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石窯のある家 ――英語より難しい、ふたりの距離  作者: 早瀬 構


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Lesson 1 四十点のための六十六万円

1989年3月25日(土) 09:40


一


「山本さ~ん」


 土曜日の郵便局は、朝から混んでいた。


 月末近くのせいか、支払いや受取りに来た人たちの列が、窓口の前まで伸びている。ようやく僕の順番になり、局員が手招きした。カルトンの上には、通帳と、さっきまで僕の貯金だった紙幣の束が載っている。


「山本さん、本当に……よろしいんですか?」


「と、おっしゃいますと」


「せっかくここまで積み立ててこられたのに、ほとんど全額引き出されるの、もったいないですよね」


 手続はもう済んでいる。「もったいない」を言うなら、もう少し早く言ってくれればいいのに。僕は苦笑いした。


「必要のために貯金してきて、その必要ができたんで……」


 局員は、そうですか、と頷いてカルトンを押し出した。


「それでは、六十六万円。お確かめくださいね」


 僕は紙幣を数え、緑色の封筒に収めた。残高のほとんど消えた通帳も確認して、軽くなったカルトンを返す。


 六十六万円。こうして現金にしてみると、やっぱり大きい。


 僕は封筒をジャケットの内ポケットに入れ、郵便局のガラスドアへ向かった。


二


 三月一日付で、僕の勤めるあかね商事は、課長未満の総合職社員全員に新人事制度を通達した。


 国際化、ボーダーレス化の時代に対応するため、語学能力を人事評価に取り入れる。文章にすれば、それだけの話だ。


「まあ、そういう時代に生きてるんだからさ」


「いいじゃないか、お前らよぉ~。二十四時間戦えるチャンス、会社がくれるんだぞ?」


 良い意味で蚊帳の外に置かれた課長たちは、若手を慰めたり、からかったりしていた。


 一般職のOLたちは、永久就職先を選ぶ基準が一つ増えたみたいに、昼休みになると点数の話をしている。


「え~。将来考えたらぁ……最低七三〇? は欲しいよね」


「だよねぇ。今どきさ……英語できないのは、ちょっとねぇ」


 僕ら若手が格好のネタにされる一方で、目立たないところで深刻だったのが、「万年」さんたちだった。


「チッ……いまさら、英語かよ」


「六〇〇未満は考課見直しって……ウチは来年、娘が大学ですよ?」


 しかも同じ日、人事は別紙で地方拠点の要員募集まで出した。北洋出張所、寒汐営業所、内陸物流センター。志望者が足りなければ、会社が配置を決める。


 若手の間では、ほとんど「徴兵予告」だった。


 通達が出てから、不本意な同期飲み会が三日に一度くらいの勢いで続いた。三月十日の金曜日も、その話ばかりだった。


「北洋に、寒汐に、内陸だろ? あかね商事の三連発じゃねーか」


「だよな、マジで。ははっ……秋山、清原、デストラーデ?」


(所沢のみなさん、代わりに謝ります)


 三営業所が柵越え級の左遷先だというのは、実情はともかく若手社員の共通認識だった。


 北洋は寒い。寒汐は荒れる。内陸はひたすら乾物を数える。テレビは映らない、ラジオも入らない、新聞は遅れる。電話もFAXも切れる。交通も郵便も止まる。出会いはない。金だけは貯まる。


