Lesson 16 理由のない言葉は立たない
1989年6月19日(月) 18:51
一
会社でTOEIC-IPテストを受けてから三日。結果はまだ出ていないのに、もう背中に数字を貼られているような気がする。乾いた紙の匂いと、鉛筆の芯が解答用紙を擦る音がまだ身体に残っていた。
仕事中も、ふとした拍子に最後まで読み切れなかった長文が浮かぶ。選択肢を二つまで絞ってから迷い、時計を見て、結局どちらかを塗った問題もあった。終わった試験を何度思い返しても点数が変わるわけではない。それでも、頭の中では勝手に採点が続いていた。
夕方、学院のロビー。窓際には、淡い鼠色の着物を着た女性が背筋を伸ばして座っていた。いつもの薄い教材を膝に置き、こちらに気づくと小さく会釈する。
「こんばんは。試験、受けられたのでしょう?」
「ええ。リスニングは以前より聞けた気がします。リーディングは時間が足りませんでした」
「時間が足りないのは、読めないからでしょうか。それとも、迷うからでしょうか」
「……迷う方かもしれません」
「そう。急がなくてよろしいのよ」
彼女は教材へ視線を戻した。たったそれだけのやり取りなのに、その言い方だけが妙に耳に残った。急がなくていいと言われたのに、何を迷っているのかは自分で見つけなければならない。そんな置き方だった。
二
ベネット先生のクラスは静かで、自分の言葉がそのまま机の上へ置かれる感じがする。ジェニファー先生なら、多少崩れても勢いで拾ってくれる。ここでは、口にしたものが一度その場に留まる。
テーマは「仕事と将来」。最近は、短くても文の形で言い切るようにしている。主語を置き、動詞を立てる。和装の女性に指摘されてから意識するようになり、以前より途中で迷子になることは減った。
"I think Japanese companies should expand overseas more."
(日本企業は、もっと海外へ進出すべきだと思います)
"Why?"
(なぜ?)
頭の中に、円高、貿易摩擦、海外市場、競争力という言葉が並ぶ。会社でも新聞でも目にする言葉だ。だが、それらを一本の線にする前に口が動いた。
"Because… Japan’s market is small."
(日本の市場が小さいからです)
言ってから少し妙だと思った。日本の市場が小さい。自分で口にしたくせに、その言葉の大きさが急に気になった。
ベネット先生は訂正もせず、表情も変えない。
"How do you know?"
(なぜ、そう言えるのですか?)
新聞や会社で似た話を聞いた覚えはある。海外へ出るべきだという話も珍しくない。けれど、「日本の市場は小さい」と言い切れる数字を僕は持っていない。英語が出ないのではなく、考えが浅いまま、それらしい文にしてしまっただけだ。
"I… don’t have specific data. I’ve heard that Japanese companies need more overseas markets."
(具体的なデータは持っていません。日本企業にはもっと海外市場が必要だと聞いたことがあります)
"Then say that."
(なら、そう言いなさい)
良いとも悪いとも言わず、ベネット先生は次へ進んだ。間違いなら直してくれた方が楽だったかもしれない。そう思った瞬間、自分がまた正解を外からもらおうとしていることに気づいた。
僕はノートの端に書いた。
Why?
How do you know?
主語と動詞を置けば文は立つ。でも、中身まで生えてくるわけではない。形が整った分だけ、今度は何を入れたのかが目立つ。
三
授業が終わってロビーへ出ると、ジェニファー先生に呼び止められた。
"Nao! My birthday is July first, and it’s Saturday this year. Perfect! Big party!"
(ナオ! 私の誕生日、七月一日でしょ。今年は土曜日なの。最高! 大きなパーティー!)
両手まで広げている。相談というより、もう決定事項の言い方だった。
"And your place is perfect!"
(あなたの家がぴったり!)
さっきの二つの問いが浮かんだ。なぜ僕の家なのか。どうして僕が引き受けるのか。問いだけなら、頭の中にはちゃんと出てくる。
それでも口から出たのは、
"How many people?"
(何人くらいですか?)
だった。
"Teachers, some students… maybe fifteen? Or twenty!"
(講師と何人かの生徒……十五人? 二十人くらい!)
十五から二十。庭なら十分だ。椅子を全部出しても余る。石窯の前だけ空ければ、人の動線も作れる。頭の中でそこまで進んだところで、自分でも嫌になる。
"…The stone oven can bake six pizzas at the same time."
