Lesson 11 剥がすことと捨てることは違う
1989年5月8日(月) 05:47
一
目覚ましが鳴る前に目が覚めた。休日明けの月曜日だからだろう。身体の方が先に、いつもの出勤日に戻っている。
台所へ行き、蛇口をひねった。水の音を聞きながら湯を沸かし、コーヒーを淹れる。食器棚からカップを出したところで、土曜日の夕方、三人分の皿を並べた食卓がふいに浮かんだ。
(……終わったんだよな)
彼女たちは帰った。昨日一日かけて、散らかったものも片づけた。石窯の周りを掃き、台所を戻し、洗面所に残っていた歯ブラシや化粧品も袋にまとめた。家の中は、見た目だけなら連休前とほとんど変わらない。
洗面所で顔を洗う。鏡の中の僕は、寝不足でもなければ、ひどく落ち込んでいるようにも見えなかった。それなのに、土曜日にベネット先生から言われた言葉だけが、胸の奥に細かい棘のように残っている。
――あなたは全部、流している。
――チョロくて、甘くて、自分がない。
腹が立った。今でも、言い方はきつかったと思う。ただ、完全に的外れだったとも言い切れない。それが余計に腹立たしかった。
もし本当に的外れなら、もっと簡単に忘れられたはずだ。ところが、コーヒーを飲んでも、顔を洗っても、ネクタイを締めても、言葉だけが妙に残る。あの場では言い返せたのに、一人になると、自分の方が続きを考えてしまう。
連休の間、僕から家族には一度も連絡しなかった。母さんも兄ちゃんも、電話をしてこなかった。助かったと思う一方で、その静けさに妙な落ち着かなさもあった。
学院では少しずつ、「分かりません」と言えるようになった。失敗しても、前ほど恥ずかしいとは思わない。兄ちゃんの言った「構えを下げろ」は、たしかに効いている。
でも、家族の前ではまだ駄目だ。
僕はスーツに袖を通し、ネクタイを締めた。玄関の靴を揃え、車の鍵を取る。決まった順番で身体を動かしているあいだは、考えなくて済む。
会社へ着けば、連休明けの仕事が机の上に積まれていた。通関書類、納期確認、電話、伝票。午前中はそれを順に片づけているだけで終わった。連休中に止まっていた分だけ、取引先からの問い合わせも多い。受話器を置けば次の書類が待っている。
昼休みになって、ようやく別のことを考える余裕ができた。
(学院……行くか)
二
正直、今日は休みたかった。
ベネット先生と顔を合わせるのが億劫だったし、ジェニファー先生がどんな顔をするのかも分からない。土曜日のことが、何かの拍子に言葉になって出てしまうのも嫌だった。
けれど、休む理由としては弱い。チケットはあるし、習慣も崩したくない。そもそも僕が学院へ通い始めたのは、TOEICの点数を上げるためだ。そこまで一緒に投げ出す気はなかった。
夕方、いつも通り車を走らせ、あかね外語学院へ向かった。
自動ドアが開くと、連休前と変わらないざわめきが戻っていた。受付ではスタッフが電話を取り、講師たちは生徒を呼び止め、英語と日本語が入り混じっている。子供の笑い声が聞こえ、その向こうでは会社帰りらしい男が受付でチケットを渡している。
僕に気づいた講師が何人か、石窯パーティーの礼を言ってきた。
あの日のことだけ切り取れば、たしかに楽しかった。料理も火加減も予定通りに回り、誰も困らなかった。僕はそういうことなら、あまり迷わない。
ロビーの端に、背の高い人影が見えた。黒い髪に、灰緑色の目。ベネット先生だった。
足が止まりそうになったが、そのまま歩いた。向こうも僕に気づき、ほんの一瞬だけ視線が合う。避けられたわけではない。それでも、何となく背筋が固くなった。
"Good evening, Mr. Yamamoto."
(こんばんは、山本さん)
低く、整った声だった。土曜日のことを引きずっている様子もなければ、無理に普段通りを装っている感じもない。
"Good evening."
