Lesson 2 聞こえているのに分からない
1989年3月25日(土) 09:55
一
僕は会社の駐車場に車を停め、「あかね外語学院」まで歩いた。会社からなら徒歩十分ほど。休日なのだから急ぐ必要はないのに、気がつけば自然と早足になっている。
駅前の証券会社に取り付けられたデジタル時計が、時刻と気温を交互に表示していた。九時五十五分。気温は十度。
(暖かい……)
三月も終わりに近いとはいえ、朝はまだ肌寒い。
あかね市駅前の雑居ビルに入り、階段を二階まで上がる。自動ドアが開くと、暖かく乾いた空気が顔に触れた。襟元を合わせていた手が、自然と緩む。
しかし、それも一瞬だった。
ロビー正面の壁に、小さなサインボードが掛かっている。
Welcome to the world of languages.
――Please leave Japanese outside the door.
言語の世界へようこそ。
――日本語は、扉の外に置いてきてください。
僕はもう一度、襟元をつまんだ。
英語をはじめ、七か国語で同じ文が並んでいる。それぞれの言葉から一斉に「日本語禁止」と言われているようで、一番下に書かれた日本語だけが、妙に頼りなく見えた。
(そういうところ、だよな)
先週は説明を聞くだけだった。今日は金を払い、試験を受ける。もう見学ではない。
(覚悟……決めないとな)
僕はロビーへ入り、壁際のベンチに腰を下ろした。
サインの圧とは対照的に、学院の内装は暖色系でまとめられている。北欧風のテーブルとベンチが置かれ、壁には開講言語ごとのポスターやパンフレットが並んでいた。留学、旅行、仕事、資格。目的も対象年齢も、それぞれ違うらしい。
土曜日の午前中だからだろうか、受講生の顔ぶれも幅広かった。高校生らしい女の子の隣に、僕の父親くらいの年齢の男性が座っている。幼い子供の手を引いた母親もいた。
教室へ向かう外国人講師たちが、ロビーを行き来する。あかね市では、こんなに外国人をまとめて目にすること自体が珍しい。
しばらく眺めていた僕は、胸ポケットに手を当てた。
現実に引き戻される。
(お金、払わなくちゃ)
二
ロビーの奥、受付カウンターの向こうで、女性スタッフが電話をしていた。先週、決まり手「消費税」を繰り出し、僕から入会申込書を受け取った人だ。
"No. That's not acceptable. You know the policy, don't you? Your classes are fully booked."
少し間があり、彼女は微かにため息をついた。
"This is your responsibility. Why didn't you contact the head instructor yourself?"
何が起きているのかは分からないが、声を掛けづらい。怒鳴ってはいないものの、相手にかなり腹を立てているのは僕にも分かった。
僕は郵便局の封筒を手にしたまま、カウンターの前で待った。
"You're a professional...... Hold on."
女性スタッフは保留ボタンを押し、内線で二言三言話した。それから顔を上げ、ようやく僕に気づいたらしい。
「お待たせいたしました、山本さんっ」
(変わり身、はやっ)
「こんにちは。今日は、受講料のお支払いでしたよね?」
「あ、はい」
僕は郵便局の封筒をそのまま差し出した。
彼女は中身を取り出すと、さっきの郵便局員よりも速い手つきで紙幣を数えた。指先が止まり、もう一度だけ確認する。
「六十六万円、お預かりしましたぁ」
「あ、はい」
ついさっきまで貯金だった金が、あっさりとカウンターの向こうへ消えていく。
僕は、先ほどの電話を思い出した。
「さっきの……英語ですよね」
「はい?」
「仕事で、よく使われるんですか」
自分でも場違いな質問だと思った。
彼女は一瞬だけ考え、それから肩をすくめた。
「毎日ですね」
「……大変じゃないですか」
「別に」
即答だった。
「慣れですよ、慣れ。仕事ですから」
それだけ言うと、彼女は次の書類に目を落とした。
先週は違った。
――英語、毎日触れてないとダメですよ?
