Lesson 19 分かっただけでは戻らない
1989年7月14日(金) 12:20
一
昼休み。人事管理課から回ってきた封筒を、自席で開けた。周りでは弁当の蓋が開き、誰かがテレビの話をしている。いつもの昼休みなのに、僕の机の上だけ音が遠かった。
一九八九年六月一六日受検。
TOEIC-IPテスト――六三〇点。
紙を見たまま、しばらく動けなかった。前回は六一〇点だった。二十点上がっている。下がったわけではないし、契約した四百コマのうち受講したのは百三十八コマだから、まだ三分の一を少し越えた程度だ。それくらいは分かっている。
けれど、僕が欲しかったのは六五〇点だった。そこまで届けば、少なくとも英語の数字で足を引っ張られずに済む。六三〇は悪い点ではない。だからこそ、あと二十点という距離がひどく中途半端に見えた。
それでも最初に頭へ浮かんだのは、六十六万円だった。
(これで、二十点か)
自分でも嫌になる計算だった。受講料は三年間の四百コマ分で、今日までの百三十八コマだけに払った金ではない。それでも、左遷を避けたい、商品企画へ行きたい、そのために四十点上げるつもりで預金をほとんど使った。そう考えると、六三〇という数字だけが妙に重く見えた。
(費用対効果、ひどいな)
そう言い換えれば、感情ではなく仕事の話になる気がした。けれど、腹の底に残っているのは、もっと単純なものだった。
(これかよ)
午後の会議では、上司の説明も資料の数字も理解できた。それなのに、頭の片隅では六三〇が消えない。帰り際、結果の紙を封筒へ戻してカバンの底へ押し込んだ。捨てるには早い、と自分に言い聞かせたが、たぶん捨てたら、ここまでやったことまで薄くなる気がしたのだ。
二
夕方、学院のロビーはいつもより静かだった。受付の電話も途切れがちで、蛍光灯の白い光が床に広がっている。
ソファには、和装の女性がいた。何度も同じレッスンになり、主語や語順の癖を指摘してくれた人だ。僕が会釈すると、向こうも小さく頷いた。
「……TOEIC、思ったより伸びなくて」
口にした途端、自分の言い方が嫌になった。悔しいとも、落ち込んでいるとも言わず、「思ったより」と曖昧にしている。僕の愚痴は、いつも感情より先に数字の形を取る。
彼女は慰めなかった。点数も聞かず、掲示板の英字ポスターへ一度目をやってから言った。
「あなた、急いでるわね」
その言い方が、頭の奥に小さく引っかかった。
「急いでるっていうか……効率、というか。会話のほうが現場では使えますし」
言いながら、自分が守りに入っているのが分かった。受験英語は古い、英会話は実用的だ。そう分けてしまえば、今やっていることを正しい側へ置ける。
彼女はその区別に付き合わなかった。
「あなた、『会話っぽさ』で押し切る癖がありますね。骨組みを見ない読み方」
骨組み。
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が縮んだ。声の高さ、言葉の置き方、答えを急がせない間。いくつかの記憶が、急に同じ場所へ重なった。
僕は初めて、正面から彼女の顔を見直した。目尻には昔になかった線がある。それでも、笑う前にほんの少し黙る癖は変わっていない。
「……まさか」
口にした時点で、もう答えは出ていた。
「……『英語』」
自分でも驚いた。高校時代の呼び方が、そのまま出た。
「全然分からなかった。着物だし、髪も上げてるし、スーツでもないし」
何を言っているんだ、と口にしながら思った。見当違いなのは分かっている。それでも、動揺を隠そうとすると、どうでもいいことしか出てこない。
彼女――高校時代の英語教師は、帯を軽く直しただけだった。
「そうね。定年から五年経ってますし」
怒りもしなければ、懐かしがりもしない。その距離の取り方まで、昔と同じだった。高校ではいつも洋服で、髪も今より短かった。僕の中では「英語の先生」という姿のまま止まっていたから、着物姿の年配の受講生と結びつかなかったのだ。
三
「僕のことなんか、よく覚えてますね」
ようやく出たのは、そんな言葉だった。
「覚えてるわ。大概の生徒は覚えてるの」
あっさりした返事だった。特別だったわけではないらしい。そのことが、なぜか少しだけ引っかかった。
「あなたは、覚えていてほしくないの?」
返事が出なかった。自販機の明かりが妙に白く見える。
むしろ嬉しいのかもしれない。けれど、それを認めると、高校時代の自分まで今ここへ戻ってくる気がした。学院へ通い始めてから、僕は受験英語と英会話を別のものとして扱ってきた。昔のやり方を置いてきたつもりで、前へ進んでいると思っていた。
先生は、僕が黙っているのを急かさなかった。高校の教室でもそうだった。答えを言えない生徒の代わりにすぐ答えるのではなく、どこまで読めているのかを確かめてから、次の一歩だけを出す人だった。そのやり方を、僕は忘れていた。
「あなた、高校の頃はもっと構文を取って読んでいたでしょう」
「……そうでしたっけ」
「そうでなければ、あかね大の二次は通りませんよ」
優しい言い方だったが、逃げ道はなかった。
能力がなくなったわけではない。使わなくなっただけだ。
六三〇という数字が、急に別の意味を持った。英会話を始めたから読めなくなったのではない。話せることと、読めることを自分で対立させて、その間にあったものを外していた。
謝るべきなのか、礼を言うべきなのか、分からなかった。どちらを口にしても、今は少し違う気がした。
先生はそれ以上何も言わなかった。レッスン開始を知らせる声が奥から聞こえ、僕も立ち上がる。
「じゃあ、行ってきます」
「ええ」
それだけで終わった。
四
その日のレッスンは、乾いていた。別に講師が冷たかったわけではない。僕の方が、自分の出す英語を一度ずつ確かめていたせいだと思う。主語を置き、動詞を決め、分からなければ言い直す。普段より時間はかかったが、不思議と焦らなかった。
帰り道、六三〇はまだ頭に残っていた。悔しいのは同じだったが、昼とは少し違う。点数そのものより、自分で外したものを外したままにしていたことの方が恥ずかしかった。
部屋に着き、カバンから結果の紙を出した。角を揃えて封筒へ戻し、机の引き出しの奥へ入れる。
机の端には、六月に引っ張り出した文法書がまだ置いてあった。開くと、鉛筆で引いた線と、自分の字が残っている。
I need a structure.
一か月前の僕は、もう分かっていたらしい。
分かっていたのに、それだけで安心していた。文法書を開いたことと、骨組みを戻したことを、どこかで同じにしていたのだと思う。
僕はページを少し戻した。前へ進むというより、急ぎすぎた歩幅を整える。速く走る前に、足元をもう一度確かめる。
最初の例文を黙って追った。以前のように答えを覚えようとはせず、まず主語を探し、次に動詞を見る。単純な文だった。
それでも、文字はもう薄くなかった。




