Lesson 3 聞き取れないのに近すぎる
1989年4月1日(土) 19:05
一
僕は今日、久しぶりに実家を訪れ、家族と夕食を共にした。父さん、母さん、兄ちゃん、お義姉さん、それにチビたち。正月以来だ。
自宅から会社までは車で十五分。自宅から実家も同じくらいだ。それなのに僕の中では、会社の方が心理的にはよほど近い。
家族と仲が悪いわけではない。ただ、就職してからは特に、実家へ足を向けなくなった。電話は週に一度くらいで、相手はたいてい兄ちゃんか、お義姉さんだ。
先週の夜、石窯を掃除したあとにも、兄ちゃんから電話があった。
『おう、直樹。……生きてるか』
「なんとか」
兄ちゃんは鼻を鳴らし、僕も同じように鼻を鳴らした。少しだけ気まずい。
『直樹、母さん心配してるぞ』
「……分かってる」
兄ちゃんは僕を責めなかった。近くに住んでいるんだから顔くらい出せ、と言われてもおかしくない。世間話のあと、ぽつりと言った。
『今度の土曜日……清隆と清和の入園祝いだ。顔、出してくれ』
「うん」
清隆は兄ちゃんの長男、清和は次男。双子の二人は、この春から幼稚園に入る。僕は二人まとめて「チビたち」と呼んでいる。
二
父さんは、久しぶりに顔を見せた僕を怒るでもなく、静かに迎えてくれた。土の似合う、蔵に馴染む、そんなおじさんだ。
「そうか……それは大変だな」
僕が四月から英会話の学校に通うと告げると、父さんはそれだけ言って穏やかに笑った。
母さんは、言いたいことを腹いっぱい飲み込んでいるような顔で僕を見る。
「お月謝、大丈夫なの? どれくらいかかるの? 何なら、母さんが」
「郵貯の定額、崩したよ。もう、子供じゃないんだから」
とたんに、母さんの眉間に皺が寄った。分かっている。僕も、少し意地になって言った。
――誰か、良い人でもいるの?
――結婚、どうするの。お見合いのお話も頂いてるのよ?
――若いときなんて、あっという間よ?
僕が自分で積み立ててきた定額貯金を、母さんは結婚資金だと思っていたらしい。それを、何の相談もなくほとんど取り崩したのだから、理由はどうあれ面白くないのだろう。
だから、実家は面倒だ。夕食を終えると、僕は早々に実家を出ようとした。
「直樹、ちょっと」
車庫で兄ちゃんに呼び止められた。隣には恵子さんもいる。兄ちゃんは段ボール箱を抱え、恵子さんは白い封筒を手にしていた。
「直樹くん……いろいろ、ごめんね。お義母さんも悪気はないの」
「分かってます。気にしてません」
僕が苦笑いすると、恵子さんは封筒を差し出した。
「直樹くん、蓄えはあった方がいいわ。少ないけど、三万円」
「お義姉さん、僕、会社員ですよ。チビたちに使ってやってください」
これから物入りなのに、僕へ気を遣う。その金は受け取れなかった。
「直樹……お前に遠慮されると、こっちも……な」
「兄ちゃん、家賃無料なだけでも感謝してるよ」
「……じゃあ、これだけでも持って行ってくれ」
差し出された段ボール箱はずっしり重い。中には実家で作っている米や野菜、それに清酒の小瓶が何本か入っている。
「これは、ありがたくもらってく」
僕は箱を車のトランクへ載せ、運転席に座ってから窓を開けた。
「兄ちゃん、お義姉さん。そろそろ、気ぃ遣うの、やめよう?」
二人は返事をせず、ほろ苦い顔のまま手を振った。僕も手を上げ、キーを回す。
「それじゃあ、また」
三
だから実家から足が遠のく。母さんとの間合いも広がるし、兄ちゃん夫婦まで余計に気を遣う。
翌々日の四月三日、月曜日。午後七時二十五分。
僕は教室の椅子に座り、頭を振った。あと五分でレッスンが始まる。
受講生は僕のほかに三人。OLさんらしき女性が二人と、年配の和装の女性だ。僕が軽く会釈すると、三人とも返してくれた。
男一人で椅子にデンと腰掛けているのも気が引けて、僕は背筋を伸ばした。
チャイムが鳴り、小窓付きのドアが開く。
"Hi everyone! Good evening!"
金髪の女性講師が、満面の笑顔で入ってきた。
"April! New school year in Japan, right? Fresh start! New people! New challenges! I love it!"
名乗らない。スケジュール表に書いてあったから、この人がパーカー先生だと分かる。
しかし、明るい。速い。そして止まらない。単語らしきものは耳に入るのに、意味になる前に後ろへ流れていく。
"Today we’ll start with something easy! Very easy!"
イージーじゃない。
パーカー先生は受講生を見回して、ぱっと笑った。
"Let’s begin here."
最初に指されたのは和装の女性だった。何かを頼まれているらしい。女性はゆったりと微笑み、落ち着いた声で話し始めた。
"My name is……"
発音が柔らかく、姿勢も崩れない。僕とは余裕が違う。
"Wonderful! That’s beautiful!"
パーカー先生は大きく頷いた。しかも近い。女性の顔を覗き込むように身を乗り出し、話すたびに何度も頷き、最後には拍手までしている。
数秒遅れて、何をしているのか理解できた。自己紹介だ。名前、仕事、それから、ここへ来た理由。
僕は慌てて頭の中で英単語の棚卸しを始めた。
(My name is Naoki Yamamoto)
(I work at……)
(Because I want to……)
次のOLらしき女性は、簡単な単語を使っているようなのに淀みがない。
"Perfect!"
パーカー先生がまた拍手する。やはり距離が近く、目もよく合わせる。
三人目の女性は少し詰まったが、最後まで言い切った。
"Excellent! I love your confidence!"
反応がいちいち大きい。Love、Excellent、Perfect。学校の先生にこんな褒められ方をした記憶は、僕にはない。
四
"And last but not least……you."
三人がくすりと笑った。みんなの発表をろくに聞かず、泥縄で自分の順番に備えていたのが分かりやすかったのかもしれない。
僕は反射的に立ち上がろうとした。
"Oh! You don’t have to stand! You can sit! It’s okay! Relax!"
慌てて座り直すと、椅子の脚が床をこすり、やけに大きな音を立てた。
僕は咳払いをして、口を開く。
"My name is Naoki."
(あっ)
山本を言い忘れた。それだけで、頭の中に並べていた言葉が一気に崩れた。
"I… I work……"
続かない。パーカー先生が少し首を傾げる。僕は焦って次の言葉を探した。
"Because… I want… English……"
そこで止まった。英語が欲しい。なんだよ、それ。
一瞬、教室が妙に静かになった気がした。
"That’s wonderful!"
パーカー先生が、ぱっと笑う。
"You tried! That’s great! I love it!"
次の瞬間、彼女の顔がすぐ目の前に来た。いや、顔だけじゃない。身を乗り出した彼女の両腕が、座ったままの僕の肩の後ろへ回る。
――抱きしめられる。
そう理解したときには、もう遅かった。
視界が塞がった。




