いた。ここで切れば昨日までと同じだ。少しだけ構えを下げて、母さんの話を聞いてみようと思った。
「で、相手は?」
ため息まじりに尋ねると、母さんの声が少し弾んだ。
『酒造組合の……』
(だろうな)
母さんの行動範囲は読みやすい。農協婦人部か、酒造組合。そのどちらかだ。
『河内理事の……次女さん』
胸の奥が、すっと冷えた。
「母さんっ!」
自分でも驚くほど声が上ずった。
「アイツだけはダメだっ!」
二
『だって、河内さんご夫婦は良い方たちよ? 長女さんもできた子だし、お婿さんも取って――』
「知ってるよ!」
思わず遮った。よりによって、どうしてそこへ行く。
「でもアイツだけはダメだ。母さんも知ってるだろ?」
受話器の向こうが黙った。
小三の春。校庭の隅で、僕は兄ちゃんを囲む輪を見ていた。
――孤児だってさ。
――心中の生き残りなんだって。
アイツは、大人たちの話を聞きかじり、それを面白半分で学校中にばらまいた。
そのとき初めて、僕は知った。兄ちゃんが養子だということ。実父は母さんの兄で、町工場の経営に行き詰まり、一家心中を図ったこと。その中で、兄ちゃんだけが生き残ったこと。
何より、兄ちゃん自身がそのことを前から知っていた。たぶん心ない大人の話を聞いてしまったのだろう。それでも僕には何も言わず、一人で抱えていた。
帰宅すると、母さんは台所で泣き、兄ちゃんはその背中をさすりながら、なぜか自分が悪かったように謝っていた。
(母さんが泣くことじゃないだろ)
(兄ちゃんが謝ることでもない)
(悪いのは、アイツだ)
「兄ちゃんを『孤児』『心中の生き残り』って、学校中に言いふらしたんだぞ!」
『あの子も、もう大人よ。落ち着いてるでしょうし……』
「三つ子の魂百まで、って言うだろ?」
止まらなかった。
「店構えが大きい河内家なら、貰い手なんかいくらでもあるだろ。それをわざわざウチに振ってくるんだ。よっぽど困ってんじゃないのか」
『直樹……』
「人格なんか変わってない。クズだよ」
言い過ぎだと分かっている。それでも止まらない。
「僕だって、人間と結婚する。性格の悪い――」
そこまで言って、さすがに飲み込んだ。
受話器の向こうで、母さんが深く息を吐いた。
三
『直樹』
静かな声だった。
『お父さんに……孫の顔、見せてあげてほしいの』
胸が軋んだ。よりによって、そこを突いてくる。
『アンタが結婚の話を嫌がるのは……私のせいよ』
心臓が一拍遅れ、受話器を握る右手が冷たくなる。
『弘樹を引き取ったとき、お父さん、何も言わなかった。でもね、私はずっと申し訳ないと思ってるの。あの人の家なのに、私の兄の子を息子にしてもらって……』
「そんなの、父さんが決めたことだろ」
『分かってるわよ。でも、そう思うのと、気持ちは別でしょう』
母さんの声には、かすかな震えがあった。
『弘樹は何も言わずに家を継いでくれた。清隆にも、清和にも、お父さんの「清」の字まで付けてくれて……清和なんて、お父さんと私の字でしょう』
『あの子は、十分すぎるくらいしてくれたのよ。だから……直樹にも、自分の家庭を持ってもらわないとって。お父さんにも、ちゃんと――』
「母さん、大概にしろ!」
「清隆と清和は、母さんや父さんの孫じゃないのかっ!」
『そんなこと言ってないでしょう!』
「言ってるのと同じだろ!」
息が荒くなる。
「兄ちゃん、ずっと頑張ってるじゃないか。気ぃ遣ってるじゃないか!」
大学にだって行けたはずなのに農業高校へ進み、家を継いだ。自分が養子だからと、一歩引くようにして。
「そんなだったら、兄ちゃん引き取って、なんで二年後に僕を産んだんだよ!」
口にした瞬間、言ってはいけない言葉だと分かった。それでも止まれなかった。
「あ、そう。僕は単に、血を繋ぐ役か。種馬か」
受話器の向こうが完全に沈黙した。
「だから嫌なんだ。しばらく電話なんかしてくるな」
止まれ、と頭の中で誰かが言う。
「今度同じ話したら、親子の縁を切るぞ!」
言ってしまった。
僕は受話器を叩きつけるように置いた。
四
そのまま玄関に座り込んだ。
靴箱の木目が妙にはっきり見える。手のひらには汗がにじんでいた。
(取り返しのつかないことを言った)
母さんには、逃げ場がない。
父さんに負い目を感じ、兄ちゃんにも申し訳なく思っている。その帳尻を、僕で合わせようとする。
それが分かっているのに、僕は一番痛いところへ言葉を叩き込んだ。
「兄ちゃん……ごめんよ」
兄ちゃんはいつも間に立つ。誰も責めない。母さんも、僕も。
「父さん……母さん……ごめん」
父さんは、たぶん何も言わない。黙って徳利を傾けるくらいだろう。
電話は鳴らなかった。
静かな玄関で、壁の時計だけがやけに大きく聞こえる。
(どうして、こうなるんだ)
――構えを下げろ。
学院では少しずつできるようになった。間違えても、分からなくても、相手から逃げずにいられる。
なのに、家族の前ではまだ武装する。
(武装?)
いまのは、そんな生やさしいものじゃない。
逃げる背中に銃を撃つような、人でなしじゃないか。
天井を見上げると、蛍光灯の光が滲んだ。玄関の冷たい床へ背中を預けたまま、僕はしばらく動けなかった。
受話器は、もう鳴らなかった。




