Lesson 10 断らないことは選ぶことか
1989年5月6日(土) 18:25
一
夕方になっても雨は止まなかった。強くもなく弱くもなく、庭の土と芝生を同じ調子で濡らし続けている。
僕は玄関ポーチに立ったまま、ベネット先生の車のテールランプが角を曲がって消えるのを見ていた。助手席にはジェニファー先生。車内で何か話しているようだったが、雨音に遮られて聞こえない。
ドアを閉めると、家の中が妙に広く感じられた。ついさっきまでテレビの音と笑い声がしていたのに、今は冷蔵庫の低い唸りと、雨樋を流れる水の音しかない。
台所には晩飯が残っている。煮物、味噌汁、焼き魚。特別なものではない。連休も終盤だし、今夜くらいはちゃんと食べようと思って作った。
「……晩飯、作ったのに」
誰もいないのに声が出た。返事はなく、味噌の匂いと湿った空気だけが残っている。
始まりは一週間前だった。
二
四月二十九日のパーティーは、文句なしに成功した。石窯も料理も予定通りに回り、講師たちは大騒ぎで帰っていった。
問題は翌朝からだった。
チャイムが鳴ったので玄関を開けると、ジェニファー先生が大きなバッグを肩に掛けて立っていた。
"Your place is bigger than ours. So I came."
(あなたの家の方が広いから来たよ)
説明になっているようで、なっていない。しかもバッグの中には着替えまで入っていた。彼女は悪びれもせず僕の横を通り抜け、昨日の貼り紙が残った部屋へ入っていった。
"Jennifer's Room"
冗談で貼ったはずの紙が、その日から本当に部屋の名札になった。
昼過ぎにはベネット先生も来た。ジェニファー先生を一人にしておくのが不安なのだろう。玄関で靴を脱ぎながら、廊下の奥に置かれた大きなバッグを見て、ほんの少し眉を寄せていた。
"Golden Week is long. We should go out."
(連休は長いですし、どこか出かけましょう)
家に居続けるより、その方がいいと思った。ワイン工場、民芸品工場、潮干狩り。行き先を決め、車を出し、営業時間を調べる。僕が運転席で、二人は後ろで話している。楽しそうなら、それでいい。
ところが、日が経つにつれて、ジェニファー先生は「遊びに来る人」ではなくなっていった。
朝起きれば台所にいて、勝手にコーヒーを淹れ、冷蔵庫を開ける。買ってきたヨーグルトやジュースがいつの間にか僕の食材の間へ入り込み、洗面台には歯ブラシと化粧品が並んだ。浴室には見慣れないシャンプーまで置かれ、居間のソファには読みかけの雑誌が裏返しで載っている。
最初の日なら片づけた。二日目になると、どこへ戻せばいいのか分からなくなった。
そのたび「まあ、連休中だけだし」と思った。
五月三日の朝は、藤祭りへ行く予定だった。朝食を準備し、ベランダ側のカーテンを開ける。
庭の芝生にブルーシート。
その上にジェニファー先生。――本当に、ジェニファー先生だけだった。
僕は、光の速度で回れ右をした。
背後で低いため息が落ちる。振り向かなくても分かる。ベネット先生だ。
"I will talk to her."
(私が話します)
僕は何も聞かず、台所へ戻った。トーストが焼けるまでの二分間が、妙に長かった。
三
それでもジェニファー先生は帰らなかった。
藤祭りから帰ると、さすがに反省したのか、その日はおとなしかった。しかし翌朝には元へ戻り、テレビの前で足を伸ばして笑っている。買ってきた菓子を居間いっぱいに広げ、食べ終わった袋をテーブルの端へ寄せる。
"Jennifer, please clean this up."
(ジェニファー先生、これ片づけてください)
"Sorry, Nao!"
(ごめん、ナオ!)
言えば片づける。だから、それで済んだことにしていた。
ベネット先生は、何度か僕を見る目を変えた。僕が洗ったカップを棚へ戻しているときも、ジェニファー先生が脱いだ上着を椅子から拾ったときも、何か言いたそうにしていた。
"Mr. Yamamoto, you don't have to do everything."
(山本さん、全部あなたがする必要はありません)
"I know."
(分かってます)
そう答えるたび、彼女はそれ以上言わなかった。
僕だって別に、何でも許しているつもりはなかった。困れば言うし、嫌なら断る。そう思っていた。ただ、どの程度なら「困った」に入るのか、自分でもよく分かっていなかった。
そして今日、五月六日。雨だった。
ジェニファー先生は昨日から借りてきたビデオを何本も積み上げ、朝からソファを占領していた。
"Couch potato day!"
