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シュレーディンガーの猫耳

「……え?」

 無色の口から、間の抜けた声が漏れた。

 ソファの横に立つ玻璃の顔には、いつもの狂気的な笑みも、お嬢様らしい華やかさも一切なかった。ただただ、冷徹で客観的な「観測者」の目が、そこにあった。

「どういう、意味よ。時計の音も、あの暗号の遺言も、おじいちゃんのものだったわ。今まで私をピンポイントで助けてくれたのなんて、おじいちゃん以外に――」

「だからですわ、無色さん」

 玻璃はゆっくりと顔を上げ、無色の目を真っ直ぐに見据えた。

「条件が揃いすぎていますの。九条院の技術を凌駕する『別世界の半導体』。現代の数式が通用しない『世界線のエラー』。そんな人知を超えた上位のシステムが、なぜ、一介の老人である『白峰お祖父様』の個人的な愛着……懐中時計の音なんていう都合の良い演出を、律儀に再現してくださるのかしら?」

「演出……って、おじいちゃんが私を安心させるために――」

「あるいは」

 今度は、倉田が静かに眼鏡を押し上げ、玻璃の言葉を引き継いだ。

「その『外側のシステム』が、君を効率よく動かすために、君の記憶から最も都合の良いアバターを引っ張り出して、おじいちゃんのフリをしているだけかもしれない……ということですね」

「倉田さんまで、何を言って――っ!」

 無色はソファから立ち上がろうとしたが、激しい頭痛の残響が走り、再び膝をついた。

「無色さん」

 零が横からそっと肩を支えるが、その手もどこか強張っている。

 誰も、何も信じられない。

 世界線を救ってくれたあの優しい秒針の音は、本当に自分を愛してくれた祖父なのか。それとも、世界の天井の向こうから自分を操るための、冷徹な機械のノイズなのか。

 三年前、祖父は何も言わずに消えた。

 自分を置いて逃げたのか。それとも、巻き込まないために一人で戦っていたのか。

 ずっと胸の奥に閉じ込めていた「捨てられたのかもしれない」という寂しさと恐怖が、暗い泥のように無色の心を侵食していく。

 その時、テーブルの上の黒い猫耳が、再び小さく――ピッ、と鳴った。

 誰の手も借りず、猫耳のインジケーターが明滅を始める。

 無色の脳裏に、直接、あの「秒針の音」が響いてきた。

――カチ。カチ。カチ。

『 無色。……その耳を、外せ。もう、限界だ 』

 それは確かにおじいちゃんの声だった。懐かしい、大好きな、けれどどこか酷いノイズが混ざった声。

『 これ以上私を、この耳を信じるな。……こちら側に、引きずり込まれる 』

「おじいちゃん……?」

 無色の目から、一筋の涙がこぼれ落ちる。

 玻璃がその様子を見て、息を呑んで叫んだ。

「無色さん!今、耳から直接データが流れていますわ!ダメです、それに意識を同期させてはなりません!完全に “外側” にロックオンされます!」

『 外せ、無色 』

 脳内のおじいちゃんの声が、冷たく響く。

『 私を、忘れるんだ 』

 外側の巨大な視線が、無色の存在そのものを、こちらの世界から消滅させようと強引に引っ張り始める。爪先から感覚が消えていく。

「無色さん!!」

 零が必死に無色の両手を握りしめる。

「数式を遮断します!意識をこちらに繋ぎ止めてください!」倉田がノートパソコンを叩き壊す勢いでキーを打つ。

「嫌ですわ!目の前で人が消えるのは、もう絶対に嫌ですわ――ッ!!」

 玻璃が、泥まみれの服のまま、無色に泣きながら抱きついた。

 真実を暴き、分解したがるはずの狂人令嬢が、今、真実の向こう側に無色が奪われることを、誰よりも本気で恐れて叫んでいる。

 捨てられたわけじゃない。

 目の前でこの狂人たちが、自分の存在を消させまいと必死に叫んでいる。

 祖父が本物か偽物かなんて、そんなことはどうでもいい。

 この耳が自分を騙す罠だとしても、祖父が残した因果がここにあるなら――。

 世界の境界線で、無色は、涙を拭って不敵に笑ってみせた。

 脳内のおじいちゃんの声(あるいはシステムの音声)に向かって、彼女は全存在を懸けて言い放つ。

「――嫌だね」

「無色さん……っ!?」

 玻璃が顔を上げる。

 無色は自らの美学で、頭痛を無視して猫耳の出力を力づくで暴走させ、天井からの視線を、その内側から弾き返した。

「おじいちゃんが本物なら、私が必ず引きずり戻して、プリンの一個でも奢らせる。もしおじいちゃんのフリをした偽物なら……のぞき見の代償を、骨の髄まで請求してあげるわ!」