(……石窯なら、一度に六枚焼けます)
引き受けるとは言っていないのに、もう可能かどうかを計算している。
"See? You’re already planning!"
(ほら! もう計画してる!)
ジェニファー先生が笑い、僕もつられて笑った。笑っているあいだは、その場が丸く収まる。以前なら、それで十分だった。
彼女が離れたあと、教材を抱えて次の教室へ向かうベネット先生を見つけた。声をかける理由を考える前に、僕はその後を追っていた。
"Ms. Bennett."
七月一日の話をすると、ベネット先生はすぐには答えず、僕の顔を見た。
"Why are you asking me?"
(なぜ、私に聞くのですか?)
今度は僕が黙った。本人に言えばいい話だし、家を使うなら父さんに確認する方が先だ。そもそも、ベネット先生に相談しなければならない理由が見つからない。
"I’m not sure."
(よく分かりません)
"You don’t have to say yes just because she asked."
(頼まれたからといって、引き受ける必要はありませんよ)
"I know. But twenty people is possible. If we use the garden, and if it rains—"
(分かっています。でも二十人なら可能です。庭を使えば、それに雨なら――)
"You’re planning again."
(また計画していますね)
同じ言葉なのに、今度は少しも褒められた気がしなかった。
"I’m not saying yes."
(引き受けるとは言ってません)
"I know."
(分かっています)
穏やかな声で返されると、言い訳だけが自分へ戻ってきた。断るかどうかを相談しているはずなのに、僕はずっと開催する方法を説明している。
ベネット先生は腕時計を見た。
"Are you free this Saturday? June twenty-fourth."
(今週の土曜日、六月二十四日は空いていますか?)
"Yes."
"Then let’s talk about it."
(では、その話をしましょう)
なぜ彼女がそこまでしてくれるのか分からない。それでも空いていると答えると、ベネット先生は小さく頷いて去った。
僕はその背中を見送りながら、今度は別の問いが浮かんだ。なぜ僕は、断り方をジェニファー先生本人ではなく、ベネット先生に聞いているのだろう。
四
帰り道、車のヘッドライトが六月の湿ったアスファルトを白く切っていた。信号で止まるたび、二つの問いが戻ってくる。
Why?
How do you know?
理由を持たない意見を、会話らしい勢いで言ってしまった。ジェニファー先生の前なら、それでも場は動く。言い間違えても笑いになり、言葉に詰まれば誰かが助けてくれる。その軽さに救われたことは何度もある。
でも、軽いことと、考えなくていいことは同じではない。
僕は家族に、なぜあんな言葉をぶつけたのか。なぜ自分から電話をかけないのか。どうして頼まれると、断るかどうかより先に実現する方法を考えるのか。そして、なぜジェニファー先生のことをベネット先生に相談したのか。
最後の問いには、答えが出なかった。相談の相手ならマーカス先生でもスミス先生でもいいはずだ。そこまで考えて、やめた。答えがないものを無理に埋めるのも、今日やったことと同じ気がした。
家に着き、靴を揃え、台所で湯を沸かした。コーヒーを淹れて机に座り、ノートを広げる。二行の下に書き足した。
Don’t hide behind conversation.
(会話らしさの後ろに隠れるな)
話せるようになったことは悪くない。最初の頃なら、自分の意見を英語で言うところまでたどり着かなかった。ただ、言葉が出るようになったからこそ、何を言っているのかまで自分で引き受けなければならない。
七月一日のことも、まだ決まってはいない。それでも石窯で何枚焼けるかを先に答えた。
決めたのは、僕ではない。
いや、決めなかったのは、僕だ。
僕はノートの余白に、もう一行だけ英語で書いた。
"A structure isn’t enough."
(骨組みだけじゃ足りない)
主語と動詞を置けば文は立つ。けれど、自分の言葉として立たせるなら、その下に理由がいる。理由がないなら、ないと言えばいい。今日、ベネット先生が言ったのは、たぶんそれだけだ。
手帳を開き、六月二十四日の欄に「ベネット先生」と書き込んだ。文字にしてみると、個人教授の予定のようにも見えて、少し落ち着かなかった。横に「ジェニファー先生誕生日の件」と書き足すと、今度は妙に事務的になった。
なぜあの人に相談したのか。それはまだ、うまく言葉にならない。
コーヒーの苦味が舌に残った。
急かされない問いのほうが、ずっと痛い。