(今日はカウチポテトの日!)
(今日は、じゃなくて今日も、でしょ?)
僕は洗濯機を回し、床を拭き、昼飯を作った。頼まれたわけではない。散らかっていると落ち着かない。それだけだ。
夕方、シャワーを浴びようと脱衣場へ入った瞬間、足が止まった。
湿気がこもり、床にはまだ水が残っている。濡れたタオルが洗濯籠の脇へ落ち、その近くに下着まで置かれていた。
(……これは、さすがに)
ビニール袋の擦れる音がした。
ベネット先生が無言で下着を拾い、近くにあったレジ袋へ入れている。顔はいつも通り静かだったが、目だけが静かではなかった。
袋の口を結ぶと、彼女は廊下へ出た。
"Jennifer."
(ジェニファー)
ジェニファー先生が、ポテトチップスの袋を抱えたまま顔を出す。
"Inside. Now."
(中へ。今すぐ)
腕をつかまれたジェニファー先生が、珍しく黙って部屋へ入った。扉が閉まり、中から低い声が続く。早口ではない。一語ずつ区切るようで、言い訳を挟む隙がない。
僕は台所へ戻った。聞こえているけれど、聞かない。味噌汁の蓋を開ける。まだ温かい。何もせず、また閉じた。
四
しばらくして、ベネット先生が台所へ来た。
"We are leaving."
(私たちは帰ります)
"You didn't deserve this."
(あなたはこんな扱いを受けるべきではありません)
大げさですよ、と言いそうになって、英語に直した。
"It's fine. Really."
(大丈夫です。本当に)
"I didn't ask her to stay."
(泊まれと言ったわけじゃない)
"I can handle my own house."
(自分の家のことは自分でやれます)
言いながら、少しずつ声が強くなる。
"I knew what I was doing."
(ちゃんと分かってやってました)
ベネット先生は、じっと僕を見た。
"You call that knowing?"
(それを「分かっている」と言いますか)
"You let everything slide."
(あなたは全部、流している)
"You are too easy. Too sweet. And you have no spine."
(あなたはチョロくて、甘くて、自分がない)
胸の奥が熱くなる。ジェニファー先生のことで怒られているはずなのに、なぜか僕自身まで否定された気がした。
"I am not a child."
(子供じゃない)
"I chose to let her stay."
(僕が選んで泊めたんです)
"It was temporary."
(一時的なことです)
そこまで言って、つい日本語が出た。
「この人……風紀委員みたいだな」
一瞬の沈黙。
ベネット先生は、眉をわずかに上げた。
「風紀委員ですか。そうでしょう」
(日本語かよ?)
逃げ場がなくなる。英語でも、日本語でも。というより、日本語ほとんど完璧じゃないか。なんだその隠れた才能――決めた。もうこの人の前では、滅多なことは言わない。
彼女はそれ以上何も言わず、ジェニファー先生を連れて玄関へ向かった。ジェニファー先生は靴を履きながら一度だけ僕を見たが、さすがにいつもの笑顔はなかった。
車が出ていき、雨だけが残る。
家の中へ戻ると、テレビのリモコンが床に転がり、ポテトチップスの欠片がソファの下に落ちている。洗濯物はまだ半乾きで、洗面台には彼女の歯ブラシが残ったままだった。
捨てていいのか、取っておくべきなのか。
そんなことすら自分で決められず、僕はしばらく歯ブラシを眺めた。
台所へ戻る。味噌汁はまだ温かい。
(僕は、何をやってたんだ)
問いは浮かぶが、うまく形にならない。
僕は「やめて」と言わなかった。嫌なら言えばよかった。ここは僕の家で、決めるのも僕だ。それなのに、相手が勝手にやったことにして、ずっと「まあいいか」で流していた。
自分で選んだと言った。
でも、何を選んだんだろう。
断らないことと、受け入れることは同じなのか。
答えは出ない。
鍋の火を止め、皿を並べる。三人分を用意していたから、自分の前だけ埋めると妙に寂しい。焼き魚も煮物も、明日の朝まで残りそうだった。
「……晩飯、作ったのに」
もう一度言ってみる。やっぱり返事はない。
食事を終えると、傘も差さずに庭へ出た。雨に濡れた芝生を横切り、一週間前にみんなが囲んでいた石窯の前まで歩く。
あの日は、火のそばに人が集まり、英語が飛び交い、誰かが笑うたびに庭全体が狭く感じられた。
今日は広い。
僕は石窯の扉に手を触れた。
雨に濡れた石は、冷たかった。




