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石窯のある家 ――英語より難しい、ふたりの距離  作者: 早瀬 構


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Lesson 14 笑われても笑っていられる

1989年5月28日(日) 14:20


一


 兄ちゃん夫婦の家の畳は、ウチより少し柔らかい。清隆と清和はその柔らかさを知っているのか、僕が座った途端に遠慮なく膝へ乗り、腰へぶつかり、最後には背中へしがみついてきた。


「直樹おじさん、こっち見て! かいじゅう!」


「かいじゅうはお前らだろ」


 声が自然に出た。学院で話すときより少し低く、言い方も雑だが、言葉を選ぶ前に呼吸がある。会社では相手に失礼がないように言葉を選び、学院では英語として正しいかを考える。ここでは、そんな順番がほとんどない。


「おじちゃん、英語うたって」


「は?」


「クモのうた!」


 あの短いやつか。僕は咳払いをして大げさに胸へ手を当てた。有名なテノール歌手のつもりである。


"♪ The itsy bitsy spider climbed up the waterspout……♪"


(♪ ちっちゃいクモが雨どいをのぼって……♪)


「へんな声!」


 清和が笑い、清隆は真顔で言った。


「おじちゃん、お歌も英語もへたっぴだ」


 一瞬だけ、胸の奥が反射で動いた。でも、次の瞬間には笑っていた。


「うるさいよ」


 清隆の頭を軽く撫でると、本人も「へへ」と笑う。痛くも痒くもないし、刺さる場所じゃない。


 五歳の甥が言う「へたっぴ」に、そんな裏側はない。だから僕も、そのまま受け取ればよかった。


「もっと、ちがうの!」


「違うのって何だよ」


 清和が両手を振り回した。


「テレビみたいに! 英語のやつ!」


 人形がたくさん出てきて、大きな鳥や、青いやつが動き回る番組だろう。僕は雰囲気だけを拾い、腰を落として口を大きく開け、蜘蛛がのぼる仕草を大げさにやった。


"♪ Spider! Spider! Up, up, up! Yay! ♪"

(♪ クモ! クモ! のぼる、のぼる! やったー!♪)


 清隆が腹を抱えて転がり、清和も僕の真似をして腕を振り回す。兄ちゃんは呆れたように口元を緩め、義姉さんは台所から「何やってんの」と笑った。もう一度やれと言われたが、僕の方が先に息を切らした。


二


 夕方、チビたちがようやく静かになった頃、僕は居間で両親と兄ちゃん夫婦に向き直った。今度は遊びの話ではない。


「……あかね外語学院の夏のキッズキャンプをさ、ウチでやれないかって話が出てる」


 母さんが眉を上げ、父さんは湯呑みを置いた。兄ちゃんも箸を止める。


「三十人くらい。庭にはテントを張れるし、石窯も使える。でも、僕だけで決める話じゃないから」


 言いながら、少し妙な感じがした。自分から家のことで両親に相談している。そんな当たり前のことを、僕はしばらく避けていた。


 父さんが少し考えてから言った。


「子供さんが怪我でもしたら、どうする」


「そこは僕も気になってる。学院がどんな保険に入ってるか、責任者は誰か、夜は誰が見回るのか。確認してからじゃないと引き受けられない」


「火も使うんだろ」


「石窯を使うなら、子供だけでは近づけないようにする。マーカス先生たちにも見てもらうつもり」


 母さんも頷いた。


「よその子を預かるんだからねえ。何かあってからでは遅いし」


「うん。場所を貸すだけなのか、ウチまで責任を負うのかも聞く」


 前なら、頼まれた時点で庭の使い方や食事の段取りばかり考えていたはずだ。テントを何張置くか、炊事場をどこにするか、石窯へ何時に火を入れるか。そういうことなら、僕はいくらでも考えられる。


 でも今回は、その前に確認することがいくつも浮かんだ。


 兄ちゃんが僕を見て、苦笑した。


「まあ、家は父さん母さんのだしな」


 そのとき、義姉さんが茶碗を置き、何でもないことのように言った。


「清隆と清和を無料で参加させてくれるなら、私は賛成」


 一拍置いて、兄ちゃんが吹き出しかけた。


「現実的だな、お前」


「だって、せっかくなら行かせたいでしょ。外国の先生も来るんでしょ?」


「英語分からんぞ、あいつら」


「分からないから行くんでしょ」


 義姉さんに言われ、兄ちゃんが黙った。父さんの口元も少し緩んだ。


 母さんが義姉さんを見て、それから僕を見た。見合いの話をするときの目ではない。家のことを相談している、それだけの目だった。


 父さんが短く息を吐く。


「家を使うのは、ええ。ただし、曖昧なまま引き受けるな。話を詰めてからにせえ」


「うん」


 あの日の電話のことは何も片づいていない。母さんも触れなかったし、僕も謝れていない。


 それでも、今日は同じ卓を囲み、同じ話について考え、普通に返事をした。仲直りしたわけではない。ただ、壊れたままでもないらしい。


 帰り際、そのことだけで胸の奥が少しほどけた。


三


 翌日、学院のロビーは平日らしいざわめきに満ちていた。僕はマーカス先生を見つけ、先に声をかけた。


"My parents said yes. We can use the house, if we settle the details."

