正しい線
「――九条院様の、予測通りに」
舞台の最上段。逆光に沈んだ“主”の人影の隣で、倉田は、いつものくたびれたジャケットのまま、マイカップを傾けていた。無色のほうを、見ようともしない。
「倉田」無色の声が、低く掠れた。「あんた、そっち側だったの」
「そっち側、ねえ」倉田は薄く笑った。「白峰さん。僕は最初から、一度も嘘をついていないよ。僕はただの研究者だ。“外側”を理解したい。それだけの、しがない学者さ。――ただ」
カップの底に残ったコーヒーの滓を、男はくるりと回した。
「学者には、研究費がいる。サンプルを差し出せば、向こうは知識をくれる。君のお祖父さんがどうなったか。箱の外に、何があるのか。……僕は、その対価に、君を売った。それだけのことだよ」
ざわ、とホールの仮面たちが揺れた。面影が、能面の奥で、小さく息をつく。
「毎日、うちでコーヒー飲んでたのも」無色は、奥歯を噛んだ。「全部、私を品定めするためだった、と」
「半分はね」倉田は、初めて無色のほうを向いた。眼鏡の奥が、ひどく静かだった。「もう半分は、橘さんの淹れるコーヒーが、本当に美味かったからさ。――そこは、嘘じゃない」
(……腹立つ。こういう奴が、いちばん)
倉田が、ゆらりと一歩、前へ出た。
「さあ、白峰無色さん。占いの時間だ。――僕の杯には、もう“正しい線”が出ている」
その瞬間、ホールの空気が、ぐにゃりと歪んだ。
無色の猫耳が、けたたましく鳴る。世界線の無数の枝が、たった一本へ向かって、勝手に、なだれを打って収束していくのが視えた。
『白峰無色は、自ら望んで、箱の外へ行く』
「……っ、これ……!」
「君は、ありえない線を一本、無理やり太らせる観測者だ。だが僕は逆でね」倉田の声が、淡々と響く。「いちばんありそうな線――世界が“そうしたがっている”帳尻を、口に出して“正しい”と名指すだけ。すると世界は、安心して、そっちへ転がっていく。地下劇場で、君に負けたのを覚えているだろう?あれ以来、ずっと研究したのさ。君に勝つ方法をね」
無色は、必死で逆らおうとした。脳の奥が、じくじくと焼ける。だが、無理にありえない逃げ道を太らせようとするほど、倉田の宣言した「正しい線」が、世界の総意を味方につけて、さらに太くなっていく。
(力比べじゃ、勝てない。……またこのパターンか)
そして、最上段の人影が、手元の懐中時計を、ぱちん、と開いた。
――カチ。カチ。カチ。
『……無色』
秒針に混じって、あの声が、脳の芯に直接、響いた。懐かしい、大好きな、けれどノイズの混じった声。
『こちらへ来れば、会える。お前とまた、向かい合える。……ここには、私がいる』
無色の爪先から、すうっと、感覚が抜けていった。前より、速い。もう、膝の裏が、冷たい。
会える。おじいちゃんに。手を伸ばせば。倉田の宣言した線に、ただ身を委ねれば。――それの、何が悪い?
「無色さん」
零の手が、後ろから、無色の肩に置かれた。逃がさない、という重さで。
「先に言った通りです」短く、それだけだった。あの夜の約束を、もう一度、口にする必要は、なかった。
「……零」
「行かせませんわ」玻璃が、無色の前に立ちはだかった。能面の面影を、まっすぐ睨む。「秒針の声が本物のお祖父様でも、外側の機械でも、どちらでも構いません。どちらにせよ――目の前で、この子が“いない人”になるのを、わたくしは絶対に許しませんの」
二人の声が、抜けかけた無色の爪先に、温もりを呼び戻す。
(……ああ、そうだ)
無色は、目を閉じた。倉田の「正しい線」を、もう、追わなかった。代わりに、ずっと違和感のあった一点に、意識を向ける。
(おかしいと思ってたんだよね。倉田。あんた、他人の明日ばっかり名指して――じゃあ、あんた自身の明日は、誰が決めてるわけ?)