 パチィィィン!!と激しい火花が散り、猫耳の明かりが完全に沈黙した。

 無色の身体から、外側の引力が完全に消え去る。

 はぁ、はぁ、と荒い息を吐きながら、無色は現世に踏みとどまった。

 零の手の温もりがある。倉田の安堵したため息がある。玻璃が、泣き顔のまま自分の胸にしがみついている。

 無色は自分の意志で、この歪な日常の因果に残ることを選んだ。

 窓の外を見上げる。

 千葉の街の夜空。その雲の隙間に、一瞬だけ、世界のルールそのものが歪んだような「天井のひび割れ」が見えた気がした。

 無色は包帯の巻かれた頭をポリポリと掻きながら、いつもの周囲の変人たちに呆れる苦労人の顔に戻って呟いた。

「さあ……お茶の時間は終わりよ。おじいちゃん捜索の作戦会議を始めましょうか、狂人たち」


光点

 無色たちが、笑顔を取り戻した事務所で新たな決意を固めていた、まさにその瞬間。

――彼らの全く知らない、どこか。

 光すらも届かない、完全なる漆黒の空間。

 そこには、まるで星々のように、淡く冷たい無数の「光点」が静かに浮遊していた。

 その中心。

 一切の光が遮断された闇の中で、誰かが、手元で古びた機械式の懐中時計をパチン、と閉じた。

 顔も見えない。衣服の輪郭すら判別できない。それが、老人なのか、あるいは人間ですらない何かなのかも、闇がすべてを塗りつぶして隠している。

 その人物の目の前。

 虚空に浮かび上がる、壁のように巨大な発光モニター。

 そこには――さっきまで泣き笑い、お茶を囲みながら「おじいちゃんを捜そう」と作戦会議を始めたばかりの、無色たちの事務所の風景が、リアルタイムでありありと映し出されていた。

 静寂の闇の中に、冷徹な明滅と共に、最後の一行のシステムテキストが静かに流れる。

『 対象世界:白峰観測系 』

『 継続観察を承認 ―― 』


ガラスの向こう

 世界が崩れかけたあの夜から、三週間が経った。

 白峰事務所は、相変わらず変な人間の溜まり場だった。

「白峰様!本日こそ、その耳の右側のカバーを一ミリ……いえ、コンマ五ミリだけ浮かせていただければ――」

「浮かさない。帰って」

 ソファの上で猫耳ケースを抱え込む無色の正面で、九条院玻璃が今日もルーペを構えている。その隣では倉田がマイカップ持参で寛ぎ、零の淹れたコーヒーを優雅に啜っていた。完全に、いつもの風景だ。

 違うのは、二つだけ。

 ひとつ。「先代を捜す」という目的を全員が共有しているのに、手がかりが一個も増えていないこと。観測機No.0の記録は真っ黒に潰れたまま。祖父の足取りは、三年前の密室で途切れたきり、世界線のどこを探しても続きが見つからない。

「焦らないことですわ」と玻璃は言う。「消えた人を捜すのは、観測の基本に反していますもの。視られていないものは、固定されない。だから、向こうから現れるのを待つのも手ですわ」

