Lesson 22 結婚という言葉だけ畳めない
1989年8月13日(日) 07:45
一
「キッズキャンプ」が始まった。朝の空気はまだ涼しく、庭の砂利は乾いて白く見える。僕は受付が始まる前に、前夜までに組んだ段取りをもう一度だけ頭の中でなぞった。
玄関から庭へ入る導線、子どもが走ってもぶつかりにくい場所、日陰へ寄せた休憩所。飲み物は二か所に分け、石窯と焚き火を使う場所にはロープを張る。救急箱の場所と近所の医院の電話番号も、学院側の責任者と確認してある。契約書に書いてあることだけでなく、実際に誰がどこを見るのかまで決めておけば、何か起きたときにも動ける。
この家には僕が住んでいるが、持ち主は父さんだ。庭を貸すと決めた以上、僕一人の都合で済ませるつもりはないし、三十人近い子どもを預かるなら、曖昧なまま始めるわけにもいかなかった。
子どもたちが集まり始めると、静かだった庭はあっという間に別の場所になった。マーカス先生は英語の歌と手拍子だけで小さな群れを動かし、ジェニファー先生は一人ずつ名前を呼びながら笑いかける。しゃがんで目線を合わせ、肩へ軽く手を置くだけで、緊張していた子どもの顔までほどけていく。
僕は受付と名札、荷物置き場の案内、飲み物の補充に回った。裏方でいればいいと思っていたのに、子どもは勝手にこちらへ寄ってくる。
"Coffee Bear!"
(コーヒーベア!)
誰が広めたのかは考えるまでもない。僕が顔をしかめると、子どもたちは笑って逃げ、その後ろから別の子まで同じ呼び名を繰り返した。庭のあちこちから「コーヒーベア」が聞こえてくる。
恥ずかしいが、止めるほどでもない。走る足音を聞きながら、僕はロープの位置を直し、紙コップの箱を日陰へ移した。
やることが見えているあいだは、落ち着いていられる。
二
兄ちゃんの息子、清隆と清和も混ざっていた。義姉さんが「せっかく家でやるんだから」と参加させたがり、マーカス先生も笑って認めた特別参加である。
二人がいると、庭が少しだけいつもの庭に戻る。もっとも本人たちは遠慮などせず、石窯の近くへ行こうとして止められ、ロープをくぐろうとしてまた止められていた。
「そこは入るなって言っただろ」
「見ただけ!」
「見るならこっちから見ろ」
清和の肩を戻し、清隆にも同じことを言う。こういう注意なら難しくない。危ないものは危ないし、駄目なものは駄目だ。理由も説明できる。
昼になり、子どもたちが日陰で弁当を広げ始めた。僕はクーラーボックスの氷を足していたが、ジェニファー先生が横から覗き込んできた。
近い。腕が僕の肘に触れた。
いつものことだ、と処理する。文化の違いだし、今さら驚くほどでもない。ただ、こういうところをベネット先生に見られたら、また何か言われそうだとは思った。
流しているとか、境界がどうとか。
本人は今日は来ていないのに、僕は勝手にそんなことを考えていた。
その瞬間、清和が僕たちを見上げて、にやにやしながら言った。
「お姉ちゃん、おじちゃんと結婚するん?」
一瞬、意味を取り損ねた。
結婚。
その言葉だけが、ほかの音より少し遅れて耳に残った。母さんの電話、見合い、血を引く孫。しばらく触らずにいたものを、五歳児が何の気なしに庭の真ん中へ放り出したような気がした。
周りの子が笑い、清隆まで口を押さえている。
「違う違う。この人は、おじさんの英語の先生」
なるべく普通に返したつもりだったが、自分でも少し声が硬いのが分かった。
ジェニファー先生は日本語の意味までは分かっていないらしく、僕の顔を見て明るく笑った。
"Okay! Teacher mode. Got it, Nao."
(オッケー! 先生モードね。了解、ナオ)
何を了解したのか分からないまま、彼女は子どもたちへ水を配り始めた。清和もすぐに別のことへ興味を移し、さっきの一言は本人の中ではもう終わっているらしい。
僕だけが、少し遅れていた。
三
午後になると暑さが増し、確認することも増えた。ロープが緩んでいないか、紙コップは足りているか、顔の赤い子はいないか。蚊取り線香の位置を変え、転びそうな小石を拾い、休憩時間になれば水を飲むよう声をかける。
拾えば片づくものは楽だった。場所を変えれば済むものも、数えれば足りるものもいい。僕が手を動かした分だけ、少なくとも目の前は整っていく。
最後のゲームが始まる頃、庭の端から全体を見渡した。マーカス先生が子どもたちを笑わせ、ジェニファー先生が大きく手を叩いている。今のところ怪我人もなく、予定も大きく遅れていない。
ベネット先生は、やはり来なかった。
申し込みが始まった頃から参加するつもりはないらしい、とマーカス先生から聞いていた。理由までは聞いていないし、本人に確かめたこともない。
来ないなら、それでいい。今日は講師も足りているし、僕が困るわけでもなかった。
それより今は、目の前の子どもを見ている方がいい。
一人がこちらへ駆けてきた。
「コーヒーベア、水!」
「走るな。あと、コップ持ってこい」
「はーい!」
返事だけは立派だった。そのまま走って戻ろうとするので、僕はもう一度「走るな」と声をかける。
午後の日差しは強く、庭の土も朝より乾いていた。僕は空になった水差しを持って台所へ向かった。
考えても片づかないことは、後でいい。
四
夜になり、子どもたちは庭のテントへ入った。昼間の熱はまだ少し残っていて、布に触れるとぬるい。講師たちは交代で見回りに入り、僕は焚き火台の灰を小さなスコップで寄せた。
昼間の庭から音が一つずつ減っていく。笑い声が消え、走り回る足音が消え、最後には虫の声と、ときどきテントの布が擦れる音だけが残った。
僕は空になった段ボールを畳んだ。折り目に沿って押せば形は決まる。角を合わせ、もう一度押す。こういう作業は好きだった。どこまでやれば終わるのかが分かるし、終われば片づいたと目で確認できる。
清和の声が、不意に戻ってきた。
――お姉ちゃん、おじちゃんと結婚するん?
子どもの冗談だ。本人はもう忘れているだろうし、ジェニファー先生は意味さえ分かっていなかった。
僕も笑って終わらせればいい。
そう思いながら次の段ボールを畳んだが、言葉だけは昼間と同じところに残っている。
母さんから言われた「結婚」と、清和が言った「結婚」は、同じ言葉なのにずいぶん違って聞こえた。母さんに言われれば身構えるのに、今日の一言には腹も立たなかった。ただ、妙に居心地が悪い。
何が違うのか、自分でもまだよく分からない。
僕は最後の段ボールを持ち上げ、底に残っていた紙くずを払った。
灰を集める。箱を畳む。ロープを確認する。そういうことなら、自分が何をしているのか分かる。必要かどうかも、終わったかどうかも見える。
けれど、昼間の一言には折り目がなかった。
テントの中で誰かが寝返りを打ち、布が小さく鳴った。
僕は畳み終えた段ボールを壁際へ重ね、角が揃っているのを確かめた。
清和の言葉だけが、まだ畳めないまま残っていた。




