箱の外側
九条院の神社から戻った白峰事務所は、かつてない静寂に包まれていた。
全員の視線の先には、ガラステーブルの上にある「黒い猫耳ケース」、そしてあの「正体不明の金属片」。
「――橘さん、僕のマイカップに、もう一杯コーヒーを」
静寂を破ったのは、ソファで数式ノートを凝視していた倉田だった。
「倉田さん、ここをどこだと思っていますの。勝手におかわりを要求しないでくださいまし」
玻璃がいつもの調子でトゲを刺すが、その声には、まだどこか元気がなかった。九条院の技術体系すら全否定する「未知の物質」への恐怖が、彼女の横顔に暗い影を落としている。
「いいじゃないですか九条院さん。脳に糖分を補給しないと、先代の残した暗号は解けませんよ」
倉田は零から受け取ったカップを揺らし、不敵に笑った。「白峰さん。先代の残した日記データ、最下層の隠しセクタを開いてみてください」
無色は言われるがままにノートパソコンを操作した。
文字化けの嵐の底。そこに、行方不明のおじいちゃんが残した、本当の遺言が埋もれていた。
『シュレーディンガーの猫。箱の中の猫は、箱の外の人間が観測して初めて、生死が確定する。――ならば、我々観測者は、本当に“箱の外”にいるのだろうか?』
『私は、No.0の鍵を開けた。そして気づいてしまった。箱の外にも、箱があったのだ』
「箱の外にも、箱があった……?」
無色が首をひねる。
倉田は立ち上がり、事務所のホワイトボードに、歪な「二重の四角」をマーカーで描き殴った。
「白峰さん。僕たちは、君の猫耳を使って世界の未来という『箱の中の猫』を見て、確率を確定させていると思っていた。つまり、自分たちが “箱の外の人間” だと信じていたわけだ」
倉田は、内側の四角を指差す。
「でも、これが先代の『仮説』だとしたらどうです?僕たちがいるこの世界そのものが、さらに巨大な『外側の世界』に観測され、閉じ込められている――二重目の箱の中(水槽)に過ぎない。君が猫耳を起動するたび、世界の天井の向こう側にいる『何か』が、この座標をピンポイントで覗き込んでいる。その“外側の視線”のエネルギーを借りているからこそ、未来が確定するんだとしたら?」
「……は?」
無色の全身の血が、一瞬で凍りついた。昨夜、あの少女・灯が、自分のすぐ後ろの虚空を見つめて言った言葉がフラッシュバックする。
『あなたの後ろにいる人……ずっと見てる』
あれは、背後じゃない。世界の天井の向こうから、自分を覗き込んでいた「何か」の視線だったのか――?
「――お待ちになって」
それまで黙っていた玻璃が、鋭い声で遮った。
「あまりにも飛躍した空論ですわ、倉田さん。その仮説、現時点では何一つ数学的にも実験的にも証明できませんわ。ただのオカルトです」
「ええ、現時点ではね」倉田は楽しげに肩をすくめる。
「つまり……全部、倉田さんの推測、というか妄想ですね?」
零が冷めた目で確認すると、無色は大きく息を吐き出し、ソファに深く背を預けた。
「ああ、びっくりした……。なんだよ、ただの頭のおかしいオタクの仮説か。心臓に悪いからやめてよね」
「でも、先代がその『外側』に引きずり込まれて消えたと考えれば、全ての辻褄が――」
「はいはい、オタクの妄想はそこまで!今日はもう解散!」
無色は強引に話を打ち切り、全員を事務所から追い出した。あんな気味の悪い話、これ以上聞いていたくなかった。
◇
深夜。しんと静まり返った白峰事務所。
カーテンの隙間から、薄白い月光だけが差し込んでいる。
机の上には、黒い猫耳ケース。当然、誰も触れていない。電源など入っているはずがない。
――ピッ。
電子音が、誰もいない暗闇に小さく響いた。
ケースの隙間から、猫耳のLEDが一瞬だけ、不気味な青色に点灯する。
同時だった。
スリープモードになっていたはずの無色のノートパソコンの画面が、音もなくパッと起動した。
漆黒の画面の中央、白いシステムフォントで、見覚えのない一行のテキストがタイピングされる。
『 観測を確認しました 』
次の瞬間、画面は激しく明滅し、何事もなかったかのように再び真っ黒なスリープ画面へと戻った。
静寂だけが、部屋に取り残される。
そのログを残したものが何なのか、誰も、まだ知らない。




