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石窯のある家 ――英語より難しい、ふたりの距離  作者: 早瀬 構


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Lesson 21 いなくなる日とほどける拳

1989年7月29日(土) 10:00


一


 ジェニファーが部屋の片付けを始めた。いつもの調子で笑いながらクローゼットを開け、紙袋を増やし、不要なものを仕分けていく。散らかった部屋なら珍しくない。彼女の部屋は、来るたびに何かが増えているか、どこかへ移動している。


 今日は「捨てる」だけではなかった。服を畳み、本をまとめ、棚の奥から出したものを箱へ入れている。畳むというのは、終わらせる手つきではなく、次の場所へ持っていくための手つきだ。


 私は床に座ったまま、その違いを見ていた。


"You're moving something?"

(何か移すの?)


 ジェニファーはTシャツを一枚畳み、少しだけ手を止めた。


"Sort of."

(まあ、そんなところ)


 曖昧な返事だった。彼女らしくない。ジェニファーは面倒な話ほど先に口にする。黙って察してもらうようなことは、たいていしない。


 私は何も言わずに待った。


 彼女は二枚目を畳み、三枚目に手を伸ばしてから、ようやくこちらを見た。


"I'm going home, Clare."

(私、帰るの。クレア)


"Home?"


"America. October twenty-eighth."

(アメリカへ。十月二十八日)


 私は日付を頭の中で確認した。今日から三か月。まだ先だ。夏も終わっていない。キッズキャンプもこれからで、九月も十月も残っている。


"For how long?"

(どれくらい?)


 ジェニファーは笑った。ただし、いつもの笑い方ではなかった。


"For good."

(ずっとよ)


 部屋の中で、紙袋が一つだけ音を立てた。


二


 帰国する外国人講師は珍しくない。契約を終え、国へ戻る。別の国へ行く人もいる。学院では毎年そういう出入りがあり、私も何人も見送ってきた。


 ジェニファーだけが例外である理由はない。


"So you've decided."

(決めたのね)


"Yeah."


 それ以上は聞かなかった。理由を聞けば、彼女は説明するだろう。説明されれば理解できるし、正しい反応も返せる。


 しかし私は、いま正しく反応したくなかった。


 ジェニファーは箱へ本を並べながら、急に明るい声を出した。


"Hey, it's not tomorrow. We've still got three months."

(ねえ、明日じゃないんだから。まだ三か月あるわ)


"I know."

(分かってる)


"And camp is coming."

(キャンプもあるし)


"I know."


"Clare."


"I said I know."


 少し強くなった。ジェニファーは口を閉じ、私は自分の膝に視線を落とした。


 怒っているわけではない。彼女が悪いわけでもない。帰ることを止める権利は私にはないし、三か月も前に話してくれたことを責める理由もない。それでも、胸の内側に何か硬いものが残った。


 私は立ち上がり、畳み終わった衣類を箱へ移した。何もしないで座っているより、その方がよかった。


"Don't pack the sweater at the bottom. You'll need it before October."

(そのセーター、一番下に入れない方がいいわ。十月までに使うでしょう)


 ジェニファーが笑った。


"Yes, Mom."

(はいはい、お母さん)


 私は睨んだ。彼女はまた笑った。


 いつものジェニファーだった。それが、余計に困った。


三


 午後の学院では、二度ミスをした。


 一度目は教材を別の教室へ持っていき、二度目は生徒の名前を呼び違えた。どちらも訂正すれば済む程度だったが、私には十分だった。


 授業の合間、講師室で教材を揃えながら、私は午前中の箱を思い出した。


 三か月。数字にすれば長い。けれど、期限がある時間は、期限のない時間とは違う。今日まで当たり前だったものに終点が付いた瞬間、その間にある日々まで別の形に見える。


 ジェニファーは明日も同じように笑う。来週も勝手に人の予定へ入り込み、こちらの返事を待たずに話を進める。八月にはキッズキャンプがあり、九月が過ぎ、十月になれば帰国の日が来る。


 先のことを順番に並べるのは得意なはずだった。予定表に入れ、必要なものを分類し、終わったものを消していく。そうすれば大抵のことは処理できる。


 これは、処理できなかった。


 ジェニファーがいなくなる。その一文だけが、分類の外に残った。


 私はそれが嫌だった。寂しいとか、不安だとか、そういう言葉を足す必要すらない。


 ジェニファーがいなくなるのが嫌だ。


 それが、ひどく嫌だった。


四


 仕事を終えたあと、私は「たまゆら」へ寄った。


 理由は考えなかった。考える必要のない店だった。扉を開けると、小さな鈴が鳴り、いつものコーヒーの匂いに、今日は別の甘い匂いが混じっていた。


「いらっしゃいませ」


 カウンターの中からマスターが顔を上げた。こちらの顔を見ても、何があったのかとは聞かない。


「いつもの紅茶でよろしいですか」


「はい」


 私はいつもの席に座った。


 奥から、かすかな声がした。泣き声というほど強くない。何かを訴えるような小さな声だった。


「あら。起きたん?」


 柔らかな声とともに、ママさんが奥から出てきた。ゆったりしたブラウスと長いスカートでも、ママさんらしい豊かな輪郭は変わらない。その腕の中に、小さな人間が収まっていた。


「由美さん、僕が見ていますから、座っていてください」


「ええよ、公児クン。ずっと寝とったし。ちょっとぐらい店の空気、吸わせたって」


 マスターは「そうですか」とだけ答え、私の紅茶を淹れる作業へ戻った。


 ママさんが私の近くまで来た。赤ん坊は白い布に包まれ、目だけを開けている。先月の半ばに生まれた長男だと聞いた。


 私は見た。


 顔も鼻も耳も手も、不思議なくらい小さい。指だけはしっかり五本あり、そのうち一本が宙を掴むように曲がった。


「……かわいい」


 言ってから、自分が声に出したことに気づいた。


 ママさんが柔らかく笑った。


「ふふ。そやろ」


 それだけだった。


 抱いてみるかとも聞かれない。どうしたのかとも聞かれない。マスターも振り返らず、しばらくして私の前へポットとカップを置いた。


「少し蒸らしてあります」


「ありがとうございます」


 赤ん坊は、ママさんの腕の中で一度だけ口を開け、そのまままた目を閉じた。


「公平、寝てしもたわ」


「よく寝るんですか」


「寝るときはなあ。起きたら、まあ大変やけど」


 マスターがママさんに柔らかく声を掛けた。


「由美さん、無理はしないでくださいね」


「分かってるって、公児クン」


 二人のやり取りを聞きながら、私は紅茶を口にした。


 ジェニファーが帰ることは変わらない。十月二十八日は消えないし、明日になれば急に平気になるわけでもない。


 目の前では、赤ん坊が眠っていた。ママさんがそれを抱き、マスターが黙ってカップを整えている。


 誰も私に何も求めなかった。説明する必要も、結論を出す必要もなかった。


 私はもう一度、赤ん坊の小さな手を見た。握ったままの拳が、眠りの途中でわずかにほどける。


 紅茶から、細い湯気が上がっていた。


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