無色は、猫耳の出力を、倉田ひとりに絞り込んだ。
「ねえ倉田。占い師さんさ」ゆっくりと、目を開ける。「あんた、自分の“正しい線”、一回でも、誰かに視てもらったことある?」
倉田の動きが、ぴたりと止まった。
「他人の線を名指す側の人間は、自分の線を、ずっと固定されないままにしてる。視る側は、視られない。観測する側は、観測されない。……便利だよねえ。でもそれって、裏を返せば」無色の唇が、不敵に吊り上がる。「あんたの明日は、まだ一回も、誰にも決めてもらってないってことだ」
「……まさか」倉田の余裕が、初めて剥がれた。「僕を、固定する気か。宣言者を――」
「するよ。出来のいい耳のほうが、献立を決めるって、さっき言ったでしょ」
無色は、倉田ひとりの未来の枝の中から、いちばん馬鹿馬鹿しくて、いちばん本物の一本を選び、力づくで太らせた。
『一分後。倉田は、橘零の淹れたコーヒーを、いつものマイカップで、飲む』
「その線になれ」
かちり、と、世界が噛み合う音がした。
倉田が世界へ向けて放っていた「正しい線」が、宣言者本人を固定された瞬間、足場を失って、ぐしゃりと潰れる。観測する側だったはずの男が、観測される側へ引きずり下ろされる。名指す者が、名指される。
外側の巨大な引力が、急に、無色の爪先から手を離した。掴むべき“サンプル”の輪郭が、世界の側で、もう「ただプリンを食べる女」と「ただコーヒーを飲む男」の、ありふれた日常の線に上書きされてしまったからだ。
「……は、はは」倉田が、額の汗を拭った。気づけば、その手は、ごく自然に、零の差し出したカップを受け取っていた。「やられた。宣言者を、宣言し返すとはね。……観測される側に、回されるとは」
倉田は、観念したように、ひと口、コーヒーを啜った。
「うん。……美味い。やっぱり、ここのが、いちばんだ」
その横顔は、品定めの研究者でも、内通者でもなく、ただの、毎日入り浸っていたコーヒー好きの男の顔だった。
「無色さん」零が、静かに言った。「彼を、どうします」
無色は、しばらく倉田を見つめてから、ふん、と鼻を鳴らした。
「べつに。私は可能性を視せて、固定するだけ。あんたを許すか、ぶん殴るか、選んで動くのは――こっちの勝手だけど」ひらり、と手を振る。「とりあえず、コーヒー代、今までのぶん全部、耳揃えて払いな。利子つけて」
「……それは、現金だなあ」
倉田は、苦笑して、肩をすくめた。内通者の正体が剥がれても、男はやはり、どこか飄々としたままだった。本物か偽物か。敵か味方か。――たぶん、両方なのだ、この男は。
最上段の人影が、ゆっくりと、懐中時計を閉じた。
――カチ。
秒針の音が、遠ざかっていく。“主”は、何も告げずに、椅子から立ち上がる気配を見せた。今夜は、ここまで、とでも言うように。
去り際。逆光の人影が、ほんの一度だけ、無色のほうを向いた気がした。
『無色。……今のは、いい手だった。だが、覚えておけ。“観測し返す”のは、いちばん、こちらに近づく手だ』
声に、警告と――どこか、寂しげな誇らしさが、混じっていた。
人影が、闇に溶ける。同時に、シャンデリアの光が一段、暗くなった。
面影が、踵を返しながら、ふと、足を止めた。
「白峰無色さん。今夜は、いい余興でしたわ。……でもね、ひとつ、餞別を」能面の奥の声が、笑った。「外側には、あなたが“そうならなかった”線の、もう一人の白峰無色がいるの。誰も助けず、誰の責任も背負わず、ぜんぶ切り捨てて、強くなった、あなた。――近いうち、会えると思うわ。鏡を覗くみたいに、ね」
仮面の客たちが、潮が引くように、ホールから消えていく。
後に残されたのは、ぬるくなったコーヒーの匂いと、誰もいない最上段の席と、まだ少しだけ油断ならない顔でカップを傾ける、ひとりの男だけだった。
帰りの車。無色は、窓に頭を預けて、ぼんやりと夜の千葉を眺めていた。
「零」
「はい」
「私さ、ちょっとだけ、行きたくなった。外側に」正直に、言った。「おじいちゃんに会えるって言われて。ぐらっと、きた」
「知っています」零は、前を向いたまま答えた。「だから、僕がいます」
無色は、ふ、と笑った。それから、後部座席に押し込められて不貞腐れている倉田を、横目で睨む。
「……で。“もう一人の私”って、何よ。冗談じゃないんでしょ、あれ」
倉田は、答えなかった。ただ、暗い窓の外を見つめたまま、ぽつりと呟いた。
「……九条院様の、予測通りだよ」
帰りの車は、勝った夜にしては、静かすぎた。
宣言者を、宣言し返した。倉田の「正しい線」を、潰した。地下劇場以来の、完勝のはずだった。なのに、胸の奥が、妙に、寒い。
仕事のあとは、いつもこうする。無色は、習慣で、頭に手を伸ばした。猫耳を、外すために。外せば、世界が静かになる。少しだけ馬鹿になって、ただの白峰無色に、戻れる。
指が、根元に、かかる。
ぱち、と――鳴らなかった。
「……あれ」
もう一度、引く。今度は、爪を立てて。外れない。耳の付け根が、皮膚と、骨と、見分けがつかないくらい、ぴったりと、馴染んでしまっている。まるで、最初から、そこに生えていたみたいに。
「零」声が、掠れた。「これ、外れないんだけど」
ハンドルの上で、零の手が、こわばった。
「玻璃」無色は、助手席を振り返る。「ねえ。これ、なに。冗談だよね」
玻璃は、答えなかった。いつのまにかルーペを構えて、無色の耳の根元を覗き込んでいる。その横顔から、いつものお祭り騒ぎが、完全に、消えていた。
「……接合部が、ありませんわ」低い声だった。「外す、も、つける、も、ない。あなたの神経と、この耳の回路が――融けて、一本に、なっていますの。境目が、ない」
(覚えておけ。“観測し返す”のは、いちばん、こちらに近づく手だ。)
主の別れ際の声が、耳の奥でもう一度、鳴った。あれは、警告じゃ、なかった。報告だ。済んだことの、報告。
無色は、自分の手を見た。倉田を、固定し返した手。一本だけ、世界を、覗き返した手。
覗き返すたびに、覗いている側へ、半歩、近づく。その半歩ぶん、こちら側の輪郭が、薄くなる。今夜、無色は外側へ半歩、踏み込んでいた。その代わりに――いちばん欲しかったものを、置いてきた。
いつか耳を外して、ただの自分として、誰かと、まっすぐ目を合わせたい。
その「いつか」を、自分の手で、潰したのだ。
「……零」「はい」「プリン」「……ええ」「安いやつでいい」「ええ」
返事だけが、やけに、優しかった。
窓の外、千葉の夜空。雲の隙間に、天井のひび割れが、もう隠れもせずに、こちらを覗いていた。無色は、外れない耳の根元を、指先でそっとなぞる。
冷たかった。




