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観測者の夜会

差出人不明のメッセージは、消す気にもなれないまま、三日のあいだ無色のスマホに居座っていた。

『みんな、おなじ“耳”を持った仲間だよ』

「気持ち悪い文面だよね。“仲間”って単語、こんなに鳥肌が立つことある?」

 ソファの上で、無色はプリンの蓋を裏まで舐めながら言った。猫耳はケースの中。外しているぶん、勘は死んでいるが、舌の動きだけは冴えている。

「無視するのが賢明です」零が、淹れたてのコーヒーを倉田の前にだけ置きながら答えた。「相手はこちらの番号も住所も知っている。会いに来いと言いながら、場所だけは書いていない。……届かないはずのSMSが届いている時点で、まともな相手ではありません」

 倉田が、マイカップを、ひと口、傾けた。「……うん。やっぱり、ここのコーヒーが、いちばんだな」誰にともなく、こぼれた呟きだった。その一言にだけは、いつもの、人を食ったような演技の匂いが、しなかった。

「あら、でもわたくし、興味がありますわ」と玻璃が身を乗り出す。「だって“おなじ耳”でしょう?我が九条院以外の神具持ちが、群れで生息していますのよ!一匹残らず分解したいですわ……!」

「群れって言うな。あと一匹も数えるな」

 その朝、白峰事務所には、めずらしい来客があった。冬野だった。ゼロ号機の窓の、調整の進み具合を、玻璃に報せに来たのだという。

「無理を、させてしまうわね」窓の図面を玻璃に渡しながら、冬野は、すまなそうに言った。「あの子に、また、あの窓を立てさせるのかと思うと……」

「立てさせるんじゃ、ありませんわ」玻璃が、図面を覗き込む。「あの子が、立てるんですの。勝手に」

 その、やりとりの、すぐ脇。

 灯が、いつもの日当たりのいい席で、スケッチブックを抱えていた。四角い箱と、その外の余白とを、一本の線で結ぶ、いつもの絵。

 冬野が、ふと、その手元を、覗き込んだ。三年、窓と向き合ってきた人間の目が、その絵に、釘付けになる。

「……上手ね。これ、“窓”でしょう」

 灯は、こくり、と頷いた。それから、クレヨンを持つ手を止めて、冬野の顔を、じっと見上げた。底の見えない、観測できない少女の目で。

「おばさんも、間に合わなかった人だね」

 冬野の息が、止まった。

「……どうして」

「うしろが、おんなじ色してるもん」灯は、また絵に戻った。「だいじょうぶ。間に合わなかったのは、おばさんじゃ、ないよ」

 冬野は、その言葉の意味が、分からなかった。分からないまま、けれど、なぜか、目の奥が、熱くなって、しばらく、動けなかった。

「場所なら、僕が知っているよ」

 カップを傾けたまま、倉田がさらりと言った。室内の空気が、半拍、止まる。

「……なんであんたが知ってんのよ」

「同業者のよしみ、というやつさ。月に一度、観測式を持つ連中が顔を合わせる夜会がある。今夜が、ちょうどその日でね」倉田は楽しげに眼鏡を押し上げた。「君が呼ばれることまで、九条院様は読んでいた。なら、行くしかないだろう?」

 倉田は、ふと、カップを傾ける手を、止めた。「……まあ、行かない、という手も、あるにはあるが」珍しく、冗談の匂いが、しなかった。けれど無色が顔を上げると、男はもう、いつもの飄々とした表情に、戻っていた。

 九条院様の、読み筋。その一言に、無色の背筋が、ちりっと焦げた。倉田は、こういう時だけ、いつも一歩先の地図を持っている。

 玄関へ向かう無色の袖を、ふいに小さな手が掴んだ。灯だった。今日も九条院に張り付いて、隅でスケッチブックを抱えている。

「お姉ちゃん。あのね、その夜会、みんな顔がないよ」

「顔がない?」

「うん。みんな、自分を消して入ってくの。だから、あそこにいるあいだは、お姉ちゃんも――“いない人”にされちゃう。気をつけて」

 灯はそう言って、クレヨンで、四角い箱の中に、のっぺらぼうを何人も描き足した。その箱の、外側の余白を、とん、と突く。

「“後ろの人”が、いちばん上の席で待ってる」

 無色は、その絵から、しばらく目を離せなかった。

 雑居ビルでも、神社でもなかった。倉田に連れられて着いたのは、街外れの、もう何十年も使われていないはずの古い歌劇場だった。なのに、重い扉の奥からは、シャンデリアの光と、上品な弦楽と、低い笑いさざめきが漏れている。