――二十五歳からが、錆びやすいんですよ。
僕の話を聞き、僕より真剣な顔をしていた。ところが今、彼女は英語で誰かを叱り、日本語で僕を応対し、六十六万円を数え、次の書類に目を通している。
そのどれもが、彼女にとっては仕事なのだ。
(……慣れ、か)
僕にとって六十六万円は決断だった。
彼女にとっては、今日処理する仕事のひとつに過ぎない。
三
「それではレベルチェックです。リラックスしてくださいね」
筆記試験と面談で、受講するクラスを決める。先週そう説明を受けていた。
(筆記は……そこそこ行けるんだよな)
長文なら読める。文法問題も、それほど手は止まらない。答えを選び、マークを塗る作業には慣れている。
試験を終えると、面談までしばらく待つように言われた。
改めて教室を見回す。
(教室というより、カフェだな)
小さな円卓を囲むように椅子が五脚。僕の椅子には、脇に小さな引き出し式のテーブルが付いていて、鉛筆と消しゴムが置かれている。
やがて講師が入ってきた。
身長百七十五センチの僕でも見上げるほどの大男だった。短い銀髪に、がっしりした体つき。テレビでよく見る外国人タレントに、どことなく似ている。
ジェームズ・スミスと名乗った講師は、十五分ほどの面談中、終始穏やかな笑顔だった。
僕の答えを引き出そうと、ゆっくり言い直し、身振りも交えてくれる。
ただ、僕はほとんど聞き取れなかった。
スミス先生は最後まで笑顔を崩さず、日本語で言った。
「ライティング、なかなかいいね」
「会話、がんばりましょ」
それから僕に待つよう言い残し、教室を出た。
教室はパーテーションで仕切られているだけで、廊下側はガラス張りになっている。スミス先生が受付の女性スタッフと話している姿が見えた。
何を言っているのかは聞き取れない。
女性スタッフからクリップボードを渡されると、スミス先生は眉を寄せ、何かを書き込んだ。
(スミス先生、今、舌打ちした?)
やがて彼は受付の近くにいた別の講師を呼び止めた。
"……typical Japanese learner……"
"……between writing and speaking……"
単語はいくつか拾える。
けれど、意味がつながらない。
聞こえているのに分からない。その事実だけは、嫌になるほどよく分かった。
五分ほどして、スミス先生が僕を手招きした。
「これ、スケジュールね。ナオキさん、あなたの先生はパーカー先生と、ベネット先生。がんばってね!」
四
自宅へ戻る途中、僕は車を運転しながら、ぼんやり考えていた。
(言葉って、結局、道具なんだな)
僕は日本語を話すたびに、いちいち感動したりしない。
会社では請求書を作り、通関書類を確認し、保税倉庫へ電話を掛ける。相手と話が通じれば、それで仕事は進む。
受付の女性も、スミス先生たちも、英語を使って仕事をしている。早口で誰かを叱ることもあれば、生徒には笑顔でゆっくり話す。分からない生徒を前にすれば、渋い顔だってする。
(構えすぎた……かな)
帰宅すると、いつもの休日と同じように家事をした。
洗濯物を取り込み、風呂を洗い、夕飯を作る。食器を片づけたところで、ふと、庭に面した窓に目が止まった。
庭の隅、テラスの下に石窯とバーベキュー台がある。
僕は窓を開け、庭へ出た。
石窯の黒ずんだ扉には、ところどころ錆が浮いていた。
(昔はよく、家族で使ったよな)
小さいころ、じいちゃんが亡くなり、両親と兄ちゃんと僕は、ばあちゃんと暮らすためにこの家を出た。
元々は農機具倉庫だった建物を、父さんが住めるように改装した家だ。
大学へ進学した僕は、この家へ戻り、一人暮らしを始めた。それからもう六年になる。
石窯も昔の名残だった。
実家の酒蔵で売る燻製を試すために造られたもので、燻すことも、焼くことも、蒸すこともできる。一人で使うには大きすぎるから、ここ数年はほとんど触っていない。
僕は錆びた取っ手に手を置いた。
(そうだな。米と酒、売るんだよな)
実家の米と酒を、もっと遠くへ、もっとたくさんの人につなぐ。
そのために、僕はあかね商事へ入った。
英語は、そのための道具だ。
石窯の扉を開けると、中には古い灰が残っていた。僕は物置からほうきを持ってきて、床に膝をつく。
(掃除、するか)
奥に固まっていた灰を崩すと、乾いた音を立てて、灰が少しずつ手前へ落ちてきた。




