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石窯のある家 ――英語より難しい、ふたりの距離  作者: 早瀬 構


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Lesson 9 家族には遠く他人には近い

1989年4月29日(土) 05:45


一


 目が覚めた。時計は午前五時四十五分。休日なのに、会社へ行く日と同じ時間だった。僕は布団の端に腰掛け、小さく息を吐いた。


「習い性だな……。会社に行くときと同じ時間に目が覚めるなんて」


 顔を洗って台所へ立ち、前日までに買い揃えた材料をテーブルへ並べる。粉、酵母、塩、オリーブオイル。牛肉、香草、野菜。冷蔵庫にはチーズとソース、講師たちが希望した飲み物も入っている。


 リクエストを書いたメモをもう一度確認した。材料費は別に預かってあるし、自分で料理を持ってくると言っていた講師も何人かいる。


 パーティー開始は午後一時。


 そこから逆算する。下処理は午前中に終える。正午には石窯へ火を入れ、温度を安定させる。テーブルと椅子はその前に出す。水場までの動線を空け、ゴミ袋を二か所に置く。紙皿と紙コップは風で飛ばない場所へ。


 段取りを考えている間は、母さんのことも遠のいた。


 肉の筋を取り、香味野菜を刻む。ピザ生地をこねていると、指先まで白くなった。


「マーカス先生が幹事でよかった。ジェニファー先生なら、いまごろカオスだ」


 自分で言って、少し笑った。会費や人数、持ち寄る料理まで一覧にしてくれたのはマーカス先生だった。外見だけなら一番大雑把そうなのに、そういうところは妙に几帳面だ。


(これも「マーカスちゃん」の一面か)


 午前十一時半、下処理を終えて手を洗う。庭を見ているうちに、ふと思いついた。


(そうだ……ピザ体験にするか)


 せっかく石窯を見に来るのだから、焼けたものを出すだけでは面白くない。生地と具材を並べて、自分で好きなものを載せてもらえばいい。


 失敗しても、それはそれで話の種になる。


 正午、庭へ出て石窯に火を入れた。乾いた薪が弾け、奥から熱が戻ってくる。春の空はよく晴れ、風も弱い。煙は庭の端へゆっくり流れていった。


 テーブルを二台組み、椅子を並べる。石窯の前には人が集まるだろうから少し広めに空け、料理を置く場所とは分けた。


 最後に庭を見渡す。


(準備ヨシ)


二


 午後零時四十分、最初の車が入ってきた。


 ジェニファー先生とベネット先生だった。


 車を降りたジェニファー先生は庭へ回り込むなり、石窯の前で立ち止まった。


"NAO! Oh my God…… This is real!"

(ナオ! ちょっと待って……本物じゃない!)


"You didn’t exaggerate at all!"

(全然盛ってなかったのね!)


 話を盛って僕に得があるとも思えないのだが、よほど疑っていたらしい。


 ベネット先生は石窯より先に庭全体を眺めていた。テーブル、椅子、水場、料理を置く場所。それから僕を見る。


"This is…… remarkably well arranged."

(これは……よく整えられていますね)


"You’ve anticipated everything."

(必要なことを、すべて想定されています)


「……ありがとうございます」


 ほどなくして車が次々に入ってきた。紙袋や鍋を抱えた講師たちが庭へ集まり、英語が四方から飛び交い始める。


 最後にジェームズ先生とマーカス先生が到着した。


"Well I’ll be… he wasn’t joking."

(これは驚いた……冗談じゃなかったな)


 ジェームズ先生が石窯の中を覗き込み、マーカス先生は腕を組んで何度も頷いた。


"Man… that’s a serious oven."

(いやあ……本気の窯だな、これは)


 全員が揃うと、マーカス先生がグラスを掲げた。


"Alright everybody, listen up!"

(さあみんな、聞いてくれ!)


"Today we are not teachers. We are not correcting grammar!"

(今日は教師じゃない! 文法も直さない!)


"We are here for fire, food, and freedom!"

(今日は火と、食べ物と、自由のために集まった!)


"Our man NAO built the arena!"

(我らがナオが戦場を用意してくれた!)


"So let’s eat like kings and make this Golden Week legendary! Cheers!"

(王様みたいに食べて、このゴールデンウィークを伝説にしよう! 乾杯!)


 庭が一気に沸いた。


 ピザ体験も予想以上に盛り上がった。ジェニファー先生は具を載せすぎて生地を持ち上げられなくなり、マーカス先生に笑われている。


"Too much! Too much!"

(載せすぎだ!)


"I like everything!"

(全部好きなんだもの!)


 ジェームズ先生は妙に慎重で、トングを使って生地の位置を何度も直していた。


"This is the best classroom ever!"

(ここが今までで最高の教室だ!)


 僕は焼き上がったピザを切りながら、次の生地を窯へ入れる。誰かが皿を運び、誰かが飲み物を注ぐ。勝手の分からない場所なのに、しばらくするとそれぞれが自然に動き始めた。


 その輪から少し離れたところで、ベネット先生だけが静かに窯と人の動きを眺めていた。


"Are you feeling unwell, Ms. Bennett?"

