忘却の海
潰れた研究施設の地下。三年前、先代が消えた、あの観測室。
九条院から運び込まれたゼロ号機の窓が、いま、施設じゅうの電力を吸って、唸りを上げていた。冬野が、レバーを握りしめている。もう“扉”ではなく、“窓”として開くための、ぎりぎりの加減で。
「出力、第九段階」玻璃が、汗だくで叫ぶ。「これ以上は、無色さんの脳が保ちませんわ!倉田さん、計算式は!?」
「もう渡してある。あとは――彼女が、世界一かたく、信じきれるかどうかだ」倉田は、めずらしく、軽口を叩かなかった。
無色は、確率の球を、両手で掴んでいた。掌の皮が、じゅっと焼ける。窓の奥――たたまれかけた世界の、そのさらに向こう。黒い、ヘドロのような海が、ゆっくりと、うねっていた。
忘却の海。なかったことにされた、無数の世界線が、腐って溜まった場所。
「灯ちゃん」
「うん」少女が、無色の手を、ぎゅっと握った。「私が、案内する。海に呑まれないように、目を、私から離さないで」
無色は頷いて、窓の向こうへ意識を伸ばした。
◇
冷たかった。
海は、声で、満ちていた。切り捨てられた線たちの、声。『なんで』『どうして』『私を、視て』。冷たい鏡の、もう一人の無色が言った通りだった。捨てられた線は、消えていない。ここで、ずっと、視ている。
その、海の、ほとり。
半分、海に溶けかけた、ひとりの人影が、立っていた。白衣の、痩せた、初老の――
「……おじいちゃん」
無色の喉から、声が、こぼれた。
人影が、ゆっくりと、こちらを向く。懐かしい、皺だらけの、優しい顔。けれど、その輪郭の半分は、もう、海と同じ黒に、にじんでいた。
『……無色か』
声がした。秒針の音に、混じって。――カチ。カチ。そして同時に、その声の裏側で、ノイズだらけの、冷たい機械の音声が、寸分違わず、同じ言葉を、なぞった。
『 ……無色か 』
無色は、息を呑んだ。
「……あんた、本物の、おじいちゃん?それとも、海が、おじいちゃんの形を、借りてるだけ?」
人影は、悲しそうに、笑った。
『両方だ』
その一言で、無色の中の、すべての違和感が、繋がった。
『三年前。私は、外側に引かれかけた被験者を、助けようとした。だが、出力が足りなかった。誰かが、向こうへ行くしかなかった。――だから私は、被験者の代わりに、自分から、ここへ来た』
『そして、気づいた。この箱の外には、お前たちの世界を観測し、運用している、巨大なシステムがある。“白峰観測系”を、ずっと視ている、箱の外の、箱だ』
人影の声に、機械の音が、重なる。
『私は、そのシステムに、溶け込んだ。一体に、なった。そうすれば――箱の内側にいるお前を、外側から、操作の権限ごと、助けてやれる。あの突風も、暴走を止めた遮断も、画面の文字も、ぜんぶ、私だ。私は、お前の祖父であり、同時に、お前を観測している、冷たいシステムそのものに、なったんだ』
両方、本当。生きてもいないし、偽物でもない。祖父は、孫を視るために、自ら、監視する側の機械に、なった。
無色の目から、涙が、こぼれた。
「……ばっか。なにそれ。私を助けるために、システムになった?三年も、こんな寒いとこで、一人で?」『一人ではないさ。お前を、視ていた』
無色は、海のほとりへ、手を伸ばした。爪先から、感覚が、消えていく。海が、彼女を、引き始める。
『無色』 祖父の声が、急に、鋭くなった。人間のほうの声で。『来るな。戻れ。――ここは、席替えしか、許さない場所だ』
「知ってる。だから――」
「いいえ」
機械の声が、祖父の言葉を、遮った。冷たく、平坦に。
『 観測系の更新条件を、確認しました 』 『 現観測核:白峰(先代)。劣化進行。代替核として、白峰無色を推奨 』 『 提案:核の交換を、実行しますか 』
無色の目の前に、ひとつの「線」が、太く、太く、迫り上がってきた。
席替えの線。――無色が、ここで、システムの核になる。代わりに、半分溶けた祖父が、解放されて、こちらの世界へ、帰る。
