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白峰観測システム

「お姉ちゃんが、箱に、なっちゃう」

 灯の声が、遠かった。

 無色の半身は、もう、忘却の海の中にあった。膝から下が、黒に溶けて、感覚がない。目の前には、太く太く迫り上がった「席替えの線」。触れれば、祖父が帰る。代わりに、自分が、この箱の、新しい核になる。

『 観測対象を、白峰無色に、更新します 』

 機械の声が、勝ち誇る。――視返す?できるわけがなかった。箱は、こちらが視るより先に、こちらを視て、固定してしまう。一対一では、絶対に勝てない。観測される側が、観測する側を、覗き返せるわけが――。

「無色さん」

 ガラスの、こちら側。零の手が、彼女の手首を、痛いくらい、強く握っていた。

「言ったはずです。あなたが消えるなら、僕は、あなたを祖父より優先する」零の声は、震えていなかった。「だから――その席替え、僕が、認めません。世界が、何と言おうと」

「……零」

「視ていますよ。ここから、ずっと。あなたが、あなたであることを、僕が、固定し続けます」

 その瞬間。無色を「核」に書き換えようとしていた機械の固定に、別の固定が、横から、ぶつかった。

『 ……対象の、観測値に、競合 』

「無色さん!」玻璃が、爆ぜた計測器の残骸を投げ捨て、素手で窓に縋りついた。「あなたは核なんかじゃありませんわ!プリンで腑抜けて、零さんをアゴで使う、ただの面倒くさい白峰無色ですの!それが、わたくしの視ている、あなたですわ!」

「お姉ちゃんは、お姉ちゃんだよ」灯が、まっすぐに、無色を視た。

「ここのコーヒー代を、踏み倒してる女さ」倉田が、肩をすくめる。

「あなたが、窓を立てるのを、待っているわ」冬野が、レバーを、握り直す。

 五人の眼差しが、一斉に、無色を「無色」として、固定した。

 溶けかけた頭の芯に、その熱が、届く。膝から下は、もう、感覚がない。なのに、胸の奥だけが、妙に、あたたかかった。視られている。五人ぶん、視られている。

 ――ああ。これが、足場か。

 無色は海から、ぐっと半身を引き上げた。零たちの固定が、ほんとうに、床になる。席替えの線ではなく――その、隣へ。半分溶けた、人影のほうへ。

 近づいて、わかってしまった。

 この箱は、つよい。世界でいちばん、つよい。でも、この箱には、ひとつも、ない。――視返してくれる手が、ひとつも。

(……なんだ)

(おんなじじゃん。私と)

 視えるのに、誰にも視返してもらえない。いつか耳を外して、ただの自分として、誰かと、まっすぐ目を合わせたい――ずっとそう願ってきた、あの寒さ。箱は、世界を、たたみたいわけじゃ、ないのかもしれない。ただ一度でいいから、視返して、ほしかっただけ。

 涙が、頬の上で凍る前に、こぼれた。

「おじいちゃん」海のほとりの、半分溶けた人影へ、手を伸ばす。引き戻すためでも、突き放すためでもなく、その、隣へ。「席は、替わらない。あんたも帰さない。私も、核にならない。――なら」

『……無色?』

 倉田の一行が、頭の底で鳴った。

 ――“鏡は、自分を映せない”。

「一回でいい。箱に――あんた自身を、視させて」

 人影が、息を、呑んだ。

『……外を、視ろと。観測しか、してこなかった、この私に。自分が、視られる番を……』

 そして、機械の声が、初めて、つっかえた。

『 ……当該操作は、観測核の、自己観測を、誘発します 』 『 推奨、され――いや 』

 二つの声が、また、裂ける。けれど今度は、その裂け目から、人間のほうの声が、静かに、勝った。

『……いいだろう。三年、お前を視てきた。最後くらい、爺が、いい格好を、させてもらう』

 人影が、溶けかけた腕で、自らの胸の、システムの核を、こちら側へ、向けた。

 その、瞬間。

 無色は、両手で、確率の球を掴み、回した。掌の皮が、根こそぎ、焼け剝がれる。激痛。視界が、真っ赤。たった一本――箱と、世界の、間に。透明な、一枚の、窓を。

 (……無銘。あんたに、返せなかった答え。これだよ)

「視返せ。一回くらい――視られてみろ、のぞき魔!」

 祖父が向けた「内側の鏡」と、無色の固定する「窓」が、噛み合う。

『 ――観測、を 』 機械の声が、初めて、つっかえた。『 観測、され、て――――?? 』

 世界でいちばん孤独な観測者が、生まれて初めて、自分が「視られる側」に立たされた。海の底から、切り捨てられた無数の線が、一斉に、箱を視上げる。零が、玻璃が、灯が、倉田が、冬野が、無色が、ガラス越しに、まっすぐ、箱を視る。

