↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
石窯のある家 ――英語より難しい、ふたりの距離  作者: 早瀬 構


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

19/23

Lesson 18 断らないことにも理由がある

1989年7月6日(木) 22:07


一


 私はクレア・ベネット。


 ジェニファーの「生誕祭」が終わってから、私は山本さんに対する温度をひとつ下げていた。露骨に避けるつもりはないし、授業にも私情を持ち込みたくない。ただ、必要以上に柔らかくしない。それが講師として正しい距離だと思っていた。


 山本さんは、その変化に気づいているようだった。気づいていないふりをしながら、挨拶の角度や返事まで少し固い。教材を受け取るときにも、こちらの顔色を確かめるような間がある。


 彼には、人の機嫌を測る癖がある。


"You are too easy. Too sweet. And you have no spine."

(あなたはチョロくて、甘くて、自分がない)


 連休の終わりに私が言った言葉を、まだ引きずっているのだろうか。自分の言葉が彼の態度を変えていることには妙な居心地の悪さがあった。


 今週の彼は、以前よりさらに事務的だった。私が線を引いたから、彼も線を引いた。それでいいはずなのに、同じだけ距離を返されると胸の奥に小さな引っ掛かりが残る。


 腹が立つ、とは少し違う。私の方が何かを見誤っているのではないか。そんな考えが何度か頭をよぎっていた。


二


 夕方のロビーには、英語と日本語が重なっていた。私は掲示板の前で来週のクラス配置を確認していると、背後に足音がした。


"Good evening, Mr. Yamamoto."

(こんばんは、山本さん)


"Good evening, Ms. Bennett."

(こんばんは、ベネット先生)


 言葉は普通だった。ただ、彼の「先生」という呼び方が、妙に厚い壁のように聞こえた。私は少し温度を落としただけのつもりなのに、彼はその向こうにもう一枚、薄い板を立てたらしい。


 会釈して別れ、講師室へ戻るとジェームズが顔を出した。いつも穏やかな人だが、その日は珍しく表情が明るい。


"What happened?"

(どうしたの?)


"I spoke to Mr. Yamamoto. About something personal."

(山本さんに話したんだ。少し個人的なことを)


 家族はまだ大阪にいて、妻も英会話学校で働いている。自分で口にする以上に疲れているらしいと、彼女の同僚から聞いたという。


"In Seattle, we had a backyard. Nothing special. Just space. Sky, dry grass in summer, room for my daughter to run around."

(シアトルでは裏庭があった。大したものじゃない。ただ空間があったんだ。空があって、夏には乾いた草があって、娘が走り回れる場所があった)


"So you asked Mr. Yamamoto for his garden."

(それで、山本さんの庭を借りたいと)


"Just for a day. My wife and daughter. Me too, if I can get away."

(一日だけね。妻と娘と、僕も休めれば一緒に)


"And he said yes?"

(それで、彼は承諾したの?)


"He said he'd check with his father first. But he told me, 'I think you can count on it.'"

(まず父親に確認するとは言ってた。でも「たぶん期待してもらって大丈夫です」って)


 私は思わずジェームズを見た。


"He said that?"

(そう言ったの?)


"Yes. He didn't start asking about chairs or meals. He just listened."

(ああ。椅子が何脚要るとか、食事をどうするとか、そういう話は始めなかった。ただ話を聞いてくれた)


 その一言で、私は黙った。


 山本さんなら、頼まれた瞬間に人数を数え、庭の広さを測り、雨ならどうするかを考える。六月にもそうだった。私は、開催方法ではなく引き受けるかどうかを考えなさいと言った。


 けれど今回は違ったらしい。


"So he understood."

(分かってくれたんだね)


 ジェームズはそれだけ言って、嬉しそうに笑った。


三


 その後のレッスンでも、ジェームズの話が頭に残った。


 三十人の子供を預かるなら、山本さんは父親に相談し、保険や責任者や火の扱いまで確認する。二十人の誕生日会なら、頼まれた途端に実現方法を考え始める。


 では、疲れている妻と娘のために一日だけ場所を貸してほしい、と言われたときはどうなのか。


 父親には確認する。しかし、断る理由はないと考えたのだろう。


 私はこれまで、彼の「甘さ」を一つの性質として見ていた。頼まれると断れない。相手の期待に応えようとする。だから境界が曖昧になる。


 けれど、境界は一本ではない。


 山本さんは何でも同じように受け入れているわけではない。相手の事情を聞き、自分なりに意味を測って引き受けることがある。それは、流されることとは少し違う。


 私は彼を、「頼まれれば断れない人」として簡単に分類していたのではないか。


 レッスンの途中、山本さんがこちらを見た。私はいつものように質問し、彼は少し考えてから答えた。主語を置き、動詞を選び、前よりずっと落ち着いて文を作る。


 言い終えると、私は小さく頷いた。


"Thank you, Mr. Yamamoto."

(ありがとうございます、山本さん)


 形式としては何も変わらない。けれど、自分の声がいつもより少し硬いことに気づいた。


 彼は一瞬だけこちらを見て、それから控えめに笑った。


 揺れているのは、どちらなのだろう。


四


 信号で車を止めたとき、サイドウインドウに薄く映った自分の顔を見た。髪も服も乱れていない。いつも通り整っている。それなのに、今日はその整い方が少し頼りなかった。


Does "sweet" mean weak?

(「甘い」って、弱いってこと?)


Or something else?

(それとも、何か別のもの?)


 窓の外で、街の灯りが細く流れていく。


Was I protecting the structure?

(私は構造を守っていたの?)


Or something else?

(それとも、別の何かを?)


 そこまで考えて、眉を寄せた。


No. That's not fair.

(違う。そんな言い方は不公平)


I was being professional.

(私はプロとして振る舞っていただけ)


...Wasn't I?

(……そうでしょう?)


 講師と生徒には距離が必要だし、曖昧になった線を引き直すことは間違っていない。ただ、その線がどこから始まるのかは、確かめてもいいのかもしれない。


I should keep that line.

(私はその線を守るべき)


...But perhaps I should check where it begins.

(……でも、その線がどこから始まっているかは、確かめるべきかもしれない)


 明後日も私は教室に立つ。ゆっくり話し、必要以上に近づかず、講師として教える。それは変えない。


 けれど、山本さんを見る目まで同じでなければならない理由はない。


 あの人って……。


 そう思いかけて、やめた。まだ何も分かっていない。彼のことも。そして、自分のことも。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。