「待ってる間に、私の脳みそが先に蒸発しそうなんだけど」

「それも貴重なサンプルになりますわね!」

「ならない」

「……ねえ、九条院さん」無色は、ふと訊いた。「あんた、毎日毎日、よく飽きないね。猫耳、もう何週間も、触らせてあげてないのに」

「飽きませんわ」玻璃は、紅茶を一口含んだ。「猫耳は、逃げませんもの。でも、あなたがどう転ぶかは、毎日、変わりますの。――そっちのほうが、ずっと面白いですわ」

「……それ、褒めてんの?」

「さあ?」

 玻璃は、三日月の形に目を細めて、笑った。

 もうひとつの違いは――猫耳が、たまに勝手に鳴ることだった。

 ピッ。

 誰も触れていないのに、ケースの中でインジケーターが一瞬だけ青く灯る。そのたびに無色の耳の奥で、あの音が、ほんの一拍だけ響く。

――カチ。

 懐中時計の、秒針の音。

 おじいちゃんだ、と思いたかった。生きていて、どこかからまだ私を見てくれている、と。でも、玻璃のあの一言が、ずっと棘のように刺さったまま抜けない。

『……それ、本当にお祖父様だと思いますの?』

 無色は、その音がするたびに、聞こえなかったふりをして、プリンの蓋を開けた。

「無色お姉ちゃん」

 声がして、無色は顔を上げた。

 事務所の隅、いちばん日当たりのいい席に、ひとりの少女が座っている。灯。あの廃工場で見つけた、十四歳の「観測できない子」だ。あれから玻璃が、二度とあんな思いはしたくない、と言い張って、半ば強引に九条院の本宮で預かることになった。今日は、その玻璃にくっついて遊びに来ている。

 灯はいつも、何かを描いている。今日もスケッチブックに、クレヨンで同じ絵を繰り返し描いていた。

 四角い箱。その箱の、外側に、もうひとつの四角。

 倉田が描いた、あのホワイトボードの落書きと、同じ図だった。

「灯ちゃん、それ……」

「おじいちゃん、ここにいるよ」

 灯はクレヨンの先で、内側の箱ではなく、その外側の余白を、とん、と突いた。

「ガラスの向こう。だから、お姉ちゃんからは見えないんだよ。お姉ちゃんは、箱のなかにいるから」

 事務所の空気が、すっと冷えた。倉田のカップが止まる。玻璃のルーペが下りる。

「……灯ちゃん」無色は、できるだけ優しい声を作った。「おじいちゃん、どんな顔してた?」

「顔は、見えない」灯は首を振った。「でもね、ずっと、お姉ちゃんを見てる人がいる。お姉ちゃんの、後ろ」

 ぞわり、と無色の背筋が粟立った。廃工場で、この子が言ったのと同じ言葉。背後じゃない。世界の天井の向こう側。

「その人は、いま、何してるの」灯は、少し考えて、言った。

「ドアを、探してる」

――その時だった。

 ピンポーン。

 間延びしたインターホンが、張り詰めた空気をあっさり破った。全員の肩から、ふっと力が抜ける。

「あら、お客様ですわね」

「依頼かな。久しぶりじゃん、まともな仕事」無色は猫耳をひったくるように頭に載せた。ぱちり、と世界が情報になる。「どれどれ、お客さんの素性くらい、先に視てやろうと――」

 無色の言葉が、途中で止まった。

 おかしい。玄関の外に、確かに人が立っている。気配はある。零が反応している。なのに――猫耳に、何も流れてこない。指紋も、職業も、悪意も、未来の枝も、何も。

 その人物が立っている場所だけ、世界から、綺麗にくり抜かれていた。

「……嘘でしょ」

 三週間前、ガラステーブルの上に届いた、あの黒い封筒のカードキー。九条院玻璃が寄越した、観測を弾く神具。あれと同じ「空白」。でも、玻璃はいま、目の前にいる。

「無色さん」零が、すっと玄関の前に立った。声が低い。「下がっていてください。これは――」

「九条院じゃない」玻璃が、ルーペを取り落とした。その顔から、いつものお祭り騒ぎが完全に消えている。「我が家の神具では、ありませんわ。これは……別の、観測者」

 ドアの向こうで、客は、ノックすらしなかった。ただ、ゆっくりと、ドアノブが回り始める。

 無色の唇が、知らないうちに吊り上がっていた。嫌いなはずの猫耳の奥が、また、熱く脈打っている。

「……二人目、ってわけ」

 灯のクレヨンが、ぽとりと床に落ちた。


人型の余白

 ドアが、開いた。

 入ってきたのは、拍子抜けするほど普通の男だった。くたびれたコート。人の好さそうな笑み。目元だけを覆う、安っぽい仮面舞踏会のマスク。

「やあ。ごめんね、ノックの作法、忘れちゃって」

 無色は猫耳の出力を上げた。視ようとする。――視えない。男の輪郭の内側だけ、世界がぽっかりと白く抜けている。指紋も、来歴も、これからやることも、何ひとつ。

「観測式の上位ですわ」玻璃が低く言った。さっきまでの祭り気分はない。「無色さん、勘違いしないで。あの男、目には映っていますわよね?ただ、未来が固定されていないんですの。確定した明日を持っていない人間は、あなたの猫耳でも“予知”できない。視えるのに、読めない」