 好き放題である。


「北洋の場合はさ、『地元漁協との折衝』って書いてるけど。相手、ほぼソ連だろ?」


「それ言ったら寒汐なんて、『港湾関係各所と調整』って、海保と税関込みだぞ?」


「内陸は……棚卸で人格削られるらしいよ?」


 笑ったあと、みんなでため息をついた。


 僕はビール瓶を持ったまま、話の切れ目を見計らった。


「で、みんなは英語、どうするの?」


 何をいまさら、という顔が並んだ。


「どうするって……まあ、単語帳でも買うか?」


「酒、マズくなるだろ、山本」


「ごめん」


 僕は笑って、隣のグラスにビールを注いだ。


「八〇〇は無理でも、六〇〇は死守だろ」


「だな」


「単語帳、誰か買ったら回し読みな」


「おう」


 話題はそのまま、北洋のフェリー欠航だの、寒汐の荒天だのに戻っていった。


 僕の言葉は、ビールの泡より早く消えた。


三


 その晩、自宅に戻ってから、僕はじっくり考えた。


 僕が本当にやりたいのは、実家の米や酒をもっと広めることだ。そのために、一昨年の四月、あかね商事に学卒入社した。今年の十月で二十五歳になる。


 いまの僕は、食糧事業部の輸入通関課にいる。海外から入ってくる商品を受ける側で、通関書類をそろえたり、輸入に必要な手続きを回したりする仕事だ。嫌いではない。ただ、僕がやりたいこととは向きが逆だった。


 入りたいのは、商品企画課だ。


 そこなら、国内で何を売るかだけではなく、海外へ何を売っていくかを決める側にも回れる。いつか、実家の米や酒を、その中に入れたい。


 会社の新しい区分では、六〇〇点台前半なら国内業務。海外業務に関わる部署へ行くには、少なくとも六五〇点が要る。


(……TOEIC、だよな)


 社内テスト自体は、これまでも四半期ごとに行われている。一月の僕の点は、六一〇点だった。


 新入社員のころから、微妙に右肩下がり。商品企画どころか、このまま六〇〇を切れば、三営業所が急に他人事ではなくなる。


 それで先週、三月十八日。会社の近くにある「あかね外語学院」へ相談に行った。


「そうなんですかぁ。それはしっかり、対策が必要ですね」


 受付で話を聞いてくれた女性スタッフは、僕の点数と希望部署を聞くと、申込書をこちらへ向けた。


「そうですけど……来年一月の判定までに、四百回も必要なんですか……」


「でも山本さん、英語って、毎日触れてないとダメなんですよ?」


「毎日、ですか」


「はい。二十五歳くらいから、使わない英語って錆びやすくなるんです」


「今年、二十五です」


「じゃあ、逆にチャンスですよ。いま始めれば」


 言われてみれば、そういう気もする。


「ウチ、TOEIC対策は実績ありますし、四百回のチケットも三年間有効ですから」


「三年……」


「一月までに全部使う必要はないですよ。必要なときに集中して、その後は維持のために使えます。三年間有効ですから」


「なるほど……」


「それに、今月なら入会金と登録料も無料です」


「ああ……」


 ここまでは、まだ考えていた。


 彼女は少し声を落とした。


「あと、四月から消費税ですよね」


「……はい」


「六十六万円だと、一万九千八百円違います」


 にっこり笑われた。


 決まり手「消費税」。


 僕はその日、四百回コースを申し込んだ。


四


 そして今日、午前十時半から、レベルチェックテストと体験レッスン。そのあとで、六十六万円を支払うことになっている。


「うわっ、寒いっ!」


 郵便局のガラスドアを開けた瞬間、北風が顔を直撃した。思わず襟をつかんで、ジャケットの胸元を閉じる。


 昨夜の天気予報では、最高気温は十三度だった。寒いのは今週まで、とも言っていた。


 門前の桜は、まだ咲いていない。


(来週かな)


 別に感傷的になったわけじゃない。ただ、三月も終わる。四月になれば、新年度が始まるし、消費税も始まる。僕も何か始めるなら、今なんだろう。


 まずは六一〇点を六五〇点にする。それから先は、そのとき考えればいい。


 北洋、寒汐、内陸。どれもご免だし、その先には商品企画もある。


 車まで歩きながら、僕は何度も内ポケットを探った。封筒の厚みがある。


 落としたら、アウト。


 もう一度確かめてから、僕は車に乗り込んだ。

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