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冷たい鏡

 猫耳が、外れなくなって、三日が経った。

 無色は、何度も、忘れた。プリンを食べ終えて、ソファに沈んで、「あー、つまんな」と頭に手を伸ばす。指が、根元にかかる。外れない。そこで、思い出す。あ、そうだ。もう、外せないんだ、と。

 外せないということは、ずっと、世界が情報のまま、ということだった。冷蔵庫の寿命も、零の心拍も、街じゅうの未来の枝も、寝ても覚めても、流れ込んでくる。少しだけ馬鹿になれる時間が、もう、ない。ただの白峰無色に戻れる場所が、消えた。

「無理は、禁物ですわよ」玻璃が、めずらしくトゲのない声で言った。今日は、分解とは、言わなかった。「一度視返すごとに、あなたは外側へ、近づきますの。今回は、耳。次は――何が削れるか、分かりませんわ」

「分かってる」無色は、外れない耳の根元を、爪で、軽く弾いた。「もう、安売りはしない。……でもさ、零」

「はい」

「ひとつ、引っかかってるんだよね」

 ずっと喉に刺さっていた小骨を、無色は、ようやく口に出した。

「冬野さんとこで窓を立てた時は、掌が焼けただけだった。輪郭は、無事。なのに、夜会で倉田を固定し返した時は、耳ごと、持ってかれた。同じ“視返す”なのに、なんで、こんなに差が出るわけ?」

 零も、玻璃も、倉田も、答えを持っていなかった。

 無色だけが、ぼんやりと、半分だけ、感じていた。

(……冬野さんの時は、窓だった。私と、おじいちゃんが、ガラス越しに、“視合って”た。お互いさまだった)

(でも、倉田を撃った時。あれは――私が、一方的に、覗き返しただけ。誰も、私を、覗き返しちゃ、いなかった)

 言葉にしようとすると、すり抜けていく。確からしいのに、固定できない。まるで、自分自身の未来の枝みたいに。

(一方通行で覗き返すと、自分が、外側へ落ちる……? “視返す”んじゃなくて、“視合わ”ないと、だめ、なのかも)

 その問いの答えが、すぐそこまで来ていることを、無色は、まだ知らなかった。

 誰よりも残酷な形でそれを教えてくれる相手が、もう、世界の一拍向こうで、足を組んで、待っていることも。

 その日、世界が、また一拍、飛んだ。

 ぱ、と。倉田のコーヒーが空中で止まり、灯のクレヨンが床に落ちる途中で消え、窓の外の信号が、ぬるりと位置をずらす。

 無色は、とっさに猫耳の出力を上げた。だが――今度は、戻ってこなかった。コマが一枚、抜けたまま、貼り直されない。

 気づくと、無色は、見慣れた白峰事務所の、ど真ん中に立っていた。

 なのに、おかしい。ガラステーブルの位置が、左右、逆。窓から差すはずの西日が、来ない。空気が、ひどく、冷たい。そして――いつも騒がしいはずの部屋に、誰もいなかった。零も、玻璃も、倉田も、灯も。プリンの空き容器ひとつ、転がっていない。

「……ここ、どこよ」

「あんたの部屋でしょ。きれいに片付けただけ」

 声が、した。自分の、声で。

 ソファに、ひとりの少女が、足を組んで座っていた。同じ黒髪。同じ顔。頭には、同じ黒い猫耳。

 ただ――その耳を、彼女は、心底どうでもよさそうに、まるで王冠みたいに、当たり前に被っていた。嫌っても、外したがっても、いなかった。

「やっと来たね、私」もう一人の無色が、薄く笑った。瞳に、温度がない。「面影に聞いたでしょ。“そうならなかった線の、もう一人のあんた”。――こっちが、正解のほうの白峰無色」

 (……うわ。なにこれ。鳥肌)

「正解、ねえ」無色は、警戒しながら、ソファの反対側に腰を下ろした。「で、その“正解の私”は、なんで一人で、こんな寒い部屋にいんの?友達は?」

「切り捨てた」

 即答だった。

「橘零?あんな常識ぶった世話係、足手まといだから、最初の難案件で見捨てた。九条院の令嬢?神具のデータだけ抜いて、用済みにした。あの観測できないガキも、占い師も、ぜんぶ。――邪魔な線は、観測ごと、忘却の海に捨ててきた」

 もう一人の無色は、長い脚を組み替えた。

「だから、私は強い。背負ってないからね。あんた、知ってるでしょ。確率の責任を背負うから、脳が焼ける。私は背負わない。捨てる。だから、いくらでも視られるし、いくらでも固定できる。脳も焼けない。――楽でしょ?」