「最悪の相性じゃん、それ」

「ええ。あなたの天敵ですわ」

 男が、にこ、と笑った。次の瞬間、無色の頬のすぐ横を、何かが掠めた。

 風じゃない。男の手だ。いつ動いたのか、無色にはまるで視えなかった。読めない相手の攻撃は、来てから避けるしかない。零が無色の襟を掴んで横へ引く。

「白峰無色さん。怖がらないで。今日は、ご挨拶だけ」

「挨拶でほっぺた撫でるな、変態」

 二撃目。今度は零の死角から。零がかろうじて受けるが、肩で息をしている。三撃目が来る前に、無色は奥歯を噛んだ。

(……だめだ。視えない相手を視ようとするから、後手に回る)

 脳の奥が、じくじくと焼け始めている。無理に視ようとするほど、代償だけが積もっていく。彼女の必殺技――髪一本の線を見つける――も、線そのものが視えなければ使えない。

 そこで、無色の思考が、かちりと切り替わった。

(視えないのは、こいつ一個だけ。――だったら、こいつ以外、全部視えてる)

 無色は、男を視るのをやめた。代わりに、部屋を視た。

 倉田が倒したカップ。テーブルを伝って広がっていくコーヒーのいちばんありそうな流れ。零が次の一手で踏み込む、唯一の生存線。ガラステーブルに映り込む蛍光灯。床の埃。空気の対流。――部屋の中の“視えるもの全部”の未来を、彼女は片端から、一個ずつ固定していった。

 奇跡じゃない。もう九割そうなりかけている、ありふれた未来を、順番に確定させていくだけ。脳への負荷は、軽い。

 すると。部屋という世界が、辻褄を合わせるために、たった一個だけ“穴”を残した。コーヒーが避けて流れ、埃が舞わず、零の生存線が成立する――そのすべてが矛盾なく噛み合うには、男が、そこに立っているしかない、という場所。

 世界のほうから、人型の余白が、くっきりと縁取られた。

「零、そこ」無色が指を差した先は、男の顔ではない。男のいる、空白だった。

 零の踏み込みに、迷いがなかった。視えない男ではなく、世界が指し示した一点へ、まっすぐ。鈍い音。男のマスクが、ずれた。

「……ははっ」男は、よろめきながら、心底楽しそうに笑った。「視えないものを、世界のほうから縁取るのか。……うん、噂以上だ」

 ずれた仮面の奥の目が、ふと、寂しげに細められた。

「いいなあ、君は。視てもらえて、固定してもらえて。誰かに“そこにいる”って決めてもらえる。――僕なんか、もう、誰にも視えないのにね」

 その声に、嘘がなかった。観測されない、ということは、誰にも確定してもらえない、ということ。この男は、自由と引き換えに、世界のどこにも“いない”。半分、消えている。

 無色の背筋が、すうっと冷たくなる。視られるのが嫌で、ずっと猫耳を外したがっていた自分。視られない自由の、その先にいるのが――この、誰にも縁取ってもらえない男なのだ。

 灯が、ぽつりと言った。「……あの人、おじいちゃんと、同じにおいがする」

 男の動きが、止まった。そして、ずれた仮面を直しながら、後ずさる。

「正解。僕も、“ドア”を探してる側でね」男は、玄関へ向かいながら振り返った。「白峰無色さん。君、向こう側に呼ばれてるよ。サンプルとしては、最高の出来らしい。――でも気をつけて。視てもらえるうちが、花だ」

 ドアが、静かに閉まる。後に残ったのは、ぬるくなったコーヒーの匂いと、ガラステーブルに映った、誰もいない蛍光灯の光だけだった。

「……零」無色は猫耳を外した。頭が重い。「お茶、淹れ直して。濃いやつ」

「承知しました」

「あと、プリン」

「それは自分で買ってください」


コマ落ち

「サンプルとして最高、ねえ」

 濃いコーヒーをふた口で飲み干して、無色はソファに沈み込んだ。「人を品評会のメロンみたいに言いやがって。……ねえ零。あいつ、おじいちゃんと同じにおいって、灯ちゃん言ってたよね」

