Lesson 5 構えを下げたら声が出てきた
1989年4月20日(木) 18:53
一
兄ちゃんのアドバイス通り、僕は「子供の気持ち」でレッスンに入ることにした。できなくて当然。間違えて当然。笑われても死なない――そう思えば、口を開く前から自分を採点する癖も少しは弱くなる。
レッスンを始めて三週目。無遅刻無欠席。仕事が押しても、多少疲れていても、足は学院へ向いた。あの受講料、六十六万円を思い出すと、一回でも無駄にはできない。
進歩の実感はまだ薄い。ただ、泥縄の焦りは消え、自分が気になった言葉を拾うようになった。テキストの太字でも、先生が何度も繰り返したからでもない。耳に引っかかったから、書く。
以前なら、分からない単語に出会うたび、知らない自分を責めていた。今は、とりあえず持ち帰ればいいと思える。全部その場で理解しなくても、次に聞いたとき「あれだ」と気づければ、それで一歩進んでいる。
"actually" の言い方。"sort of" の曖昧さ。"kind of" と何が違うのか。
ジェニファー先生のレッスンは相変わらずメモが取りづらい。笑いが起き、話題が飛び、急に僕へ振られる。それでも、以前ほど焦らなくなった。分からなければ聞き返し、間違えたら言い直す。分かったふりをして輪の外に立つ方が、よほどもったいない。
子供の顔で、入る。
二
今日は少し早く学院に着いた。ロビーで時間を潰そうと、自販機でコーヒーを買う。一応ドリップ式で、ここの豆は悪くない。
ベンチで紙コップを傾けていると、背の高い黒人講師がやってきた。どう見てもプロレスラーだ。
"Heeey now, Coffee Bear…… you takin’ care of yourself today?"
(よう、コーヒーベア……今日は自分を大事にしてるか?)
"Yeah…… I’m good. Thank you, Marcus-sensei."
(はい……大丈夫です。マーカス先生、ありがとう)
"Aw now, didn’t I tell you? It’s Marcus-chan."
(おいおい、言っただろ? マーカスちゃん、だって)
マーカス・キング先生。彼はどう見ても「マーカスちゃん」ではない。
彼は笑って肩を叩き、そのまま退勤していった。
(コーヒー好きの熊、か)
学院に通い始めてから、僕の呼ばれ方は増えた。山本さん。NAO。Naoki-san。Mr Yamamoto。そして、Coffee Bear。
呼ばれ方が増えただけ、世界も少し広がった気がする。会社では「山本」、実家では「直樹」で、それで足りていた。ここでは、相手ごとに別の僕がいるらしい。それを不思議だと思う一方で、少し面白くもあった。
紙コップを捨て、教室へ向かおうとしたところで背後から声がした。
「ナオキ」
スミス先生だった。学院の男性講師は大柄な人が多い――という思いつきは胸に収め、会釈する。
「いい顔してるね」
「そうですか?」
「インタビューのときは心配だったね。ライティングはOK。でも話すとき、肩がガチガチだったね」
覚えている。喉が締まり、耳が仕事を拒否していた。
「いまは違う。失敗、気にしてないね。声も出てる。ナイス」
褒められると、それはそれで恥ずかしい。
「でも、ちょっとアドバイスね。昨日ナオキ、"The Itsy Bitsy Spider" 歌ったね?」
頷く。ジェニファー先生に指名され、最後まで熱唱してしまった。
「"bitsy"。ここ、長くしない」
先生は発音してみせ、小さなメモを差し出した。
―― SIT / SEAT
―― SHIP / SHEEP
―― SHEET / SHIT
―― BEACH / BITCH
下へ行くほど、顔が熱くなる。
「この違い、大事ね。ナオキ、前より話してる。だから今度は、音も直すね」
「……今度は、そこを直される段階なんですか」
「そうだよ」
先生は笑って肩を叩いた。話せないから待ってもらうのではなく、話すようになったから次を直される。そのことが、妙にうれしかった。
最初の面談では「会話、がんばりましょ」と言われた。それが今は、母音の違いや口の形を直されている。三週間で英語が上手くなったとは思わない。それでも、注意される場所が変わったことくらいは、進歩と呼んでもいいのかもしれない。
三
教室へ入る。今日の講師はベネット先生。イギリスの人で、今日が三回目だ。
僕は人の顔を「誰に似ている」と考えるのが上手ではない。それでも初めて会った日、ラファエロの『小椅子の聖母』が浮かんだ。顔立ちより、周囲の空気まで静かにするところが似ていた。
ジェニファー先生なら、『We Are The World』を全身で歌うシンディー・ローパー。こちらは顔ではなく、熱気と求心力の話だ。
本当、学院にはいろんな講師がいる。
"Good evening, Mr Yamamoto. How are you this evening?"
