Lesson 17 招いた理由はまだ考えない
1989年6月24日(土) 14:00
一
私はクレア・ベネット。
イングランドの出身で、あかね外語学院で英会話を教えている。三年前、大学を卒業すると同時に来日した。
大学では、日本の中世、特に鎌倉時代の仏教を学んだ。思想構造に惹かれたのだ。言葉が骨になり、沈黙が余白になる。順序が整えば、世界は静かに立つ。私はそういうものが好きだった。
父は弁護士、母は税理士、兄も弁護士である。私が専攻を決めたとき、兄には「出家でもするつもりか」と言われた。冗談だったのだろうが、私は笑わなかった。
家族とは議論ならできる。理解されるかどうかは、また別の問題だった。だから私は、必要なところに線を引く。それで大抵のことはうまくいく。
――ジェニファーの「生誕祭」を除けば。
それにしても、自分で言うか。臆面もなく Celebration of Birth と。Birthday Party で十分である。
学院ではすでに何人かの受講生に、
「誕生日会って、Celebration of Birthって言うんですか?」
と質問され、私はそのたびに「普通は言いません」と訂正する羽目になった。
本人はいたって満足そうだった。
しかも場所は、例によって山本さんの家。広い庭、石窯、整えられた室内。便利なものは、彼女の世界では自動的に「使われる側」へ分類されるらしい。
山本さん本人が承諾するより先に、話だけが歩き始めていた。
だから私は月曜日、彼に言ったのだ。頼まれたからといって、引き受ける必要はありません、と。
ところが山本さんは「二十人なら可能です」と答えた。
私は断り方を話している。
彼は収容能力を話している。
この齟齬を解消するために、私は土曜日の午後を使うことになった。
待ち合わせには「あかね大学の近くにある店」とだけ伝えておいた。
店の名前は「たまゆら」。
学院から離れていて、ジェニファーが来ない。少なくとも、今のところは。
二
「ここです」
山本さんは看板を見上げた。
「たまゆら……ですか」
「ええ」
なぜこの店なのかとは聞かれなかった。それが少しありがたく、少しだけ拍子抜けした。
ここは私にとって、説明の要らない場所だった。
学院では講師でいなければならない。アパートへ帰ればジェニファーがいる。けれど、この店では、紅茶を頼めば紅茶が出てくる。それだけでいい。
カウンターの向こうにいたマスターが、私を見ると軽く会釈した。
「いらっしゃいませ」
「こんにちは」
「いつもの紅茶でよろしいですか」
「お願いします」
向かいに座った山本さんが、ほんの少し目を上げた。
いつもの、という言葉に反応したらしい。
「山本さんは?」
「コーヒーをお願いします」
「かしこまりました」
マスターはそれ以上何も聞かなかった。山本さんとの関係も、今日ここへ来た理由も問わない。そういう距離感を私は好んでいる。
紅茶とコーヒーが運ばれてから、私は本題に入った。
「山本さん。本当に七月一日のパーティーをご自宅でなさるおつもりですか」
「そういえば……今日は日本語なんですね」
そんなことはどうでもいい。
「ただ、十五人から二十人なら庭だけでも十分ですし、雨なら居間とダイニングを使えば――」
今日の本題も理解していない。
「山本さん」
「はい」
「私は、開催方法を聞いているのではありません」
「ああ……」
一応、理解してはいるらしい。
「ご自宅を使う必要そのものがありません。学院の近くで店を借りる方法もありますし、ジェニファー先生自身に場所を探してもらってもいいでしょう」
「でも、石窯を使いたいみたいですから」
「使いたいのはジェニファーです」
「そうですね」
「山本さんではありません」
「ベネット先生。日本語、とてもお上手ですね」
だから、それは重要な問題ではない。正法眼蔵だって、あなたよりずっと深く読み込める。
私は紅茶を一口飲んだ。
「ですから――」
「食事はピザだけじゃ足りないですよね。十五人以上なら、肉も焼いた方がいいかな」
私はカップを置いた。
この人は、私の話を聞いているのだろうか。
ただ、不思議と腹は立たなかった。呆れてはいる。かなり呆れている。それでも、彼が悪意で人の話を無視しているのではないことくらいは分かる。
頼まれる。
可能かどうか考える。
可能なら実現する方法を組み立てる。
その順番が、あまりにも身体に染み込んでいるのだ。
「飲み物は?」
私は自分の口から出た言葉に、一瞬遅れて気づいた。
「え?」