(ベネット先生、ご気分すぐれませんか)


 彼女はわずかに眉を上げ、首を振った。


"I’m perfectly fine. I’m simply… impressed."

(大丈夫です。ただ……感心しているだけです)


"Thank you for inviting us into your world."

(あなたの世界に招いてくださって、ありがとうございます)


 僕の世界、というほど大げさなものではない。


 家族との立ち位置ですら迷子になりかけているのに、と思ったが、わざわざ英語にすることでもなかった。


三


 食事が一段落したころ、ジェニファー先生が家を指さした。


"NAO, can we see the inside of the house?"

(ナオ、家の中見てもいい?)


 不意打ちだった。


 庭へ招くことしか考えていなかったが、別に見られて困るものもない。


「……どうぞ」


 ジェニファー先生が先頭になり、ジェームズ先生とベネット先生も続いた。


 玄関へ入った途端、声が上がる。


"Wow! It’s huge!"

(うわっ、広い!)


"You live here alone?"

(ここに一人で住んでるの?)


"So many empty rooms!"

(空き部屋いっぱい!)


 僕にとっては昔からある家だ。農業倉庫を改装したせいで無駄に広く、一人では使い切れないだけなのだが、三人は廊下を見渡しながら何かと声を上げている。


 少しして、ベネット先生の声が聞こえた。


"Jennifer… this is Mr. Yamamoto’s private space."

(ジェニファー……ここは山本さんの私的な場所ですよ)


 やがて三人が戻ってきた。


 ジェニファー先生が僕へ手を伸ばす。


"NAO! Paper? Marker? Tape?"

(ナオ! 紙とペンとテープある?)


 用途を聞く前に持ってくる。


 彼女は紙へ大きく文字を書き、そのまま廊下へ引き返した。


"Jennifer’s Room"


 ペタッ。


"Clare’s Room"


 ペタッ。


"James’s Room"


 ペタッ。


 三枚の紙が空き部屋の扉へ貼られた。


 僕は苦笑いする。


"Jennifer, that’s quite enough."

(ジェニファー、それはやりすぎです)


"Oh come on, Clare! Live a little!"

(いいじゃないクレア! 楽しもうよ!)


 ジェニファー先生は今度は僕ら二人を交互に指さした。


"NAO—stop calling her Bennett-sensei! Call her Clare!"

(ナオ、ベネット先生なんてやめて! クレアって呼んで!)


"And you—stop calling him Mr. Yamamoto! Call him Naoki!"

(あなたも山本さんなんてやめて! ナオキって呼んで!)


"No."

(お断りします)


 即答だった。


 ベネット先生は貼り紙を見上げ、それから僕を見る。


"Mr. Yamamoto… do you always let people in this easily?"

(山本さん……いつも、こんなに簡単に人を入れるのですか)


「え?」


"Inviting people into your house and into your rooms are not the same."

(人を家へ招くことと、自分の部屋まで明け渡すことは同じではありません)


"You understand the difference, don’t you?"

(その違いは、お分かりですよね)


 僕はすぐには答えられなかった。


"Clare, don’t be so dramatic!"

(クレア、硬いこと言わないの!)


 ジェニファー先生が笑い、ジェームズ先生も札を眺めながら肩をすくめる。


"He might regret leaving those signs up."

(あの貼り紙、残したら後悔するかもな)


 笑いが広がった。


 僕も合わせて笑ったが、ベネット先生の言葉は妙に耳に残った。


 僕がいいと言ったのだから、それでいい。そう思っていた。


 それなのに、僕自身より先に、この人は僕の領域を気にしている。


四


 パーティーは盛況のまま終わった。


"Thank you, NAO!"

(ありがとう、ナオ!)


"This was unforgettable."

(忘れられないよ)


"We’ll be back."

(また来るからね)


 最後の車が見えなくなるまで手を振り、庭へ戻る。


 急に静かになった。


 テーブルには空になった皿と紙コップが残り、石窯にはまだ赤い熾火があった。炭と肉とチーズの匂いが庭に混じっている。


 椅子を片づけ、ゴミをまとめ、食器を洗う。朝からずっと誰かの声がしていたせいか、一人に戻ると家が妙に広く感じられた。


 夜、廊下の奥には三枚の紙が残っていた。


"Jennifer’s Room"

"Clare’s Room"

"James’s Room"


 剥がせば終わる。テープの端をつまんで引けば、それだけだ。


 それなのに、僕は手を伸ばさなかった。


 家族には何か言われる前から身構える。その一方で今日は、聞かれるまま家へ上げ、空き部屋まで見せた。


(僕がいいと言ったんだから、いいだろ)


 実際、嫌だったわけではない。勝手に札を貼られたことにも、本気で腹を立ててはいない。


 それでもベネット先生は止めた。


 僕自身が気にしていなかった境目を、あの人だけが気にしていた。


 家族には武装するくせに、他人には境界を曖昧にする。


 それが僕なのか。


(面倒だ)


 廊下の電気を消すと、三枚の白い紙だけが暗がりにぼんやり浮いた。


 僕はそれを見ないふりをして、自分の部屋へ戻った。


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