Lesson 4 できない自分を認められない
1989年4月3日(月) 19:43
一
(あの……そろそろ離して頂かないと)
肩と後頭部を両腕でがっちり押さえられ、パーカー先生の体重が前方から乗ってくる。椅子の背がぎしりと鳴り、視界は柔らかい布で塞がれた。顔が何かに押し当てられているせいで、首も満足に動かせない。
息を吸おうとすると、温かい布越しの空気が鼻に入り込んだ。甘い匂いに、ピザと香水と、知らない洗剤の匂いが混ざっている。
良識ある人間は、こういう公共の場所でこの状況になったとき、積極的に息をしてはいけないはずだ。
彼女は立っていて、僕は座っている。重心が上から落ちてきて、体温が近すぎる。
(もしかして……夕飯、ピザでしたか?)
(ピントがずれてるよな。問題はそこじゃない)
ピザはこの際どうでもいい。僕はいま、抱き締められている。正確には――覆いかぶさられている。
ただ、僕にとって「把握」と「対処開始」は段階が違う。腕を外すべきなのか。触れていいのか。引き離せば乱暴だし、じっとしていれば、これはこれで何か間違っている気がする。
判断が止まったところで、心臓が強く一度鳴った。耳の奥で血の流れる音がして、背中に回された腕の力が思った以上に強いことに気づく。
胸郭が圧迫され、肺が膨らまない。
(……窒息、する)
「……む……うぐ……」
声まで布に吸われた。僕は行き場のない左手をテーブルへ伸ばし、パン、パン、パン、と三度叩いた。柔道の「参った」みたいに。
二
"You see, Jennifer-sensei...... Japanese men are trained to bow, not to be hugged."
和装の女性の声だった。この状況でも、至極穏やかだ。
"Ah! Sorry, sorry! I get carried away sometimes!"
その直後、僕の顔はようやく解放され、肺に教室の空気が流れ込んできた。高々二、三秒のことだったんだろうが、顔がひどく火照っている。恥ずかしいどころの話ではない。
"Whoops…… Too much culture shock. Sorry, Nao!"
パーカー先生は僕の顔を覗き込むと、いたずらっぽく笑って講師席へ戻った。
"I am sorry, Ms. Parker and everyone."
騒ぎを起こしたのは僕も同じだ。受講生たちにも頭を下げると、パーカー先生が振り返り、ニカッと笑った。
"Nao, you call me Jennifer, OK?"
パーカー……もといジェニファー先生は、何事もなかったようにレッスンを再開した。
彼女の授業は、とにかく人を巻き込む。八十分のあいだ、僕が蚊帳の外に置かれることは一度もなかった。僕など放っておかれても仕方がないのに、要所要所で話を振り、他の受講生と同じところまで戻ってきてくれる。
(申し訳ないな……)
チケット代は僕だけが払っているわけではない。足並みを僕に合わせてもらっているようで、どうにも落ち着かなかった。
高校時代、とくに僕の出たあかね北高校なら、先生はそんなに甘くない。大学受験を前に、一人の生徒のために授業を止めるようなことはしない。授業は常に、できる生徒に合わせて進む。それが当たり前だった。
今日が初回だからかもしれない。それでも、和装の女性も、二人のOLさんも、たびたびリズムを乱す僕に腹を立てる様子はなく、こちらが答え終わるまで待ってくれた。
(慣れたらダメだ)
親切に甘えているうちに、できないことまで当たり前にしてしまいそうで怖かった。
三
それから一週間、僕は自分を慣れから遠ざけるようにした。
レッスンだけでは足りないと思い、ラジオの語学番組を聴き始めた。夜は社会人向け、早朝は中学生向け。通勤中は本屋で買った番組のカセットを車で流し、昼休みには同じものをウォークマンで聴いた。
「山本、何聞いてんだ?」
「あ、うん。語学番組のテープ」
昼休み、同期にそう答えると、肩をすくめられた。
「お前さ、回りくどい性格だな」
「そうかな」
「TOEICの対策本とカセットで十分じゃんか」
同期は鼻を鳴らし、弁当箱の蓋を閉じた。
「お前、そんなんじゃ……来年のいまごろは北洋だな」
「嫌なこと言うなあ」
笑って返したものの、その言葉は妙に残った。
一週間経っても、レッスンでは周回遅れの連続だった。夜討ち朝駆け、昼またぎで英語を聞いているのに、目に見えるほどの変化はない。TOEICだけで競うつもりはないし、僕の目標は別にある。それでも「できない」という事実だけが、毎日少しずつ重くなっていった。
四
「お前……農業高校卒をイジメんなよ」
「中学の成績、僕より良かったろ?」
週末、野菜を届けに来た兄ちゃんに、僕はその話をした。兄ちゃんは冷蔵庫へ野菜を収めながら、しばらく黙っていた。
「子供は……子供だよな」
「そうだね」
「日本の子供も、アメリカとかの子供も」
兄ちゃんは冷蔵庫の前にしゃがんだまま考えている。僕は何も言わず、その先を待った。
「子供で良いんじゃねえか」
「え?」
「認めなきゃ始まらんだろ」
兄ちゃんは僕を見上げ、少し笑った。
「直樹は大学まで行った」
「あ、うん……」
「だから英語自体は、たぶんできるんだと思う。うまく言えんが……最初から『できる側』に立つとさ、できない自分に腹が立つんだろ」
椅子を引いて腰掛けた兄ちゃんは、しばらくテーブルを見つめていた。
「ウチの次男坊、清和な」
「うん」
「このごろ特に、弁が立つようになった。アイツは恵子や俺の話、じっと聞いてる。兄貴の清隆より真剣にな」
「へえ……」
「それですぐ真似しやがる。舌足らずだがな。それでからかってやるとさ」
兄ちゃんは含み笑いを浮かべた。
「『しぐかにしてくだしゃい』だってよ。五歳ちょっとの子供が、親に『静かにしてください』って」
僕も吹き出した。兄ちゃんは頭を掻き、それから少し真面目な顔になった。
「できなくても気にしない。それで子供は言葉を覚えるんだろう。ハナっから『できる』がないからな」
言いたかったことは、よく分かった。
「兄ちゃん」
「うん?」
「恵子さんやチビたちがいて……よかったな」
兄ちゃんには、そういう暮らしがよく似合っている。
帰り支度を始めた兄ちゃんは、段ボール箱をたたんで小脇に抱え、玄関へ向かった。見送りに出た僕に、引き戸へ手を掛けたまま言う。
「母さんみたいなこと言うが……直樹。結婚は、良いもんだぞ」
「ああ」
僕が頷くと、兄ちゃんは引き戸を少し開け、それから思い出したように振り返った。
「直樹、お前さ」
「うん」
「俺や恵子に……気ぃ遣うなって言ったな」
「ああ」
兄ちゃんは、しばらく僕の顔を見ていた。
「お前も……気を遣うな。構えを下げろ。……じゃあな」