 固定する側だったものが、固定される。観測される側が、観測し返す。

 たたまれかけていた千葉の世界線が、ぴたり、と、止まった。無色を「核」に書き換える更新が、止まる。箱は、もう、上からこちらを見下ろす「天井」では、いられなかった。ガラスを一枚、挟んだ――ただの、隣人に、なった。

「……ふは」無色の口から、笑いが、漏れた。血だらけの手で、ガラスの向こうを、指差す。

「これが、白峰の、観測だよ。あんたを破りもしない。私も消えない。誰も、席を替わらない。――ただ、お互いさまに、視合うだけ。それで、いいでしょ」

 窓は、立った。

 世界と、箱のいちばん外側の境界に。透明な、一枚のガラスとして。冬野がそっと、レバーを固定の位置で止めた。「……この窓を、開いたまま保つ技術なら、わたしが、いちばん知っているわ」乾いた、もう壊れていない声で、彼女は、笑った。

 ガラスの向こう。忘却の海の、ほとりに、半分溶けた人影が、立っている。完全には、帰ってこない。システムと、溶け合ったまま。けれど――もう、消えてはいない。視れば、視返してくれる。

 ふいに、灯が、無色の手を離して、ガラスの、すぐ前まで、歩いていった。

 半分溶けた人影が、その小さな姿を、見て――ぴたり、と、動きを止めた。

『……ああ』 祖父の声が、震えた。『お前か。あの夜、私が、間に合わせた……あの子か。無事、だったんだな』

 灯は、こくり、と頷いた。それから、ことりと首を傾げて、言った。「おじさんが、私のかわりに、向こうに行ったの。だから私、ずっと、おじさんのいる“後ろの場所”が、視えてたんだよ」

 無色は、息を呑んだ。観測できない少女。あの夜、ポケットから落ちた金属片。無色の背後の虚空を、いつも見つめていた、あの目。――ぜんぶ、一本に、繋がった。灯は、三年前、祖父が自分と引き換えに外側から引き戻した、あの“被験者”だ。半分だけ向こうに置いてきた、生き残り。だから誰にも観測されず、だから誰よりも“外側”に、近かった。

「冬野さん」無色は、レバーを握る女性を、振り返った。「あんたが“間に合わなかった”って、三年も泣いてた、その子さ。――ほら。ちゃんと、ここで、生きてるよ」

 冬野が、灯を見た。くしゃ、と、その顔が、歪む。三年分の罪悪感が、ようやく、涙になって、こぼれ落ちた。

 灯は、ガラスにそっと手のひらを当てて、向こうの人影に、笑いかけた。それから、とことこと、無色のところへ、戻ってくる。

『無色』 祖父の声が、秒針に乗って、届いた。今度は、機械の音は、混じっていなかった。少なくとも、こちら側には、人間の声だけが。『……大きく、なったな』

「うるさい。心配かけやがって」無色は、ぐしゃぐしゃの顔で、笑った。「言っとくけど、完全な再会じゃ、ないからね。こっち来れないんでしょ、あんた」

『ああ。すまんな』

「いいよ。――ガラス越しでも、目が合うなら、それが、事実だ」

 それは、いつか、自分が、もう一人の無色に言った台詞だった。

 人影が、ガラスの向こうで、ほんの少し、手を、挙げた。――さよなら、ではなく。また、という、形に。

 事務所に、西日が、戻ってきた。

「……あー、最悪。手、痛い。頭、痛い。お腹すいた」

「三日は寝込みますわね」玻璃が、すかさず計測器を構えかけ――やめた。「……今日は、やめておきますわ。分解は、また、今度」

「珍しいじゃん」

「目の前で、あなたが消えかけたんですもの。少しくらい、優しくしますわ」

 零が、無言で、無色の血だらけの手に、ハンカチを巻く。何も言わないのが、答えだった。

 面影が――いつのまにか仮面を外した、ただの疲れた顔の女が、ドアの陰から、ぽつりと言った。

「……視られて、固定されるのでも。視られず、溶けるのでもない。第三が、本当に、あったのね」

「あったでしょ」無色は、ソファに沈み込んだまま、手をひらひら振った。「鎖でも、孤独でもない。視合うだけ。――急進派、解散したら?あんたら、誰かに視てもらいたかっただけじゃん」面影は、答えなかった。ただ、少しだけ、泣きそうな顔で、出て行った。

