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石窯のある家 ――英語より難しい、ふたりの距離  作者: 早瀬 構


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Lesson 13 すぐに答えないという順番

1989年5月24日(水) 18:55


一


 学院のロビーは、夕方特有のざわめきに満ちていた。英語と日本語が重なり、受付では電話の声と笑い声が行き交い、奥からコーヒーの匂いが薄く流れてくる。


 僕は自動ドアを抜け、受付に軽く会釈した。会社からそのまま来た日でも、ここへ入る前にはネクタイを直し、頭の中を英語に切り替えるようにしている。何を聞かれても、とりあえず一言は返す。分からなければ聞き返す。以前ならそれだけで肩に力が入ったが、最近はその手順にも慣れてきた。


 ロビーの窓際に、和装の女性が座っていた。何度か同じレッスンになった人だ。淡い鼠色の着物に落ち着いた帯を締め、髪はきれいに上げられている。背筋もまっすぐで、膝の上には薄い英語のテキストが閉じて置かれていた。


 僕が会釈だけして通り過ぎようとすると、向こうから声をかけられた。


「こんばんは」


「こんばんは」


「最近、ずいぶんお話しになれるようになりましたね」


「ありがとうございます」


 素直に嬉しかった。少なくとも、最初の頃のように自分の番が来るだけで頭が真っ白になることは減っている。


「ただ、ひとつ気になることがあります」


 柔らかい言い方だったが、その一言で背筋が少し固くなった。


「主語が、よく消えますね」


「主語、ですか」


「ええ。それから語順。日本語で考えた順番のまま話し始めて、最後に動詞を探していらっしゃることが多いです」


 思い当たることしかなかった。単語は前より出る。何か言えば教室が笑うことも増えた。それで、話せるようになってきた気になっていた。


「レッスンは盛り上がりますし、聞いていて楽しいんですけれどね。せっかく単語が出ているのに、文章の形が途中で崩れるのは惜しいです」


「……なるほど」


「急がなくてよろしいのよ。最初に形を作っておくと、あとが楽ですから」


 責められているわけではない。それなのに、妙に残った。以前なら「通じればいい」と片づけていたかもしれない。実際、ジェニファー先生の授業では、それでも場は進んでいた。


 彼女は立ち上がり、小さく会釈した。


「ご自分でも、少し分かっていらっしゃるでしょう?」


 僕は返事の代わりに笑った。否定できなかったからだ。


二


 その日の担当はジェニファー先生だった。


“Okay, let’s talk about last weekend!”

(さあ、先週末の話をしましょう!)


 以前なら、その声量だけで肩に力が入ったが、今はもう驚かない。彼女の質問は速いが、全部を聞き取れなくても、拾えた単語から何を求められているか考えればいいことも分かってきた。


 順番が回ってきて、僕は週末のことを話した。


“I cleaned my house and worked a little.”

(家を掃除して、少し仕事をしました)


 ここまでは問題なかった。ところが、もう少し言おうとして、いつもの癖が出た。


“And… cooking, and reading. Busy, but good.”

(それから、料理して、本を読んで。忙しかったけど、良かったです)


 教室が軽く笑い、ジェニファー先生も頷いた。


“Good! Now, one more time. Full sentence.”

(いいね! じゃあ、もう一度。ちゃんとした文で)


 笑われたわけでも、注意されたわけでもない。いつもの調子で言われただけだった。


 僕は一度息を吸った。さっきロビーで言われたことを思い出し、最初に誰が何をしたのかを置いてみる。


“I cooked dinner, and I read a book. I was busy, but it was a good weekend.”

(夕食を作って、本を読みました。忙しかったけれど、いい週末でした)


“Yes! That’s better.”

(そう! その方がいい)


 言い直した方が長いのに、自分ではさっきより楽だった。途中で次の言葉を探し回らなくても、最初に形を決めると、その中へ単語を入れていける。


 次の話題で石窯のことになり、僕は口にした。


“So, if you come to my place again, maybe we can try a new pizza.”

(もしまたうちに来たら、新しいピザを試せますよ)


“See? He’s inviting us already!”

(ほら、もう誘ってるじゃない!)