 無色は猫耳をそっと頭に載せた。ぱちり、と世界が情報になる。――そして、息を呑んだ。

 (……視えない。視えないのが、こんなにいる)

 ホールにひしめく客の、半分近く。その輪郭の内側が、あの黒い封筒のカードキーと同じに、ぽっかりと白く抜けている。未来が固定されていない人間。観測を弾く神具持ちが、シャンパングラスを片手に、当たり前の顔で談笑していた。

 そして、誰一人、素顔がなかった。仮面舞踏会。客たちは皆、目元を覆う仮面をつけ、本名を捨て、通り名だけで呼び合っている。

「壮観だろう?」倉田が囁いた。「指輪、面、片眼鏡、懐中時計。みんな、君の猫耳の“出来損ない”さ。ひとつの機能に特化して、その代わりに体を蝕む。呪い付きの安物だよ。……でも、ここの連中は、それを“自由”と呼んでいる」

「自由ねえ」無色は顔をしかめた。「顔も名前も捨てて、何が自由よ」

「君に視えない、ということは、世界にも固定されない、ということさ。明日を持たない。責任も問われない。――嫌いだろう?君は、世界じゅうの確率を背負わされて、脳を焼かれている側だ」

 倉田の声が、やけに優しかった。無色は、答えなかった。

 倉田の言った「自由」が、やけに、耳に障った。

 無色は、シャンデリアの光から、ほんの少しだけ、外れた。その“自由”とやらのいちばん深いところを、この目で、視ておきたかった。

 ホールのいちばん端。光の届かない、暗い()のような一角。そこに、ひときわ濃い“視えない”客たちが、座っている。

 猫耳をつけていても、彼らの内側には、未来の枝が、一本もなかった。明日が、ない。ただ、ぽっかりと、白い。仮面の客の中でも、いちばん深く、自分を消した連中だった。

 その、いちばん端。ひとりの男が、膝に手を置いて、座っていた。

 無色は、つい、癖で、視ようとした。――何も、返ってこない。指紋も、悪意も、明日も。あんまり綺麗に空白で、逆に、目が、吸い寄せられた。

「……読めませんよ」

 男が、こちらを見ずに、言った。穏やかな声だった。狂信者の熱も、企みの匂いも、ない。ただ、ひどく、凪いでいた。

「もう、誰にも。それが、ここまで来た甲斐です」

「……あんた、誰」

無銘(むめい)、と呼ばれています」男は、薄く笑った。「銘を切られていない刀、という意味でね。誰の作とも、決められない。どんな由来も、背負わなくていい。……いい通り名でしょう」

 (無銘、ねえ)

 無色は、自分の頭の黒い耳に触れた。無色。色の、ない子。名づけた祖父が、どういうつもりだったのか、いまだに、分からない。

「座ったら、どうです」無銘は、隣の空いた席を、手で示した。「あなたも、視られるのに、疲れているでしょう」

 無色は、座らなかった。けれど、立ち去りも、しなかった。

「……あんたも、その“仲間”ってやつ?」

「派閥なんて、たいそうなものじゃ。わたしは、逃げてきただけです」無銘は、自分の何もない手のひらを、見つめた。「昔ね。視られたんですよ。あなたみたいな、よく視える神具に。そして、読み上げられた。――『この男は、いずれ、人を殺す』と」

 無色の背筋が、冷えた。

「言われた瞬間に、分かりました。ああ、もう、固定された、と」無銘の声は、穏やかなまま、揺れもしない。「ご存じでしょう。いちばん太い線を、声に出して名指すと、世界は、安心して、そっちへ転がる。読まれた未来は、固定される。固定された未来からは――誰も、逃げられない」

 (……倉田と、おんなじだ。名指して、太らせる)

「次の日から、世界が、わたしを、その線へ、押し始めました。妻が、子を連れて、出ていった。隣人が、目を逸らした。雇い主が、わたしの机を、片付けた。誰も、まだ、何もしていないわたしを――“いずれ人を殺す男”として、扱い始めた。……押されれば、人は、いつか、そっちへ、転びますよ。みんなが、そう視るんだから」