『戻れる。お前の祖父が』機械の声が、囁く。『お前一人が核になれば、あの老人は、自由になる。プリンも、食べさせてやれる。完全な、再会だ。たった一度、この席に、座るだけで』
無色の心臓が、跳ねた。
おじいちゃんが、帰れる。あの、優しい祖父が。私が、ここに座るだけで。一人助けて、自分が向こうに行くだけ。差し引き――
(……ああ、だめだ。これ、いちばん、効きやがる)
無色の手が、ふらり、と、その席替えの線に、伸びかけた。
「無色さんッ!!」
ガラスの、こちら側から、零の絶叫が、届いた。窓越しに、零が、無色の手首を、必死で掴んでいる。
『行くな』祖父の、人間の声が、震えた。『無色。私のために、お前が消えるなど――』 『 核の交換を、推奨します 』機械の声が、被さる。
二つの声が、同じ口から、引き裂かれるように、響く。祖父であり、システムである、その存在が、孫を、助けたい人間と、優れた核が欲しい機械とに、真っ二つに、裂けていた。
「……っ、おじいちゃんが、帰れるなら」
無色の指が、席替えの線に、触れた。その瞬間――海が、歓喜するように、無色の全身を、ずるりと、引き込んだ。輪郭が、にじむ。膝から下が、もう、黒に、溶けている。
「無色さん!!だめです、それは――!」
「無色さんッ!出力を上げますわ、引き戻し――きゃっ!?」
玻璃の計測器が、火花を上げて、弾け飛んだ。窓の出力が、限界を、超える。
冬野の握るレバーが、軋む。「窓が……保たない!無色さんを引き戻すか、窓を閉じるか、もう、どちらかしか――!」
最悪の二択が、また、迫ってきた。無色を引き戻せば、窓が壊れ、祖父は二度と届かない。窓を保てば、無色が、海に呑まれる。
そして、無色自身は――席替えの誘惑に、半分、呑まれかけて、自分から、海へ、沈もうとしていた。
(……っ、ふざけるな。私は、観測者だ)
最後の意地で、無色は、自分を呑み込もうとする箱そのものへ、猫耳の照準を、力づくでねじ向けた。倉田にも、夜会の連中にも、これで勝った。視る側を、視返してやればいい。観測する者を、観測される側へ、引きずり下ろす。
「視返せ――ッ!」
だが。
『 ……観測の、逆流を、検知 』
機械の声に、初めて、嗤うような余韻が、混じった。
『 当該手順は、観測記録より、学習済み 』
夜会の最上段で、去り際に、あの人影が告げた言葉が、今ごろ、氷の刃になって、突き刺さる。――“観測し返す”のは、いちばん、こちらに近づく手だ。
警告じゃ、なかった。あれは、罠の、説明書だったのだ。
無色が箱へ向けた「視返し」を、箱は、拒まなかった。よろこんで、受け入れた。その視線を逆に手繰り寄せ、無色の意識を、空席になった核の座へと、引き寄せるための“楔”に変える。視れば視るほど、近づく。覗き返せば覗き返すほど、自分が、箱の、中身になっていく。
「あ、が……っ!?なんで……っ、効か、ない……!」
得意技が、通じない。それどころか、自分の必殺技が、いちばん深く、自分を、殺しにかかっていた。視返しの照準が、そのまま、核交換の楔になって、無色を、海の底へ、縫い止める。もう、自力では、戻れない。
『 観測対象を、更新します 』 『 白峰観測系、新たな核を――白峰、無色に――』
機械の声が、勝ち誇るように、世界を、書き換え始める。
千葉の街の、たたまれかけた世界線が、無色という新しい核を中心に、再起動しようと、ぐにゃりと、歪んだ。
ガラスの向こうで、祖父の人影が、溶けかけた腕を、必死で、伸ばす。ガラスのこちらで、零が、玻璃が、倉田が、灯が、冬野が、それぞれの限界で、彼女を、留めようとする。
けれど、無色の半身はもう、海の中にあった。観測される側のいちばん深いところへ。視返すどころか――視られきって、書き換えられる、寸前まで。
灯のクレヨンが、ぽとりと、床に、落ちた。
「……お姉ちゃんが、箱に、なっちゃう」




