間に合わなかった人
郊外、潰れた研究施設。雑草に埋もれた看板に、辛うじて『白峰・冬野 観測研究室』と読めた。
「……ここ、知ってる」無色は呟いた。「ちっちゃい頃、おじいちゃんに連れてこられたことがある。歯車の油のにおいがして、つまんなくて、すぐ寝た」
「無色さん」零が前に出る。「罠の可能性は」
「あるに決まってんでしょ。でも、行く」
「ですわよね」玻璃が嘆息した。「ちなみにわたくし、最高級の塩を持参していますわ」
「お祓いする気満々じゃん」
軽口で、足の震えを誤魔化した。
地下の観測室には、灯りがついていた。真鍮の歯車と最新の光ファイバーが絡み合う、見覚えのある機械。その中心に、九条院から盗まれた「ゼロ号機の窓」が、嵌め込まれている。
機械の前に、ひとりの女性が座っていた。白衣の、初老の人だった。穏やかで、ひどく疲れた顔をしている。
「来てくれたのね。白峰先生の、お孫さん」
「……あんたが、“間に合わなかった者”?」
「冬野、といいます。先生と、三十年。この機械を、二人で回してきた」
(……フユノの、F。先代が日記に書いてた、相棒の)無色の中で、黄ばんだページの一行と、目の前の疲れた女が、かちりと、重なった。先代がひとりでは回せないと書いた、あの「窓」を――この人は、三年、ひとりで守ってきたのだ。
冬野は、窓を、愛おしそうに撫でた。
「三年前のあの夜。先生は、この窓を使って“救済”をしようとした。外側に引かれかけた、ひとりの被験者を――まだ、十かそこらの、小さな女の子でした――引き戻すために。私が、機械を回した。でも、出力が足りなかった。間に合わなかった。被験者の代わりに、先生が、向こうへ引かれていった」
声が、震える。
「私が、殺したようなものよ。だから、ずっと、やり直す方法を探していた。三年。やっと、揃ったの。先生を取り戻せるだけの、窓と――」冬野は、無色を見た。慈悲深い、けれど、どこか壊れた目で。「先生より強い、観測者が」
無色の心臓が、跳ねた。
「あなたの観測で照準を合わせて、私が窓を全開にする。たった一度、向こうへ手を伸ばすだけ。先生を、こっちに引き戻せる。……会いたいでしょう?もう一度」
そう言って、冬野は窓のスイッチを、小さく入れた。
ジ、と空気が鳴った。窓の奥から、聞こえてきた。
――カチ。カチ。カチ。
秒針の音。そして、ノイズの底から、確かに、あの声が。『……無色か。大きく、なったな』
無色の視界が、滲んだ。おじいちゃん。本物だ。会える。手を伸ばせば、届く――。
「無色さん」零の手が、肩に置かれた。何も言わない。ただ、置かれている。
「無色さん」玻璃も、窓の計測値を見て青ざめていた。「この出力……人を一人引き戻すのに、釣り合っていませんわ。何かが、過剰すぎる」
無色は、唇を噛んだ。――確かめてやる。受ける前に。私のやり方で。
彼女は猫耳の出力を、窓へ同期させた。これまでみたいに、ただ視るんじゃない。脳の奥に、確率の塊が、ひとつの球体になって浮かび上がる。無色は、それを両手で掴んだ。
「……っ」掌の中で、球が、じりじりと熱い。
転がす。窓の向こうへ続く“救済の線”を、照準に捉えるために。回せば回すほど、世界線の枝が、ミリ単位で手元に手繰り寄せられてくる。
そして、見えた。おじいちゃんを引き戻す、その一本の線の、行き着く先が。
無色が、向こうへ手を伸ばす。窓が全開になる。釣り合わない過剰な出力は――おじいちゃん一人を引き戻すためじゃない。無色を、向こうへ差し出すための重さだった。
引き戻した瞬間、入れ替わりに、無色が窓の奥へ沈む。三年前と、寸分違わず。被験者の代わりに先生が消えたのと、同じに。今度は、先生の代わりに、自分が。
そして窓の向こう。秒針の音の、そのさらに奥に。黒い、ドロドロとした海が、見えた。なかったことにされた、無数の世界線が腐って溜まった、忘却の海。おじいちゃんは――その海の、ほとりに立っていた。半分、海に溶けかけて。
(……おじいちゃんの声を出してるのは、本当に、おじいちゃん?それとも、この海そのもの?)
無色は、球から手を離した。荒い息。手のひらが、擦り剝けて赤い。
「冬野さん」掠れた声で、言った。「これ、救済じゃない。ただの、席替えだよ。おじいちゃんが戻る代わりに、私が向こうに行く。三年前と、まったく同じことを、もう一回やるだけ」
冬野の顔から、穏やかさが剥がれ落ちた。
「……知って、いたわ」ぽつりと、彼女は言った。「とっくに、気づいていた。でも、認めたくなかった。だって、それを認めたら――私のしたことが、ただの失敗で、何の意味もなかったことになる」
罪悪感を消すために、罪悪感の元になった行為を、もう一度なぞろうとしていた人。
無色は、目を逸らさなかった。「私は、可能性を見せるだけ。選んで動くのは、あんたよ、冬野さん」それは、いつかの宮内に言ったのと、同じ台詞だった。
冬野の目から、涙が、一筋こぼれた。そして――震える手が、窓の出力レバーを、ぐっと握りしめた。
「ごめんなさい。でも、私……間に合わなかったままじゃ、もう、生きられないの」
ジ、ジ、ジ!窓が、勝手に全開へ向かって唸りを上げる。地下室の外、千葉の街じゅうで、世界が一斉に、コマ落ちを始めた。
「無色さん!」零が叫ぶ。窓の奥の忘却の海が、無色の輪郭を、ずるりと引き始めた。爪先の感覚が、また、遠のく。今度は、足首の上まで。
「……っ、ほんと、面倒くさい大人ばっか!」
無色は、もう一度、確率の球に手をかけた。




