Lesson 20 境界線が動く理由は見えない
1989年7月21日(金) 18:01
一
私はクレア・ベネット。
マーカスが学院の廊下で子どもたちに紙を配っている。明るい色のパンフレット。八月十三日から十五日までのキッズキャンプ申込書だった。
"All right, everyone. Summer camp sign-up starts today."
(さあみんな、サマーキャンプの申し込み、今日から始まるよ)
"It’s three days in August. Games, English, and lots of fun."
(八月の三日間だ。ゲームも英語も、楽しいことがたくさんある)
"Take this home and talk to your parents, okay? Bring it back before the deadline."
(家に持って帰って、保護者の人と話してね。締め切りまでに持ってきてくれよ)
子どもたちは素直に紙を受け取っている。マーカスは声が大きいが、子どもを急かさない。しゃがんで目線を合わせ、質問されれば一つずつ答える。見た目だけなら、この学院で最も子どもから遠そうな男が、一番子どもの扱いに慣れている。
私は一枚手に取り、表紙をめくった。日程、定員、持ち物。その下に会場がある。
山本直樹さん宅。
三十人。
知っていた話なのに、印刷された文字で見ると別のものに見えた。学院の生徒を三十人、自宅へ三日間受け入れる。庭にテントを張り、石窯を使い、講師が泊まり込む。
それはもう、誰かの家で行う小さな行事ではない。少なくとも私にはそう見える。
ジェニファーが横から覗き込んだ。
"Clare, you should come too!"
(クレアも来なよ!)
私の肩へ置かれた指を、肩を動かして静かに外した。
子どもが嫌いなわけではない。学院で子どもを教えることにも抵抗はない。仕事として役割が決まり、時間が決まり、終われば帰る。それなら分かる。
けれど、学院で子どもに英語を教えることと、山本さんの家で三十人と三日間過ごすことは、私の中では同じ棚に入らない。
ジェニファーには、その棚そのものがないのだろう。
二
講師室へ戻ると、マーカスが私にパンフレットを差し出した。
"Clare, how about you? It’s closer this year. No bus, no long trip."
(クレア、どう? 今年は近いよ。バスもいらないし、遠出もしない)
"……No, thank you."
(……結構です)
"Really? It’ll be easy. And Naoki said yes."
(本当に? 楽だよ。それに、ナオキも引き受けてくれた)
私はパンフレットを机へ置いた。楽かどうかの問題ではない。
"He didn’t just say yes. He talked to his parents first."
(ただ引き受けたわけじゃない。まず両親に相談した)
"He asked about insurance, responsibility, and safety around the stone oven."
(保険や責任の所在、それから石窯の安全管理まで確認してきた)
"And he asked if his two nephews could join."
(それから、甥っ子二人も参加させてほしいって頼んできた)
私は返事をしなかった。
ジェームズの話だけなら、例外だと思うこともできた。疲れている妻と娘に庭で一日休ませたい。その事情を聞いて、山本さんは父親に確認すると答え、椅子や料理の段取りを始めなかった。
三十人の子どもでは、両親に相談し、責任の所在まで確かめた。
ジェニファーの生誕祭では、十五人だか二十人だかを前に、断るより先に石窯で何枚焼けるか考えていた。私が断るという選択肢を示しても、飲み物や料理の話を始めれば、あっさりそちらへ乗ってきた。
ジェームズの家族には、事情を聞いて、ほとんど迷わず場所を貸そうとした。
人数ではない。負担でもない。親しさだけでも説明できない。
彼には基準がある。ただ、私にはその基準が見えない。
私は一度、彼を「自分のない男」だと決めつけた。頼まれれば流され、断れない人だと思った。その方が説明は簡単だった。
だが、三十人を引き受ける前には止まり、二十人では流され、三人には理由を聞いて頷く。
線がないのではない。
線の位置が、その都度動いているように見える。そして本人には、それが不自然ではないらしい。
そこが一番分からない。
ジェニファーが会場欄を指で叩いた。
"Nao’s place is perfect. Big yard, stone oven—party heaven!"