 無色の背筋が、ぞわりとした。

 楽。――それ、面影にも、言われた。耳を外せば楽。名前を捨てれば楽。そして今度は、人を捨てれば楽。

「あんたが弱いのは」もう一人の無色が、立ち上がった。「誰も、切り捨てられないから。零が消えるくらいなら、自分が向こうへ行く?馬鹿じゃないの。一人助けて、自分が死んだら、差し引きマイナスでしょ。効率が悪い」

 彼女の猫耳が、ぱちりと光を強める。

 部屋の床が、ぐにゃりと歪んだ。無色の足元に、無数の世界線の枝が、剃刀みたいに鋭く展開していく。

「テストしてあげる。今、この部屋の外で、零が一人、崩落に巻き込まれてる。助ける線は、一本だけ。でもその線を固定すると、代償で、あんたの脳が焼け切れて、あんたが消える。――さあ、どうする?零を捨てれば、あんたは助かる。零を取れば、あんたが消える。二択よ」

 冷たい正解が、にやりと笑った。

「これが、観測者の現実。私は迷わない。零を捨てる。だってそれが、いちばん確率のいい線だもの。――あんたも、そうしなよ。そうすれば、私になれる」

 無色は、唇を噛んだ。二択。零か、自分か。どっちかが、消える。

 (……いつも、これだ。席替えか、断絶か。誰かが消える前提の、二択ばっかり)

 (でも)

 無色は、ふと、顔を上げた。ずっと違和感のあった一点。この、冷たすぎる部屋の、ある“不在”へ。

「ねえ。ひとつ、いい?」ゆっくりと、立ち上がる。「あんた、零を切り捨てた、って言ったよね。玻璃も、灯も、倉田も。ぜんぶ捨てた、って」

「言ったけど」

「じゃあさ。――その捨てた連中、いま、どこ視てると思う?」

 もう一人の無色の、笑みが、ほんの少し、固まった。

「あんたは、視る側だけの人間になった。背負わない。だから、誰にも責任を問われない。観測する側は、観測されない。――あんたが、いちばんよく知ってるはずだよね」

 無色は、猫耳の出力を、目の前の鏡像ひとりに絞り込んだ。

「でもさ。捨てた線は、消えてない。忘却の海に、ぜんぶ、溜まってる。あんたが切り捨てた零も、玻璃も、灯も――海の底で、ずっと、あんたを視てる。“なんで、私を捨てたの”って」

「……やめろ」

「あんたは、誰にも視られてないんじゃない。あんたが捨てた全員に、不在のかたちで、いちばん深く、視られ続けてるんだよ。だから――」無色は、鏡像の足元を指差した。「あんたの輪郭、もう、半分溶けかけてるじゃん。忘却の海と、おんなじ色に」

 もう一人の無色が、自分の手を見た。指先が、にじんでいた。あの、外側に引かれた時と、同じに。

「非情になれば、強くなる?違うよ。背負わなかった代償を、踏み倒したつもりで――あんた自身が、その代償に、なってる。捨てた線の墓場に、半分、片足突っ込んでる」

「……っ、黙れ!黙れよ!」鏡像が、初めて、声を荒げた。「だったら、どうすればよかったって言うのよ!全部背負ったら、あんたみたいに脳が焼けて、いつか消える!捨てたら、私みたいに溶ける!どっちにしろ、観測者は、終わってんのよ!」

 その叫びは、無色自身が、ずっと心の底に押し込めてきた、いちばん暗い恐怖の声だった。

 無色は、息を吸った。

 剃刀みたいに展開した「二択」の枝――零か、自分か――に、手は、伸ばさなかった。代わりに、ただ、目の前の自分を、見た。

 確率の球も、猫耳の灼ける熱も、ここには無い。鏡の世界は、いつもの道具を、ぜんぶ取り上げていた。残っているのは、視線だけ。

(……そうか。だったら、視るしかない)

 無色は、半分溶けかけた鏡像から、目を、逸らさなかった。

 それは、思っていたより、ずっと難しかった。自分の顔が、自分の指先が、忘却の海とおなじ黒に、ずるずると溶けていく。見ていられない。本能が、目を逸らせと叫ぶ。二択のほうを見ろ、零を選べ、自分を選べ、どっちでもいいから、この溶けていく自分から、目を、背けろ、と。

「……なに、見てんのよ」鏡像の声が、掠れた。「やめてよ。そっち、見ないでよ」

「やだ」無色は、瞬きすら、惜しんだ。「ずっと、見てる」

「やめろっつってんの!」鏡像が、にじんだ手で、自分の顔を覆い隠そうとする。「あんたに、見られたくない!視られたら……っ、私、」

「視られたら、消えないんだよ」無色は、言った。「逆だよ。あんたが溶けてるのは、誰にも視られてないから。視る側にだけ回って、誰にも、視返してもらえないから。――でも、いま、私が視てる」

