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白峰観測系

 冷たい鏡の一件から、二週間。

 無色は、毎日、窓を立てる練習をしていた。

 事務所のガラステーブルの上、ほんの掌ほどの空間に、確率の球を回して、透明な一枚を固定する。最初は三秒で崩れた。今は、五分、保つ。掌は擦り剝けて、いつも絆創膏だらけだ。

「無理は禁物ですわよ」玻璃が、計測器を睨みながら言う。「窓を“大きく・長く”開く出力、まだ全然足りませんわ。いちばん外側の箱に立てるには、この事務所サイズの窓では、話になりませんもの」

「わかってるって。でも、やるしかないでしょ」無色は、絆創膏の上から、もう一枚、絆創膏を貼った。「あいつを――おじいちゃんを、引き戻すんでも、諦めるんでもなく。視返すって、決めたんだから」

 その時だった。

 ピッ。

 無色が触れてもいないのに、頭の猫耳が、ひとりでに、青い光を漏らす。同時に、事務所じゅうの電子機器が、一斉に、ノイズを吐いた。

 無色のノートパソコンの黒い画面に、白いシステムフォントが、流れ始める。今度は、一行じゃなかった。

『 対象世界:白峰観測系 』

『 サンプル No.白峰無色 ―― 観測目標、達成 』

『 当該観測系、まもなく観測を終了します 』

「……終了?」零の声が、低く張り詰めた。

 その問いに答えるように――千葉の街じゅうの窓ガラスが、一斉に、ビリビリと鳴った。

 無色は、弾かれたように猫耳の出力を上げた。ぱちり。そして、息を呑む。

 街じゅうの未来の枝が、根こそぎ、消えかけていた。これまで視てきた、どんな崩落の比でもない。関東全域どころか、視える限りの世界線そのものが、まるで読み終えた本を閉じるように、静かに、確実に、たたまれようとしている。

「世界が……閉じる」掠れた声が漏れた。「観測が、終わる。私の“サンプルとしての役目”が、済んだから――この世界ごと、片付けるつもりだ……!」

「いいえ、無色さん。少し違いますわ」

 声がして、振り返ると、事務所のドアが、ノックもなしに開いていた。能面の人影――面影が、立っている。その後ろには、仮面の客たちが、ずらりと。夜会の、急進派たちだ。

「観測が終わるのなら、好都合。わたしたちは、その隙に、全人類を箱の外へ出す」面影の声が、冷たく弾んだ。「観測が止まれば、誰も固定されない。誰も視られない。全員が、自由になる。――あなたのお祖父様の遺したゼロ号機の窓を、そのために、使わせてもらうわ」

 面影の背後、仮面の群れの中から、ひとり、進み出た男がいた。痩せた、銘のない刀のような――無銘だった。震える手が、ゼロ号機のレバーへ、伸びる。

「……もう、読まれたくないんだ」無銘の声は、夜会の夜の凪を、失っていた。「箱が閉じれば、誰も、読まれない。誰も、固定されない。わたしは――誰にも、殺人者に、されずに、済む」

 無色は、その手を、見た。あの夜、暗がりで、答えを返せなかった、白紙の手だった。

「ふざけんな」無色は、即座に遮った。「箱の外が自由?嘘つけ。あんたら、外がどんな場所か、視たことないでしょ。私は、視た」

 爪先が、冷たくなる。あの、忘却の海の感触が、蘇る。

「外側はね、自由なんかじゃない。“なかったことにされた線”が、ヘドロみたいに溜まった、忘却の海だよ。観測されない、ってことは、誰にも“いる”って決めてもらえないってこと。あんたらが憧れてるのは――半分溶けて、誰の記憶からも消えて、それでもまだ誰かを視てる、あの、寂しい男の末路だ」

 面影の動きが、一瞬、止まった。

「……それでも。視られて、固定されて、責任を背負わされて生きるより、マシよ」能面の奥の声が、初めて、震えを帯びた。「あなたには、わからない。視られる苦しみを知らない人間なんか、いないもの」

「知ってるよ」無色は、静かに言った。「視られるの、私だって、ずっと嫌いだった。耳を外したくて、しょうがなかった。――でもね」

 彼女は、頭の猫耳の根元を、指先で、そっとなぞった。

「外すのでも、捨てるのでもない、三つ目があるって、最近、わかったんだ。だから――あんたらにも、見せてやる。私が、いちばん外側の箱に、窓を立てるとこを」

 その時、事務所のインターホンが、けたたましく鳴った。こんな時に。全員が振り返る。

 ドアの隙間から、ひょこ、と顔を出したのは――マイカップを片手に提げた、倉田だった。

「やあ。取り込み中、悪いね」飄々とした口調のまま、けれど、その目は、笑っていなかった。男は、一冊の古びた手帳――先代の日記を、テーブルに置いた。「内通者からの、最後の手土産だ。君が“視返す”ほうを選ぶことまで、九条院様は見抜いていた。なら――勝ち目のある計算式を、置いていく」

 倉田は、手帳の一頁を、とん、と指で叩いた。「式は、一行だけ覚えとけばいい。――“鏡は、自分を映せない”。どんな観測者も、自分自身だけは、観測できないんだ。箱も、同じさ」

 無色は、眉を寄せた。「……だから?」

「だから、いちばん外側の箱を視返せるのは、外からじゃ、無理だ」倉田は、カップの底を覗き込んだ。「箱の、内側にいる“誰か”だけ。箱であって、箱だけじゃない――そういう半端なやつが、一人、いるだろう?」

 無色は、答えなかった。海の底の、半分溶けた人影が、頭をよぎって、消えた。

「……あんた、どっちの味方なのよ」

「両方さ。いつも言ってるだろう」倉田は、肩をすくめた。「ただ、研究者としては、世界が閉じるところより、君が“箱に窓を立てる”ところのほうが、よっぽど見たい。それだけの話だよ」

 無色は、しばらく男を睨んでから、ふん、と鼻を鳴らして、手帳を受け取った。

「零」

「はい」

「九条院に、連絡。冬野さんに、ゼロ号機の窓、全力で温めといてって。それから玻璃、出力。倉田、計算式。灯ちゃんは――」

 無色は、いつのまにか、ドアの陰で、スケッチブックを抱えて立っていた少女を見た。

「外側の余白、案内できる?」

 灯は、こくり、と頷いた。クレヨンで、四角い箱と、その外側の余白を結ぶ、まっすぐな線を、もう一度、引く。

「うん。私、“後ろの人”の場所、知ってるから。お姉ちゃんを、ちゃんと、ガラスの前まで連れてく」

「……上等」

 無色は、血だらけの掌を、ぐっと、握りしめた。窓の外、千葉の空は、たたまれかけて、不気味なほど静かだった。その雲の隙間に、世界の天井のひび割れが、もう、隠れもせずに、ぱっくりと口を開けている。

「行くよ、みんな。――おじいちゃんを、迎えに、じゃない。視返しに」

 面影が、能面の奥で、息を呑んだ。急進派の仮面たちが、ざわめく。倉田が、楽しげにカップを傾ける。玻璃が、出力レバーに手をかける。零が、無色の隣に、当たり前のように立つ。

 世界が閉じる、その寸前。観測されるだけの少女が、観測し返すために、いちばん外側の箱へ向かって、足を踏み出した。

――カチ。カチ。カチ。

 天井のひび割れの、ずっと奥で。待っていたように、秒針が、鳴った。



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