僕も短く返した。
彼女は軽く会釈し、そのまま廊下の向こうへ歩いていった。僕も教室へ向かう。胸の奥が少しだけ冷えたが、追いかけて何か言うほどの言葉は持っていなかった。
三
その日の担当はジェニファー先生だった。
"Hey! How was your Golden Week?"
(ねえ! ゴールデンウィークどうだった?)
勢いも、距離も、笑顔も、いつも通りだった。
僕は、自分でも驚くくらいほっとした。
教室には、和装の女性と、以前から一緒になることの多いOLさんが二人いる。ジェニファー先生が僕の家に押しかけ、ゴールデンウィークの大半を一緒に過ごしたことなど、他の受講生にはどうでもいい話だ。
"I did a little traveling! A party, a little trip—it was so much fun!"
(私はちょっと旅行して、パーティーして、小旅行もして、すごく楽しかった!)
ジェニファー先生は明るく言い、教室が笑った。何も知らない人たちの前では、あの一週間も「楽しい連休」の一言で済むらしい。
それが少しおかしくて、少しだけ寂しかった。
(僕は、何に安心してるんだ)
たぶん、誰も責めないことにだ。ジェニファー先生も、ベネット先生も、僕も、ここでは講師と生徒に戻れる。連休中の家の中を、わざわざ教室へ持ち込まなくていい。
僕は笑うタイミングを探し、見つけて笑った。それだけで教室の空気に戻れた。
楽だった。
レッスンでは、連休中にしたことを順番に話した。僕は石窯パーティーのことだけを簡単に説明し、その後のことには触れなかった。言わなかったからといって、嘘をついた気はしなかった。
他の受講生も旅行や帰省の話をした。温泉へ行った人、家族で買い物に出た人、ほとんど家で寝ていた人。聞いていると、それぞれに連休があり、それぞれ月曜日になって、またここへ戻ってきたのだと思う。
授業が終わり、ジェニファー先生はいつもの調子で、
"See you, Nao!"
(またね、ナオ!)
と手を振った。
僕も手を上げた。
それで済んだ。
四
夜の道を車で戻る。連休明けの街は、店が閉まる時間も、交差点の混み方も、すっかり平日に戻っていた。
家に着き、玄関灯をつける。誰もいない家は、やはり少し広く感じる。
廊下の奥まで歩いたところで、僕は足を止めた。
白い紙に黒い文字。
"Jennifer's Room"
その隣に、"Clare's Room"。もう一つ向こうに、"James's Room"。
昨日、家の中を片づけたときも、この三枚だけはそのままにしていた。
最初に貼られたときは笑った。冗談だと思っていたし、実際その場では面白かった。けれど今見ると、もう同じようには笑えない。
僕は"Jennifer's Room"の端をつまみ、ゆっくり剥がした。テープが、ぺり、と乾いた音を立てる。続けて"Clare's Room"、"James's Room"も剥がす。
三枚なくなると、廊下は妙に白々しく見えた。
元に戻っただけだ。
そのはずだった。
僕は剥がした紙を手に持ったまま、しばらく立っていた。ゴミ箱へ捨てれば終わる。
三枚を重ね、二つに折る。
それから、廊下脇の引き出しを開けた。
紙を中へ入れ、静かに閉める。
なぜ捨てなかったのかは、自分でもよく分からなかった。ただ、剥がすことと、捨てることは、同じではないらしい。
居間へ戻り、ソファに座る。冷蔵庫の低い唸りと、時計の針の音がする。土曜日の夜も静かだったが、あのときとは少し違う。腹を立てる相手も、言い返す相手も、もうここにはいない。
僕は両手を膝の上に置いた。
母さんに電話しなければならないことも、分かっている。いつまでも避けていられない。けれど、今夜かけられるかと聞かれれば、まだ自信はなかった。
それでも明日は起きる。朝飯を作り、会社へ行く。学院へ行く日には、いつものように車を走らせる。できることを繰り返しているうちに、今は分からないことも、少しずつ形になるのかもしれない。
引き出しの中の紙は、黙っている。僕の胸のざらつきも、黙っている。
黙っているもの同士が、同じ家の中にあった。