「二十人近く来るのでしょう。食事だけ決めても仕方ありません」
山本さんの顔が明るくなった。
「あ、それなんですけど――」
しまった。
私は今、計画に参加した。
三
そこからは早かった。
肉、野菜、ピザ、生地を作る時刻、石窯へ火を入れる時刻。私は途中で二度ほど「そもそも断るという選択肢が」と戻そうとしたが、そのたびに山本さんは「もちろんです」と頷き、その直後には椅子の数を数えていた。
人はここまで丁寧に話を聞きながら、ここまで聞かないことができるものなのか。
やがて、山本さんがコーヒーカップを口へ運んだ。
動きが止まった。
「……おいしい」
マスターがカウンターの向こうで目を細めた。
「ありがとうございます」
「こんなうまいコーヒー、飲んだことないです」
私は嫌な予感がした。
山本さんはカップの中を覗き込んだあと、マスターへ身体を向けた。
「これ、豆は何ですか」
「何種類か混ぜています」
「挽くのもここで?」
「ええ」
「焙煎もですか?」
「自分でしています」
予感は確信に変わった。
山本さんは席を立ち、カウンター脇に置かれた小さな焙煎器を覗き込んだ。その隣には手挽きのミルがある。
「自分でコーヒーを焙煎して挽く……難しいでしょう」
「いえいえ。慣れれば、それほどでもありませんよ」
ああ、話は終わった。
「火加減って、どうするんです?」
「豆によって少し変わります」
「色を見るんですか?」
「色と、音ですね」
「音?」
山本さんは完全にそちらを向いている。
私は紅茶を飲んだ。
私は今日、この人にジェニファーを断らせるために来たはずだった。
現在、ジェニファーの誕生日会は開催方向へ進み、私はその計画に参加し、山本さんはコーヒー豆の焙煎方法を聞いている。
論理的な帰結とは言い難い。
マスターは私を一度だけ見た。それから山本さんへ穏やかに言った。
「詳しいことは、また今度にしましょうか。今日はお話の途中でしょうから」
「あ、すみません」
山本さんは頭を掻きながら席へ戻った。
しかし視線はまだ焙煎器へ残っている。
駄目だ。
もう半分、持っていかれている。
四
夕方、山本さんにアパートまで送ってもらった。
車を降りたところで、ちょうど建物からジェニファーが出てきた。
"Nao! Hi!"
彼女は何の躊躇もなく笑顔で手を振った。
"Hi, Jennifer."
"See you next week!"
"See you."
実に如才ない。
山本さんの車が見えなくなると、ジェニファーは私を見た。何か言いそうな顔をしたが、私は先にアパートへ入った。
ところが夕食の買い物へ出ることになり、結局、私は彼女を助手席に乗せて車を走らせる羽目になった。
しばらくして、ジェニファーが窓の外を見ながら言った。
"Clare, you really do everything the long way around."
(クレア、あなたって本当に何でも回りくどくやるわよね)
私は前を見たまま答えなかった。
"You do like Nao, don’t you?"
(ナオのこと、好きなんでしょ?)
はっ?
思わず彼女の横顔を覗き込み、その一瞬後、前の車が近づいていることに気づいてブレーキを踏んだ。
危うく追突するところだった。
私は呼吸を整え、ゆっくりアクセルを踏んだ。街灯が一定の間隔で迫り、両側へ流れていく。
規則。順序。境界。
このアメリカ女は、そのどれにも頓着しなさすぎる。
――あなたの生誕祭とやらをどうするか相談していたのよ。
そう言えば済む。
しかし口にすれば、
「二人だけで?」
くらいのことは即座に返してくるだろう。
だから黙った。
このプラスチック装甲のバービー戦車め。
地図も持たずにどこへでも進軍して、後始末の地雷処理をするのはいつも私ではないか。
もちろん、声には出さない。
彼女が笑顔で扉を開けるたびに、私は蝶番の軋みを確かめる。彼女が前へ出るたびに、私は境界線を引き直す。
ジェニファーは止まらない。
そして、ときどき核心を突く。
私は答えなかった。答えれば会話になる。会話になれば、さらに踏み込まれる。
私は、彼女のその遠慮会釈のない一歩が嫌いだ。
ただ、信号が赤に変わって車を止めたとき、今日の午後のことが勝手に浮かんだ。
私の店ではない。それでも、私が誰にも説明せずにいられる場所へ、今日は山本さんを連れていった。
なぜ、あそこだったのか。
考えかけて、やめた。
今は運転中である。
理由としては、それで十分だった。




