消えた観測者
翌朝、無色は寝不足の目をこすりながらパソコンのログを調べていた。
昨夜見た一瞬の文字列。だが、システムログをどれだけ遡っても、そんなテキストを受信した形跡はどこにも残っていない。
(やっぱり、疲れてて見間違いでもしたのかな……)
そう自分に言い聞かせようとした、その時だった。
「白峰様!!大変ですわ!!」
インターホンも鳴らさず、玻璃が血相を変えて事務所のドアをぶち破る勢いで飛び込んできた。その後ろには、珍しく険しい表情をした倉田と、いつになく張り詰めた空気を纏う零が続いている。
「九条院さん、今度は何――」
「世界線の変異波形が、異常数値を叩き出していますの!千葉、いえ、関東全域の『未来の枝』が、今この瞬間も猛烈な勢いで収縮されていますわ!」
倉田がタブレットをガラステーブルに叩きつける。画面に映し出された確率変動のグラフは、あのビル崩落の夜や、灯をめぐる事件を遥かに凌駕するレベルで、真っ赤な警告色に染まっていた。
「数時間後、このエリアの『生存確率』が完全にゼロになります。理由は不明。天災か、あるいは――世界そのもののシステムエラーか」
倉田の声に、いつもの余裕はなかった。
「生存確率、ゼロ……?」
無色の顔が引きつる。
「無色さん、能力を」零が静かに、だが拒絶を許さないトーンで猫耳ケースを差し出した。「この規模の崩落を止められるのは、あなたの『確定能力』だけです」
「……っ」
灯を捜したあの夜の、脳を裂くような激痛と、耳から流れた血の感触が蘇る。もう二度と、あの耳に触れたくはなかった。あの天井の向こうの「視線」を感じたくはなかった。
しかし、ここで自分が逃げれば、千葉が、零が、この狂人たちが、全部消える。
無色は意を決し、震える手で黒い猫耳を頭に装着した。
「キィィィィィィ――ッ!!」
やはり、凄まじい高周波が襲う。視界がノイズで真っ白に染まり、無数に弾ける未来の選択肢が、すべて途中でブツリと断線していく。生存ルートが、どこを探しても、無い。
「う、あ、あああァァッ!!」
頭痛に叫ぶ無色。
「ダメですわ!出力が全く足りません!」玻璃が計測器を抱えて叫ぶ。「無色さんの脳にかかる負荷が大きすぎます!このままでは世界が確定する前に、無色さん自身が存在の限界を迎えて消滅してしまいますわ!」
「僕の数式でも、この崩落の速度には追いつけない……!」倉田が歯噛みする。
無色の意識が、急速に遠のいていく。ノイズの向こう、世界の天井が、ミシミシと音を立てて「開いていく」ような感覚。
(ああ、だめだ。私じゃ、これだけの因果の責任は背負いきれない――)
諦めかけた、その時だった。
無色のノイズまみれの視界の片隅に、「確率0.000000%」と表示された、完全に死んでいるはずの、一本の世界線の枝が映り込んだ。
その、死んだはずの枝の先端が。
まるで、誰かが向こう側から強引に手繰り寄せたかのように、ぐにゃりと歪み、無色の手元に向かって「繋がりに」伸びてきたのだ。
同時に、耳の奥のノイズが、微かな、けれど明確な『音』を結んだ。
――カチ。カチ。カチ。
それは、おじいちゃんが愛用していた、古い機械式懐中時計の秒針の音だった。
(……おじいちゃん?)
無色が心の中で叫んだ、その直後。
ノイズの奥で、無色には聞き取れない「別の音」が、秒針の音に重なって、冷たく響いた。
――カチ。カチ。……ザザ、ツ……『 承認――観測を継続します 』
「無色さん……?変異波形が……止まった?」玻璃が驚愕の声を上げる。
その死んだはずの枝が、無色の猫耳のシステムをバイパスし、崩落する世界線をミリ単位の精度で強引に繋ぎ止めていく。
それは無色の力ではない。無色の猫耳の出力を、裏側から完璧にアシストし、確率の弾道をコントロールしている「別の大きな意志」の存在だった。
ハッと、無色の脳裏に、これまでのすべての違和感が一本の線となって繋がった。
宮内を救った、あの確率0.0001%の都合の良すぎる突風。
灯の事件で、玻璃のジャマーが届くより一拍早く、暴走する猫耳が、まるで内側から守られるように、自ら出力を絞ったこと。
そして昨夜、誰も触れていないパソコンに表示された、あの不可解な文字列。
「……おじいちゃん」
無色は、涙が溢れそうになるのを堪え、歯を食いしばった。
「おじいちゃんは、消えたんじゃない。箱の……もっと別の場所から、ずっと私を助けてたんだ……!」
先代の白峰祖父は、世界から消滅したわけではなかった。彼は、この歪んだ因果の底で立ち尽くす孫のために、今もどこかで、世界線のピンを留め続けていたのだ。
「みんな!私を支えて!まだ、ルートはあるわ!」
無色の叫びに、狂人たちが一斉に応じた。
「数式のサポートは任せてください!」倉田のペンが走る。
「我が九条院の全出力、無色さんに預けますわ――っ!」玻璃がジャマーの出力を最大にする。
「足場は私が保証します」零が、倒れそうな無色の身体を後ろからがっしりと支えた。
四人の絆と、姿なき先代の干渉。
その総力戦の果てに、真っ赤に染まっていた世界線は、静かに安定した青色へと書き換えられていった。
危機は去った。無色は猫耳を外し、激しい息のままソファに倒れ込む。
おじいちゃんは生きている。どこかで、今も戦っている。
「捜さなきゃ……。おじいちゃんを、絶対に」
無色の言葉に、零も倉田も、力強く頷いた。事務所の全員が「先代の捜索」という新たな目的に向かって、一つにまとまった瞬間だった。
だが。
その歓喜の輪のすぐ後ろで。
ハーブティーのカップを持った九条院玻璃だけが、完全に感情の消え失せた、底の知れない真顔で、静かに呟いた。
「……無色さん」
「え……?何よ、九条院さん」
無色が振り返る。
玻璃は、手の中のカップを見つめたまま、微動だにせず、冷徹な声音で言った。
「……それ、本当にお祖父様だと思いますの?」
部屋の空気が、一瞬で凍結した。