 教室が笑い、僕も笑った。口から出てしまってから、また家へ人を呼ぶ話をしていることに気づいたが、今回はただの冗談で終わった。


 授業のあと、僕はノートの余白に、自分で小さく書いた。


 I cooked dinner.


 I read a book.


 文章にすると、思っていたより単純だった。難しい単語を知っているかどうかより、まず誰が何をしたのか。それだけのことなのに、話し始めると僕はよく順番を飛ばしていた。


三


 家に戻ると、石窯の前へ行った。


 火を入れるつもりはない。扉を開け、残っていた灰を掻き出し、内側についた煤を落としていく。金属のスコップが石に触れるたび、乾いた音が庭に響いた。


 石窯は、順番を飛ばすとうまくいかない。薪を組み、火を育て、温度が上がるのを待つ。焦って薪を足しても煙ばかり出るし、火が強すぎれば生地だけ先に焦げる。慣れてくれば、目分量でできることも増える。


 僕は手を止め、学院で書いたノートを思い出した。


 I cooked dinner.


 I read a book.


 あれだけのことを言うのに、わざわざ途中で迷っていたらしい。


 スコップの先で灰を集め、缶へ移した。煤がさらさらと落ちて、石の色が少し戻る。全部きれいにする必要はない。次に火を入れるとき、困らない程度でいい。


 僕は道具を元の場所へ戻し、それで終わりにして家へ入った。


四


 金曜の夕方、レッスンを終えてロビーへ出ると、マーカス先生に呼び止められた。


“Coffee Bear! Got a minute?”

(コーヒーベア! ちょっといいかい?)


“Sure.”

(もちろん)


“We’re planning the Akane Kids Camp. August thirteenth to fifteenth.”

(あかねキッズキャンプを計画している。八月十三日から十五日だ)


 毎年、県北のキャンプ場へ行く行事だと聞いたことがある。子供向けの英語キャンプで、講師たちが泊まり込みで面倒を見るらしい。


“This year, transportation is expensive. Parents are complaining about the cost.”

(今年は交通費が高い。保護者から費用について不満が出てる)


 そこまで聞いたところで、何となく嫌な予感がした。


 マーカス先生は、にやりと笑った。


“Your place. Big garden. Stone oven. Thirty kids, maybe.”

(君の家だ。広い庭、石窯。三十人くらいならいけるだろ)


“You mean… at my house?”

(僕の家で、ということですか?)


“Why not? We wouldn’t need a bus. Easy access. You’re a perfect host.”

(いいだろ? バスもいらないし、行きやすい。君は最高のホストだ)


 最高のホスト、と言われて、すぐに頭の中で庭の広さを測り始めた。テントを張る位置、炊事の場所、子供たちが行き来する動線、石窯の火入れ、トイレ、手洗い。三十人でも庭まで使えば何とかなるし、雨が降った場合に家の中をどう使うか考えておけばいい。


 そこまで考えてから、自分がもう引き受ける前提で段取りを組んでいることに気づいた。


“It is physically possible.”

(物理的には可能です)


 口にしたあと、いったん止まる。


 家は広く、庭もあるし、僕が住んでいる。けれど、僕が勝手に決めていい家ではない。


“But it’s not just about space.”

(でも、場所だけの問題ではありません)


 マーカス先生が片眉を上げた。


“My parents own the house. I need to talk with them first.”

(家の所有者は両親です。まず相談が必要です)


 言いながら、自分でも少し意外だった。断っているわけではない。ただ、今ここで決めないと言っている。


“I can’t decide alone.”

(僕ひとりでは決められません)


 マーカス先生は数秒こちらを見てから、あっさり頷いた。


“Fair enough. Talk to them. Let me know.”

(もっともだ。相談して知らせてくれ)


“Yes.”

(はい)


 それで話は終わった。もっと押されるかと思っていたので、拍子抜けするほどだった。


 帰りの車で信号待ちをしていると、父さんにどう説明するかを考えた。母さんは何と言うか。兄ちゃんにも先に話した方がいいかもしれない。連休以来、家のことで自分から両親に話を持っていくことは避けていたから、考えるだけで少し胃が重くなる。


 けれど、相談しないまま決めてしまえば、あとで説明する方がもっと面倒になる。


 面倒ではあるし、気も重い。それでも、今日はその場で「いいですよ」とは言わなかった。


 青信号に変わり、僕は車を出した。


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