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窓のままで

確率の球は、さっきより熱かった。掌の皮が、じゅっと焼ける音がした気がした。

 窓は、もう全開へ向かって唸っている。無色の爪先は、感覚が消えて、輪郭がにじみ始めていた。忘却の海が、ずるり、ずるりと彼女を引いている。

(……力比べじゃ、勝てない)

 そんなのは、最初から分かっていた。海は広すぎる。無色一人の出力で引き戻しに抗うのは、コップで津波を押し返すのと同じだ。

(かといって、窓を叩き割れば)

 冬野が壊れる。おじいちゃんは、二度と届かないところへ行く。それも、選べない。

 零の「席替え」か、断絶か。――どっちも、気に入らない。

(だったら、第三だ。いつもみたいに)

 無色は、奥歯を噛んで、考えを切り替えた。みんな、この窓を「扉」だと思っている。冬野も、おじいちゃんも、向こうの海も。扉だから、開ければ誰かが通る。通れば、誰かと誰かが入れ替わる。

――でも、誰が、扉だって決めた?

「玻璃!」無色は叫んだ。「九条院の出力、引き戻しに使わないで!窓を“全開”にも“閉じる”にもしないで、その途中で――固定して!」

「途中で!?中途半端がいちばん危険ですわよ!?」

「いいから!ガラス一枚ぶんで、止めて!」

玻璃は一瞬、目を見開いて――そして、笑った。泣きそうな顔で。「……なるほど。扉を、窓のままにする、と」

「冬野さん!」無色は、レバーを握りしめたままの女性を見た。「あんた、この機械のこと、世界でいちばん知ってるんでしょ!だったら、引き戻すんじゃなくて――“開いたまま、動かさない”。それ、できる?」

 冬野の手が、止まった。

「……開いたまま、何も、通さない?」

「そう。誰も向こうに行かない。誰も戻ってこない。でも、ガラス越しに、ちゃんと、見える」

 無色は、確率の球を、ゆっくりと、回した。引き寄せるためじゃない。手繰り寄せるためでもない。窓の奥へ続く無数の線の中から、たった一本――誰も通らず、ただ“見つめ合うだけ”の、髪の毛より細い線を、探して。

 あった。0.000…と並んだ、ありえないほど細い、けれど確かに存在する一本。

「その線に、なれ」

 無色が、それを固定した瞬間。暴走していた窓が、ぴたり、と止まった。全開でも、閉鎖でもない。透明な、一枚のガラスのまま。

 千葉の街の、コマ落ちが止んだ。

 零が、後ろから無色の身体をがっしりと支える。玻璃が九条院の出力を、窓の“静止”に注ぎ込む。冬野が、震える手で、レバーを“動かさない”ために握り続ける。

 四人の支えが、一本の細い線を、辛うじて現実に留めていた。

 そして――ガラスの向こう。

 忘却の海のほとりに立つ、半分溶けた人影が、こちらを、見た。三年ぶりに、はっきりと。

『……無色』

 おじいちゃんの声だった。懐かしい、大好きな、けれどどこか酷いノイズの混じった声。

『戻ろうと、するな。ここは、席替えしか許さない場所だ。お前が来たら、今度はお前が、ここに立つ』

 無色の目から、涙が溢れた。それでも、口元は、笑っていた。「知ってる。だから、戻さない。――でも、外しもしない。私が、ここから、視てるから」

 人影が、ほんの少し、揺れた。穏やかに。あるいは、悲しげに。(……これ、本当におじいちゃん?それとも、海が、おじいちゃんの形を借りてる?) 判別は、つかなかった。両方であるような気が、した。

 それでいい、と無色は思った。本物か偽物かより、いま、ガラス越しに、確かに目が合っている。それが、事実だ。

 冬野が、声を殺して、泣いていた。「先生……あなた、失敗したんじゃ、なかったのね。被験者の代わりに、自分から、向こうへ行ったのね。……私、三年間、あなたの“選択”を、私の“失敗”だと思い込んで、踏みにじっていたんだわ」

「冬野さん」無色は、汗だくのまま言った。「間に合わなかったんじゃない。おじいちゃんが、間に合わせたの。あんたを置いて、自分で決めて。――だから、もう、あんたが消えてやり直す必要、ないんだよ」

 冬野は、レバーを握ったまま、その場に泣き崩れた。けれど、手だけは、最後まで、窓を“窓のまま”に支え続けていた。

 やがて、無色がそっと球から手を離すと、窓は、ふっと、優しく眠るように透明度を失った。ガラスの向こうの人影が、消える直前、ほんの一瞬、手を挙げたように見えた。

――さよなら、ではなく。また、という形に。

 静寂が、地下室に降りた。

 無色は、ずるずるとその場に座り込んだ。猫耳を外す。頭が、割れそうに重い。手のひらは、擦り剝けて血だらけだ。

「……あー、最悪。手、痛い。頭、痛い。お腹すいた」

「二日は寝込みますわね」玻璃が、ぐすぐす鼻を鳴らしながら、いつもの軽口を取り戻す。「分解は、目が覚めてからにして差し上げますわ」

「しないって言ってんでしょ」

 零が、無言で、無色の血だらけの手に、ハンカチを巻いた。ねぎらいの言葉は、なかった。

 冬野が、顔を上げる。涙を拭って、観測機の窓を――もう“扉”ではなくなったそれを、そっと撫でた。「……この窓を、開いたまま、保つ技術。私が、いちばん知っているわ」乾いた、けれど、もう壊れていない声だった。「あなたが、もう一度ここに立つ日まで。私が、守る」

 罪を反復しようとした人が、今度は、橋を守る人になった。

 帰り道。無色は、車の窓に頭を預けて、ぼんやりと夕暮れの千葉を眺めていた。おじいちゃんは、生きているとも、死んでいるとも言えない。海に溶けかけて、それでもまだ、私を視てくれている。――だったら、私のやることは、ひとつだ。

「零」

「はい」

「私、もっと上手くなる。あの窓を、もっと大きく、もっと長く、開けられるくらいに」

「……ええ」零は、前を向いたまま、静かに頷いた。「そのために、あなたが消えないよう、僕がいます」

 その時。無色のスマホが、ぴこん、と鳴った。玻璃のものでも、依頼でもない。差出人不明のメッセージに、一行だけ。

『よく“視つけた”ね。――そろそろ、君に会いたがってる連中がいる。みんな、おなじ“耳”を持った仲間だよ』

 視えない男の、あの飄々とした声が、聞こえた気がした。



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