 男は、初めて、無色のほうを向いた。仮面の奥の目は、驚くほど、静かだった。

「だから、消えました。名前を捨てて、顔を捨てて、明日を、白紙にした。読まれる線が、なくなれば――殺す未来も、ない。誰も、わたしを、殺人者には、できない。……ね。賢いでしょう」

「……それ」無色は、ようやく、口を開いた。「楽になった?」

 無銘は、答えなかった。長い、あいだ。それから、ぽつりと、言った。

「読まれない、というのは。誰にも、視てもらえない、ということでも、あるんです」

 その声に、初めて、ひびが、入った。

「妻の顔も、もう、視えない。わたしが視ようとすると、世界が、わたしを、弾くから。……でも、いいんです。殺すよりは。固定されて、本当に、そうなってしまうよりは、ずっと」

 無色は、何も、言えなかった。

 言ってやりたい台詞は、あった。それは自由じゃなくて、ただの寒い独房だ、と。――でも、言えなかった。だって、それは。

 (私が、ずっと、入りたがってた独房だ)

「……お嬢さん」無銘が、囁いた。「あなたも、おいでなさい。誰にも、読まれない。誰にも、決められない。明日を、白紙のまま、抱いて、いられる」

 無色の爪先が、すうっと、冷たくなった。あの、忘却の海の感触に、よく、似ていた。手を、伸ばせば。名前を、捨てれば。この、重い耳ごと。――楽に、なれる。

「無色さん」

 肩に、手が置かれた。零だった。何も言わず、ただ、置かれている。その重さだけで、抜けかけた爪先に、感覚が、戻ってくる。

 無色は、ふ、と息を吐いて、立ち上がった。

「……いや。なんでも、ない。戻ろ」

 背を向ける。一度だけ、振り返った。もう、どれが、無銘だったか、分からなかった。暗い環の中で、白紙の客たちは、みんな、おなじ顔をしていた。誰でもない、という、おなじ顔を。

 (……読まれたくない、か)

 その言葉だけが、妙に、爪の先に、残った。まだ、答えを、返せていない。その小さな借りを、無色は、知らないまま、暗がりに、置いてきた。

 舞台の上、一段高い席に、片眼鏡の男が座っていた。客がひとり入るたび、男は片眼鏡をかざし、その客の「いちばん確かな未来」を、うやうやしく読み上げる。それが、この夜会の入場料だった。

「次の御方。――おや。お顔が、ありますね。珍しい」

 片眼鏡の奥の目が、無色を捉えた。にやり、と口の端が吊り上がる。

「夜会の作法はご存じない?ここでは、誰もが己の“いちばん太い明日”を、皆の前に差し出すのです。それで初めて、仲間と認められる。さあ、お嬢さん。あなたの確定した未来を、この眼に視せてごらんなさい」

 ざわ、と客席が湿った熱を帯びた。地下劇場で嗅いだのと、同じ匂い。他人の中身が暴かれる瞬間を待つ、腐った好奇。

 (読まれる。私の“いちばん太い線”を)

 無色の脳が、かちりと回転した。この片眼鏡は、無色の猫耳とは違う。世界線の枝を丸ごと視るんじゃない。ただ一本、いちばん固定された線だけを拾い上げる、特化型の安物だ。

 (――なら、話は早い)

「読みたきゃ、どうぞ」

 無色は、猫耳の出力を、ほんの少しだけ上げた。視るためじゃない。固定するために。

 脳裏に広がる無数の枝の中から、彼女が選んで、力づくで太らせたのは――この上なく、どうでもいい一本だった。

『五分後。白峰無色は、プリンを食べる』

 それを、世界一かたく握りしめる。本物の危険な線――“外側”が彼女に伸ばした、サンプルとしての未来――は、固定せず、そのまま濁った枝の海に沈めておく。

 片眼鏡の男の目が、無色の“いちばん太い明日”を覗き込み――そして、停止した。

「…………は?」

「読めたでしょ。それが私のいちばん確定した未来。文句ある?」

「ぷ、プリン……?いや、待て、これは……」男は片眼鏡をぐいと拭い、もう一度かざす。だが、何度視ても、眼に映るのは「いちばん太い線」ただ一本。無色がそれを、プリンで完全に埋め尽くしている。その下に沈んでいるはずの、本当に視たかったものは、固定されていないがゆえに、特化型の眼には、最初から存在しないも同然だった。