 鏡像の動きが、止まった。

「あんたが切り捨てた零も、玻璃も、灯も、倉田も。みんな、忘却の海の底から、ずっと、あんたを視てたよ。“なんで捨てたの”って。あれは、呪いじゃない。“まだ、ここにいるよ”って、ことだ。――気づかなかっただけで、あんた、最初から、独りじゃなかった」

「……っ、」

 鏡像のにじんでいた輪郭が。溶けるのを、ふ、と、止めた。

 無色は、目を逸らさないまま、ゆっくりと、息を吐いた。球も、ガラスも、「固定」も、要らなかった。ただ、二人が、互いを、見つめ合っている。それだけで、もう――二人のあいだには、どちらも溶けず、どちらも相手の代わりにならず、ただ向かい合うだけの、薄い、透明な、一枚が、立っていた。

 立てた、んじゃない。視合った、結果、そこに、あった。

 世界の歪みが、すうっと、引いていく。「かちり」は、鳴らなかった。代わりに、ずっと耳の奥で急いていた秒針が、ことり、と、止まる。自分の呼吸の音だけが、静かに残った。

「……ばっかみたい」もう一人の無色が、半分溶けかけたまま、ぐしゃりと、泣きそうな顔で、笑った。初めて、その瞳に、温度が、宿る。「球も使わないで、ただ睨んで、引き分けにするとか。そんな面倒くさい勝ち方、あんたくらいだよ」

「知ってる。私、面倒くさいんだ」無色も、笑った。「零にも、毎日言われてる」

 その時。鏡像の、そのまた後ろ。透明な一枚の向こう側に、人影が、見えた。

 崩落に巻き込まれて、消えているはずだった――本物の、零。ガラスのこちら側から、まっすぐに、無色を視て、手を、伸ばしている。最初から、二択なんて、無かった。零は、消えてなんかいなかった。ただ、窓の向こうで、無色が、自分で気づいて、戻ってくるのを、待っていただけだった。

「無色さん」零の声が、ガラス越しに、はっきりと届いた。「お帰りなさい。プリン、冷えてます」

 無色は、ふ、と、肩の力を抜いた。はじめて、鏡像から、目を逸らす。もう、溶けない、と知っているから。

 冷たい鏡の世界が、優しく、透明度を、失っていく。消える直前、もう一人の無色が、ガラス越しに、ほんの少しだけ、手を、挙げたように見えた。

――さよなら、ではなく。また、という形に。

 事務所に、西日が、戻ってきた。

 無色は、ソファの上で、はぁ、と荒い息を吐いていた。猫耳は、もう、外れない。頭が割れそうに重いのに、世界の音は、鳴り止まない。けれど、手のひらは、焼けていない。今日の代償は、もっと奥――芯から、冷えていた。

「……二日は、寝込むやつだ、これ」

「三日にしておきますわ」玻璃が、すかさず計測器を構える。「ついでに、その猫耳、サンプルとして――」

「やらん」

 零が、無言で、まだ冷えている無色の手に、淹れたての、熱いカップを、握らせた。零は、何も言わなかった。

 灯が、スケッチブックを抱えて、ことりと首を傾げる。

「お姉ちゃん。あのね。さっきの“もう一人”、消えなかったね」

「……うん。消さなかった」

「じゃあ、できるね」灯は、クレヨンで、四角い箱と、その外側の余白の間に、すうっと、まっすぐな線を一本、引いた。「箱の中の人と、箱の外の人を、こうやって、窓でつなぐの。お姉ちゃんなら、いちばん大きい箱でも、できる」

 事務所の空気が、すっと、静まった。

 無色は、その絵を、しばらく見つめた。二択じゃない。席替えでも、断絶でもない。第三の線。窓。――今、自分の分身相手に、それを、やってのけた。

 なら。

「……零」

「はい」

「私さ。やり方、わかったかも」まだ冷たい手を、ぎゅっと握る。「おじいちゃんを、引き戻すんでも、諦めるんでもなくて。あの、いちばん外側の箱に――“窓”を、立てる。私が、向こうを、視返してやる」

 零は、しばらく無色を見つめてから、静かに、頷いた。

「そのために、僕がいます。あなたが、消えないように」

 窓の外、千葉の夕暮れの空。その雲の隙間に、一瞬だけ、世界のルールそのものが歪んだような、天井のひび割れが、また、見えた気がした。

 その、ひび割れの、ずっと奥で。――カチ。カチ。カチ。秒針の音が、こちらの覚悟を、確かに、聞いていた。



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