(ナオの家は最高よ。広い庭に石窯、パーティ天国!)
彼女はキッズキャンプとパーティを同じ棚に置いている。やはり、この人には棚がない。
私はこめかみを指で押した。最近、この仕草が増えている気がする。
三
午後、学院と受検提携している各企業から、先月のTOEIC-IPテスト結果が届いた。
あかね商事の一覧に、山本さんの名前がある。
Mr. YAMAMOTO Naoki ―― 630pts.
六五〇を目標にしている彼にとって、軽い数字ではないだろう。前回より上がってはいる。それでも、欲しい場所には届いていない。
春からの山本さんは、耳と口が先に動き始めた。とにかく何か返そうとし、場を回し、笑いでつなぐことも覚えた。そのあとで、主語や語順や理由の粗さが目立つようになった。
最近の彼は、急いで答えず、主語を置き、動詞を選び、必要なら最初から言い直す。以前より遅い。けれど、以前より崩れにくい。
六三〇は、その途中にある数字なのだと思う。
私は講師だ。彼が英語の実力を伸ばすために必要なことをする。それ以上でも、それ以下でもない。
そう考えれば簡単なはずなのに、最近はそこへ余計なものが混じる。
私が温度を下げれば、彼も同じだけ距離を取る。それで正しいはずなのに、きれいに線を返されると、なぜか落ち着かない。
以前は、ジェニファーが前へ出て私が後始末をする、その舞台になりやすい山本さんの家にも腹を立てていた。
しかし、彼の家が問題なのではない。少なくとも、それだけではない。
廊下の向こうをジェームズが通り、私を見て少し足を止めた。
"Long day?"
(長い一日だった?)
"Not particularly."
(別に)
私は答え、書類へ視線を戻した。
ジェームズは何も言わず、そのまま講師室を出ていった。
何だったのだろう。
私は時計を見た。まだ夕方である。少なくとも、疲れた顔をしていたつもりはない。
四
夕方、ジェニファーがまた私を誘った。断るという選択肢が世界に存在しないかのように。
"Come on, Clare. Kids will love you. And Nao needs you."
(来なよ、クレア。子どもたち、あなたのこと好きになるよ。それにナオにはあなたが必要だよ)
必要。
その単語が、神経の上を軽く撫でた。
私は「必要」という言葉が嫌いだ。理由を曖昧なままにして、人を勝手に同じ側へ置く。
私はいつから、山本さんの家で三十人の子どもを支える側になったのか。
そもそも、山本さんが私を必要だと言ったわけでもない。ジェニファーが勝手に決めただけだ。それなのに、その一言を即座に無意味なものとして捨てられない自分にも腹が立った。
家族の中では、説明、根拠、結論を求められて育った。必要なら理由を示す。違うなら線を引く。そうしておけば、大抵のことは混ざらずに済んだ。
私は笑わなかった。笑えば、ジェニファーは冗談の続きを始める。
"No, Jennifer."
(だめよ、ジェニファー)
"I’m not you. Don’t push your values onto me."
(私はあなたとは違う。あなたの価値観を私に押し付けないで)
ジェニファーは一瞬だけ口を開け、それから両手を上げた。
"Okay, okay. Boundaries. Got it."
(わかった、わかった。境界線ね)
境界線。
彼女の口から出ると、ひどく軽く聞こえる。
けれど、その言葉を重くしているのは誰なのだろう。
山本さんの顔が頭をよぎった。三十人の子どもを迎えれば、彼はきっと段取りを組み、火の扱いを決め、食事を整え、足りないものを黙って補うのだろう。
その中に、彼自身の選択がどこまであるのか。あるいは、私に見えていないだけなのか。
まだ分からない。
そして、分からない相手のことを、私はこのところ考え過ぎている。
その事実まで認めると、別の問題になる気がした。
不快なのは確かだった。ただ、何に対して不快なのかを「境界線」という言葉だけで説明するのは、少し違う気がする。
私はパンフレットを二つ折りにして机へ置いた。
今日は、境界線という言葉で片づけるのだけはやめておこう。
その先まで考える必要はない。