「言いました」零はカップを下げながら、淡々と答える。「ですが、無色さん。“向こう側に呼ばれている”も、“視てもらえるうちが花”も――あなたを揺さぶるための言葉です。真に受けて、向こうへ手を伸ばそうとした瞬間が、いちばん危ない」

 無色は、何も言い返さなかった。

 それが、答えだった。――だって、ほんの少し、思ってしまったのだ。あの男を追えば、ドアの場所が分かるかもしれない。ドアを開ければ、おじいちゃんに、会えるかもしれない、と。

 零の目が、すっと細くなる。何かを言いかけて、やめた。

 そのタイミングで、玻璃のスマホが、けたたましく鳴った。

「はい九条院です――」いつもの間延びした声が、三秒で凍りついた。「……何ですって。記録に、犯人が映っていない?」

 通話を切った玻璃の顔から、お祭り気分は完全に消えていた。

「保管庫がやられましたわ。観測機ゼロ号の――一部が、盗まれましたの」

 無色は跳ね起きた。「は!?あの厳重な神社から!?」

「ええ。なのに、防犯記録にも、結界のログにも、誰も映っていませんの。固定されていない人間は、記録もできませんわ。視られない者は、撮られない」玻璃の声が、低く震える。「……さっきの、視えない男ですわ。間違いなく」

 視えない手が、誰にも縁取られないまま、九条院の最奥から“窓”を一枚、抜き取っていった。

「行くよ」無色は猫耳ケースを掴んだ。「九条院に――」

 その時だった。

 世界が、一拍、飛んだ。

 ぱ、と。まるで、古い映画のフィルムが一コマだけ抜け落ちたように。倉田が啜ろうとしていたコーヒーの水面が、空中で静止する。窓の外、信号待ちの車が、ぬるりと位置だけずれて存在している。灯のクレヨンが、床に落ちる途中で、ふっと、なかったことになって手元に戻っている。

 三秒。そして、何事もなかったかのように、世界がまた動き出した。

「……今の」倉田が眉をひそめる。「コーヒー、減ってないか?」

「無色さん」零が鋭く言った。「外で、何か」

 無色は、もう猫耳を被っていた。ぱちり。世界が情報になる。――そして、息を呑んだ。

 街じゅうの未来の枝が、たった今、三秒ぶん、固定されていなかった。誰も観測していない隙に、世界の天井の向こうから、何かが、ぐにゃりと現実を“編集”した痕がある。コマを一枚抜いて、辻褄だけ合わせて、貼り直した痕。

 そして、その編集の真ん中で。――カチ。耳の奥にあの音が、一拍だけ響いた。秒針の音。

「……おじいちゃん?」

 無色の声が、掠れた。

 灯が、スケッチブックを抱えて、ぽつりと言う。「街が、まばたきした。……あの人が、練習してるの。三年前の、やり方を」

「練習?」

「おじいちゃんが消えた日のこと。もう一回、おんなじに、やろうとしてる」

 事務所の空気が、底から冷えた。

 倉田が、コーヒーを置いた。いつもの飄々とした調子のまま、けれど目だけは笑っていなかった。「観測欠落、ですか。……ゼロ号機の窓で、世界の一コマを抜く。三年前、白峰の先代が消えた現象の、再現実験だ。誰かが、あの瞬間を、もう一度起こそうとしている」ふ、と彼は息を吐いた。「……九条院様の、読み筋どおりだ」

 無色は、その横顔を見た。倉田は、目を合わせなかった。

――その時、無色のノートパソコンが、ひとりでに起動した。

 漆黒の画面に、白いシステムフォントでたった一行。今度は、システムの声じゃない。人間の打った文字だった。

『白峰先生の孫へ。あの人を、取り戻せる。手伝ってほしい。――三年前、間に合わなかった者より』

 無色の指が、画面に伸びかけた。取り戻せる。おじいちゃんを。その一言が、胸の奥のいちばん柔らかいところに爪を立てる。

 零の手が、無色の手首を、そっと、しかし強く掴んだ。

「無色さん」初めて聞く、有無を言わせない声だった。「先に言っておきます。その依頼の先で、あなたが消えるなら――僕は、あなたを祖父より優先します。世界が何と言おうと」

 無色は、振り返れなかった。画面の中の「取り戻せる」と、手首にかかる零の体温の間で、彼女の観測者としての理性が、初めてぐらりと揺れた。


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