(両親は了承しました。細かい条件を詰めれば、家を使えます)


 マーカス先生の顔がぱっと明るくなる。


"Great! Coffee Bear, you saved us!"

(最高だ! コーヒーベア、大助かりだ!)


「救った」というほどではない。ただ、すぐ決めなかっただけだ。


 僕は保険と責任者、それに石窯を使う場合の安全管理について確認した。マーカス先生は冗談を挟まず、一つずつ答えた。保険の適用範囲は学院側で確認したうえで知らせること、主任講師のスミス先生が全体責任者になる予定であること、火を扱う場所には子供だけを近づけないこと。こちらが条件を出せば、向こうも普通に条件として受け取る。


 断るか引き受けるかの二つしかないと思っていた自分が、少し馬鹿らしくなった。


 最後に、もう一つ頼んだ。


"I have two nephews — twins, both five. If possible, I’d like them to join the camp."

(双子の甥がいて、二人とも五歳です。できれば参加させてやりたいんです)


"…They’re the owner’s family, right? We can’t exactly ban them from their own yard."

(……家主の家族だろ? 自分ちの庭を立ち入り禁止にはできないよな)


 マーカス先生は肩をすくめて笑った。僕も会釈し、教室へ向かう。


 廊下の向こうからベネット先生が歩いてきた。目が合ったが、彼女は立ち止まらない。


"Good evening, Mr. Yamamoto."

(こんばんは、山本さん)


"Good evening."


 それだけだった。冷たいわけではない。そう思おうとしても、以前より距離があるように感じる。


 レッスン中、僕が言葉に詰まった。言いたい内容は頭にあるのに、動詞が出てこない。以前なら日本語で助けてくれたような場面でも、彼女は淡々と待っている。


"Take your time."

(急がなくて大丈夫です)


 助けない。でも、切らない。僕が自分で組み立てるまで、境界線の向こう側から待っている。


 僕は主語を置き、動詞を先に決め、文を組み直した。一度言いかけた文を途中で捨て、最初から言い直す。口の中が乾いたが、最後まで言えた。


 ベネット先生は小さく頷いた。


"Let’s move on."

(次に進みましょう)


 それだけだった。


 せめて "Good" くらい言ってくれてもいいじゃないかと思い、その直後、自分で驚いた。


 僕は、あの人に何を求めているんだろう。


四


 休憩時間、自販機で紙コップを取ったところへ、背中から軽く肩を叩かれた。振り向く前に分かる。


"Nao! I heard about Kids Camp! Awesome!"

(ナオ! キッズキャンプの話、聞いたよ! 最高!)


 ジェニファー先生は、いつも通り明るく、いつも通り近い。その「いつも通り」に、僕は一瞬だけほっとした。


 何かを間違えても、この人なら笑ってくれる。言葉に詰まれば待つより先に助けてくれるし、こちらが考え込めば、その場を明るくしてしまう。


 以前の僕なら、その居心地のよさを疑わなかっただろう。


"You’ll be a great host again!"

(また最高のホストになるね!)


 僕は笑いかけて、少しだけ止まった。


"Maybe. But this time, we need rules first."

(たぶん。でも今回は、先に決め事が必要です)


 ジェニファー先生が目を丸くしたあと、にっと笑う。


"Oh! Mr. Serious!"

(まあ! まじめさん!)


 その軽さに寄りかかりたくなる。何を言っても笑ってもらえる場所にいれば、間違えたかどうかも、相手がどう思ったかも、深く考えなくて済む。


 けれど、寄りかかったままなら、また自分で立てなくなる。そう思えるくらいには、僕も少し変わったらしい。


 教室へ戻る廊下の奥に、ベネット先生の背中が見えた。声をかければ振り返るだろう。でも、何を話したいのか自分でも分からないまま呼び止めるのは違う気がした。


 僕はそのまま紙コップを捨てた。


 昨日の畳の柔らかさは、ここにはない。清隆と清和なら、僕が上手いか下手かなんて考えず、その場で笑って終わる。僕も同じように笑えた。


 その感覚は、まだ残っている。


 それが残っているなら、今日はそれでいい。


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