(こんばんは、山本さん。今夜はいかがですか)
ベネット先生は低く穏やかな声で、一人一人に言葉を掛ける。名前だけではなく、前回話したことまで覚えている。仕事の話をした人には仕事を、家族の話をした人には家族を聞く。質問は短いのに、こちらが答えるまで視線を外さない。
ジェニファー先生のように場を押して動かすのではなく、空いた場所へ自然に言葉を置いていく感じだった。
"I understand you sang The Itsy Bitsy Spider yesterday."
(昨日、『The Itsy Bitsy Spider』を歌われたそうですね)
さっき発音を直されたばかりなので、また何かやらかしたのかと身構える。
"In Britain, we usually sing Incy Wincy Spider. The words are slightly different."
(イギリスでは普通、『Incy Wincy Spider』と歌います。歌詞も少し違います)
発音ではなく、文化の話だった。同じ英語でも、海を渡れば歌い方まで違う。
その日の話題は、やがてそれぞれの国の季節行事へ移った。春の花見、夏祭り、クリスマス。知っている単語で説明しようとすると、簡単なことでも意外に難しい。
"Would you care to elaborate on that?"
(もう少し詳しく話していただけますか)
逃げ場はないが、急かされない。
"Take your time. There is no need to hurry."
(ゆっくりで大丈夫です。急ぐ必要はありません)
答えが止まっても、先生はすぐ助け舟を出さない。こちらが言葉を探すのを待ち、出てきたものを受け取ってから整える。
誰かが十一月の行事について尋ねると、ベネット先生は少し考えてから答えた。
"In England, November is for bonfires. We burn things and remember things."
(イングランドでは、十一月は焚き火の季節です。燃やして、そして思い出すのです)
ジェニファー先生なら、ここから話題が三つくらい枝分かれするだろう。ベネット先生は言葉を散らさず、静かに収めていく。
どちらが良いという話ではない。ジェニファー先生の授業では、考える前に口が動く。ベネット先生の授業では、口に出す前に一度考える。同じ英語を習っているのに、使っている頭の場所が違うような気がした。
同じ八十分なのに、時間の流れ方まで違った。
"That will be all for this evening. Thank you, everyone."
(今夜はここまでです。皆さん、ありがとうございました)
"Have a good evening."
(よい夜を)
四
帰宅すると、玄関の電話機が赤く点滅していた。見なくても分かる。母さんだ。
再生ボタンに指を掛けるが、押せなかった。
スミス先生は、今日はいい顔をしていると言った。その顔のまま、母さんの声を聞きたくなかった。
しばらく点滅を眺めてから、消去ボタンを押す。赤い光が止まった。
(兄ちゃん、ごめん)
兄ちゃんは「構えを下げろ」と言ってくれた。学院では少しずつできている。分からないと言えるし、間違えても笑える。助けてもらうことも、以前ほど恥ずかしくない。
それなのに、母さんの前ではまだ無理だった。心配しているだけだと分かっているし、母さんなりに僕の将来を考えていることも知っている。それでも電話に出れば、結婚や見合いの話になる気がして、何か言われる前から構えてしまう。
学院では、間違えたところで次の一言がある。母さんとの会話は、どこで間違えたのかも分からないまま、気まずさだけが残る。
最低限の家事を済ませ、シャワーを浴びる。湯気の中で歌を口ずさんでいるうち、いつの間にか鼻歌では収まらなくなった。
―― The itsy bitsy spider climbed up the waterspout.
―― Down came the rain and washed the spider out.
―― Out came the sun and dried up all the rain,
―― And the itsy bitsy spider climbed up the spout again.
少し間を置いて、今度はベネット先生に教わった方を歌う。
―― Incy Wincy spider climbed up the water spout,
―― Down came the rain and washed the spider out.
―― Out came the sunshine and dried up all the rain,
―― So Incy Wincy spider climbed up the spout again.
母さんの声は聞かなかった。その代わり、狭い浴室には、僕の英語だけがやけに大きく響いていた。




