Lesson 15 主語を置けば骨組みが見える
1989年6月15日(木) 18:03
一
会社を少し早めに切り上げ、僕は学院へ向かった。鞄の中には、父さんが署名した委任状が入っている。家の名義は父さんだ。僕はそこに住んでいる息子で、今日はその父さんの代理人だった。
受付で名前を告げると、奥の応接スペースに通された。机の上には和文と英文を並べた契約書が置かれている。表題は「キッズキャンプ会場貸借契約書」。紙の白さが、いつもより硬く見えた。
ページをめくると、英語の段落が石窯の煤みたいに詰まっている。"Whereas"、"hereinafter"、"liability"、"indemnify"。会社の書類で見たことのある単語もあるが、並び方が違うと急に遠くなる。
僕はすぐにペンを取らず、最初のページへ戻った。父さんに話したときの言葉を思い出す。
――曖昧なまま引き受けるな。話を詰めてからにせえ。
期間、参加人数、使用範囲、保険、事故時の責任。気になる箇所に鉛筆で小さく印をつけ、担当者へ順に確認する。説明を聞くうちに、頭の中では庭の動線や水道の位置、雨が降った場合の避難場所まで勝手に組み上がっていった。段取りが見え始めると、さっきまでの硬さが少しだけ薄れる。
「こちらでよろしければ、ご署名をお願いします」
差し出されたペンを受け取り、指定された欄を見る。その前に、父さんから任された範囲を越える条項がないか、印をつけた箇所だけもう一度目で追った。確認した内容と違うところはない。父さんの名前の下に「代理人 山本直樹」と書き、英文欄にもサインを入れた。筆記体は慣れていないので、文字が少し揺れた。
(まさか、英文契約書に代理でサインすることになるとはな)
心の中では苦笑したが、手は止めなかった。この署名で、家を貸す側としての約束が正式に決まる。冗談で済ませられる話ではない。
最後のページを閉じると、担当者が控えを封筒へ入れた。受け取った封筒は、来たときの委任状より軽いはずなのに、鞄へ戻すと妙に存在感があった。
二
ロビーへ戻ると、夕方のざわめきが耳に入ってきた。受付では電話が鳴り、奥からは笑い声とコーヒーの匂いが流れてくる。僕は会釈をして壁際を通り抜けようとした。
窓際のソファに、和装の女性が座っていた。淡い鼠色の着物に落ち着いた帯を締め、髪はいつものようにきれいに上げられている。彼女は僕を見ると、小さく手を上げた。
「こんばんは」
「こんばんは」
そのまま通り過ぎるつもりだったが、彼女は膝の上の教材を軽く持ち上げた。
「旅行英会話の教材って、ご覧になったことあります?」
「いえ、あまり」
「海外旅行の準備にいいらしいの。空港とか、ホテルとか、買い物とか。そういうの」
話している内容のわりに、声はあまり弾んでいなかった。どこへ行くのか聞こうとして、僕はやめた。聞けば答えを求めることになるし、答えたくないことまで話させるかもしれない。
「そうなんですね。……参考にしてみます」
彼女は微笑んで頷いた。それ以上は何も言わなかった。僕も、何か言葉を足した方がいいのかと一瞬迷ったが、そのまま会釈して離れた。
教室へ向かう廊下で、さっきの契約書に並んでいた英語を思い出した。意味を曖昧にしたままサインする気にはなれなかったのに、会話では曖昧なまま口を動かしていることがある。
最近は、前よりしゃべれるようになった。単語が出ればそのまま押し切り、相手が笑えば僕も笑う。場は回るし、前ほど怖くもない。けれど、主語が消え、語順が崩れ、最後に動詞を探す癖は残っている。
(会話っぽいことに、逃げてる)
そう思うと、胸の奥が少し熱くなった。受験英語と英会話を別物にして、片方を古いものだと決めつければ、自分は前へ進んでいる気になれた。
ロッカーへ教材を入れながら、会社の制度が頭をよぎった。点数によって区分され、その先の配属まで決まる。明日は社内のTOEIC-IPだった。
三
翌日、会社の会議室が試験会場になった。
普段は打ち合わせに使う長机が一人分ずつ離され、上には問題冊子と解答用紙だけが置かれている。紙と鉛筆の匂いが混ざり、学校の教室みたいだった。
開始の合図のあと、リスニングが流れ始めた。聞き取れない一文があっても、音声は待ってくれない。考えているうちに次の問題が始まり、前の問いへ戻ることもできない。学院では分からなければ聞き返せるが、試験ではそれができなかった。
リーディングに移ると、今度は時間が追いかけてきた。長文を読み、設問を確認して本文へ戻る。それを繰り返しているうちにも時間は減っていき、どうしても時計が気になった。知っている単語が並んでいても、文章が長くなると意味を取るのに時間がかかる。
以前なら、もう少し読めた気がした。いや、読めていたつもりだっただけかもしれない。鉛筆を握る指がだんだん固くなり、消しゴムの粉が解答用紙の端にたまっていく。
(測られてる)
数字で評価されることは最初から分かっていた。だから学院へ通い始めた。それでも、実際に机へ座り、残り時間を気にしながら丸を塗っていると、知識として分かっていたことが身体に落ちてくる。
終了の合図が出ると、あちこちで椅子が鳴った。僕も鉛筆を置き、長く息を吐いた。すぐに点数が出るわけではない。それでも、ぼんやりしていた不安に、少しずつ輪郭ができ始めていた。
四
帰宅すると、靴を揃え、手を洗い、台所へ立った。湯を沸かしてコーヒーを淹れる。決まった手順を繰り返していると、頭の中のざわつきが少し静かになる。こういうやり方に助けられるところは、昔から変わらない。
食後、棚の奥から文法書を引っ張り出した。大学受験のころに使っていたもので、表紙の角が丸くなっている。開けば、S-V-O、時制、関係代名詞、仮定法と、見覚えのある項目が整然と並んでいた。
指で例文を追うと、赤い下敷きで答えを隠し、何度も暗記した頃の感覚が戻ってくる。あの頃は、覚えれば正解できると思っていた。今は、そのやり方だけでは話せないことも知っている。
だから僕は、いつからか文法を「英会話」の反対側へ置いていた。単語で押し切れるようになったことを、自由になったことだと思っていた。
(対立させて、安心してたんだ)
英会話か、受験英語か、ではない。どちらも道具だった。
実家の米と酒をもっと遠くへ売りたい。海外まで持っていきたい。そのために必要なら、聞く力も、話す力も、読む力も、書く力も使えばいい。文法だけ特別に嫌う理由はなかった。
僕は文法書を一度閉じ、それからもう一度開いた。今度は最初のページから読み直すつもりで、鉛筆を手に取る。
玄関の電話は鳴らなかった。母さんからの電話がないことに、少しだけほっとする自分はまだいる。そのことまで今夜まとめて片づけるつもりはなかった。
ただ、英語のことなら、今できることがある。
僕は例文の下に線を引き、声に出した。
"I need a structure."
(僕には骨組みが要る)
部屋の静けさに、自分の声が小さく残った。
主語は、僕だ。
今日は、それだけで十分だった。