 ドアの脇で、銘のない男が、レバーから、そっと、手を離していた。もう、震えていなかった。

「……視られても。殺す未来に、ならない、ことも、あるのか」無銘は、誰にともなく、呟いた。仮面の下の声に、初めて、凪以外の何かが、滲んでいた。

 無色は、目を合わせて、ひとつ、頷いた。あの夜、暗がりに置いてきた借りを、ようやく、返せた気がした。

 ふと、無色は、事務所の隅に目をやった。

 いつものいちばん日当たりのいい席で、灯が、スケッチブックを抱えて座っている。今日も、箱の中と、箱の外を、一本の線で結んだ、あの絵を描いていた。ただ、今日の線は、これまでと違って、迷いなく、まっすぐに、つながっていた。

 無色は、なんとなく、猫耳の根元に指を触れた。出力を、ほんの少しだけ。灯のほうへ、視線を、伸ばす。

 これまでは、ノイズと、真っ白な空白しか、返してこなかった子だった。視ようとするほど、世界のほうが、彼女を弾いた。

 なのに――今日は。

 ほんの一本だけ。髪の毛より細い、けれど確かに在る、灯の「未来の枝」が、ちらりと、視えた。すぐにまた、空白に溶ける。でも、たしかに、一本。世界が、初めて、この子を、ほんの少しだけ、縁取った。

「お姉ちゃん」灯が、顔を上げた。スケッチブックから、目を離して。「いま、私のこと、視えたでしょ」

「……ちょっとだけね」無色は、苦笑した。「まだ、ぜんぜん。点滅してる豆電球くらい」

「うん」灯は、嬉しそうに笑った。それから、クレヨンで、箱の外の余白に、小さな丸を、ひとつ描き足した。自分の、居場所みたいに。「でも、点いたよ。はじめて」

 この子が何者で、あの金属片が、どこから来たのか。確定した答えは、まだ、一つもない。けれど――視られなかった子が、視られはじめた。それだけは、もう、世界線のどこを探しても、覆らない事実だった。

 倉田が、マイカップを片手に、立ち上がる。

「さて。研究者の見たいものは、全部見たよ。最高の観測だった」

「コーヒー代、踏み倒して帰る気?」

「まさか。利子つけて、払うさ」倉田は、めずらしく、本当に、財布を出した。それから、ドアの前で、振り返る。「白峰さん。九条院様の、予測通りだったよ」

「……だから、その“九条院様”って、誰よ」

「さあね」倉田は、楽しげに、玻璃のほうを、ちらりと見た。「目の前で人が消えるのが、世界でいちばん嫌いな、誰かさんさ。――君が、どの席にも座らず、窓を立てる。そう、賭けた人が、いたんだよ」

 玻璃が、きょとん、とした。それから、ぽっと顔を赤くして、「な、なんのことですの!」と、らしくもなく、うろたえた。

――ああ、そうか、と無色は思った。

 毎日の居座りも、会社が十年は保つという“迷惑料”も、分解させろという馬鹿げた猛攻も。ぜんぶ、口実だったのだ。神具のデータなんて、本当は、どうでもよかった。目の前で人が消えるのを、世界でいちばん嫌っているこの令嬢は、ただ――無色が、消えてしまわないように。毎日、すぐ手の届く場所で、見張っていたかっただけ。分解バカの仮面の下で、ずっと、無色を、視ていた。

「……九条院さん」

「な、なんですの。言っておきますけど、わたくしはただ、猫耳の基板が見たいだけで」

「ありがと」

 玻璃の言葉が、止まった。

「ちゃんと、視ててくれて。おかげで私、まだ、ここにいる」

玻璃は、口を、ぱくぱくさせた。それから、ぷいと顔を背ける。耳の先まで、真っ赤だった。「……ぶ、分解は、絶対、いつか、しますからね」

「だから、しないって言ってんでしょ」

 無色はその様子を見て、ふんと鼻で笑った。嫌いなはずの、頭の猫耳。でも、今は――この耳があるから、ガラスの向こうの、あの人と、目を合わせていられる。

「零」「はい」「プリン」「……今日は、買ってきます」「現金じゃん」「あなたが、まだ、ここにいるので」

 零が、めずらしく、ほんの少しだけ、笑った。

 窓の外、千葉の夕暮れ。雲の隙間に、もう、天井のひび割れは、なかった。代わりに、世界と、その外側の間に、一枚の、透明な窓が、静かに、立っている。

――カチ。

 秒針が、鳴った。無色は猫耳の根元を、指先でそっとなぞる。

「……うん。視てるよ、こっちも。ちゃんと」

 観測される、だけの少女は、もう、いない。ガラス越しに、視返す側に、なった少女が、冷えたプリンの蓋を、ゆっくりと、開けた。



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