 客席が、どっと沸いた。「プリンだとよ!」「なんて崇高なご運命!」嘲笑の波が、ホールを揺らす。

 だが、片眼鏡の男だけは、笑っていなかった。視たのに、何も視えなかった。分厚い壁を一枚、覗かされただけ。その感触に、男の額を、つうっと汗が伝う。

「……あなた、何を、した」

「べつに。あんたが“いちばん太い線”しか視えないなら、いちばん太い線を、私のほうで選んで差し上げただけ。視せたいものを視せた。嘘は一個もついてないわよ」無色は薄く笑った。「あんたの神具、私の耳の出来損ないなんでしょ?だったら、出来のいいほうに、今夜の献立くらい決めさせてよ」

 ぱち、ぱち、と。嘲笑の波の奥から、ひとつだけ、感心したような拍手が上がった。

 能面をつけた、すらりとした人影。声からは、男とも女ともつかない。

「みごと。観られることを拒まず、観られる“中身”のほうを、すり替えた」人影は、ゆっくりと近づいてくる。「ねえ、あなた。なぜそんなに上手なのに、そんなに苦しそうなの?」

 通り名を「面影(おもかげ)」というらしいその人物は、無色の正面で足を止めた。

「あなた、その耳を嫌っているでしょう。視えすぎて、視られすぎて、脳が焼ける。世界じゅうの確率の責任を、たったひとりで背負わされている。……苦しいわよねえ。観測者って、いつだって、この世でいちばん観測されている存在だもの」

 無色の指が、無意識に、頭の猫耳の根元に触れた。

「ここはね、その鎖を外す場所なの。仮面をつけて、名前を捨てて、自分を“固定されない側”へ置く。誰にも視られない。誰にも責任を問われない。明日を、決めなくていい。――楽になれるのよ、お嬢さん」

「人類総、観測不能化」倉田が、横から静かに補った。「全人類を、箱の外へ。誰も観測されず、誰も固定されない世界。そうすれば――もう誰も、確率の責任なんかで消えたりしない。先代のようにはね」

 無色は、何も言えなかった。――だって、ほんの少し。耳を外して、名前を捨てて、ただの“視えない誰か”になれたら、どんなに楽だろう、と。思って、しまったから。

 爪先が、すうっと冷たくなる。あの、忘却の海に引かれた時の感触に、よく似ていた。

「無色さん」

 そっと、肩に手が置かれた。零だった。

「プリン、約束したでしょう。五分後に食べると、世界一かたく」何でもないことのように、零は言う。「あなたが、自分で固定した未来です。守りに、帰りますよ」

「……ふは」無色の口から、笑いが漏れた。強張っていた爪先に、感覚が戻ってくる。「そうだった。私、プリン食べなきゃいけないんだった。確定だもんね」

「冷たい御方ですわね、面影さん」玻璃が、ずいと無色の前に進み出た。いつもの間延びした声が、今は鋼のように硬い。「鎖を外せば楽、ですって?わたくし、目の前で人が“いない人”になるのは、絶対に嫌ですの。この子の名前も、未来も、ぜんぶ視える側に置いておきますわ。――その代わり」ぴっ、と人差し指を立てる。「その能面、あとで分解させてくださいまし。三百年級の面型、垂涎ですわ」

「……はは。だめだ。敵わないなあ、その三人組には」

 面影は、肩をすくめて、半歩、後ずさった。

「いいわ。今夜は、顔見せだけ。――でも、白峰無色さん」面の奥の声が、ふっと、温度を落とした。

「ひとつ、勘違いしないで。あなたを呼んだのは、私たち急進派じゃない。この夜会の“(あるじ)”よ。“外側”に、いちばん近い席に座っている御方。……あの方は、あなたのお祖父様を、それはもう、よくご存じだそうよ」

 無色の心臓が、跳ねた。

 舞台の奥。誰も座っていなかったはずのいちばん高い席。そこに、いつのまにか、ひとつの人影が腰かけていた。逆光で、顔は見えない。老人なのか、それとも人間ですらない何かなのかも、闇が塗りつぶして隠している。

 その手元で、古い機械式の懐中時計が、ぱちん、と閉じられた。

――カチ。カチ。カチ。

 聞き慣れた、秒針の音。

「……おじいちゃん?」掠れた声が、無色の喉から漏れる。

 そして、その人影の、すぐ隣に。当然のような顔で、マイカップを片手に立っている、見慣れた男がいた。

 いつの間に、舞台へ上がっていたのか。無色のほうを見もせず、倉田は、静かに呟いた。

「――九条院様の、予測通りに」



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