観測できない少女
「別世界の部品」という玻璃の不気味な言葉が残した、重い違和感。それが引き金となったかのように、翌日、白峰事務所に初めての「イレギュラー」が舞い込んできた。
持ち込まれたのは、数日前から「行方不明になった14歳の少女・灯」の捜索依頼。
無色はいつものように、ソファーで黒い猫耳を頭に装着し、少女の写真に視線を落とした。
――その、瞬間だった。
「キィィィィィィン――ッ!!」
脳を直接、冷たい鉄パイプで殴られたような、凄まじい高周波が頭の中を駆け抜けた。
「あ、が……っ!? ああぁっ!」
無色は頭を抱え、ソファーから床へ転げ落ちた。
視界に広がるはずの世界線――未来へと分岐する無数の「枝」が、少女の姿を中心にして、まるで黒いインクをぶち撒けたように次々と暗転し、消失していく。
「見えない……! 死んでるとかじゃない! 世界線の『線』自体が、この子の周りだけエラーを起こして消えてる……っ!」
冷や汗を流し、痛みに悶減する無色。その異常事態に、事務所の空気が一変した。
「素晴らしい……!」
倉田がガタッと立ち上がり、狂ったようにホワイトボードに数式を書きなぐり始める。
「彼女の周囲だけ因果律の計算式が逆流している! 観測者が弾かれているんだ! 実に美しい!」
一方、玻璃は持ち込んだ測定器の数値を凝視し、いつになく顔を強張らせていた。
「無色さん、これ、猫耳が拒絶しているのではありませんわ。耳の奥の『あの部品』が、少女の存在に共鳴して勝手に暴走していますの……!」
零だけが冷静に少女の足取りをタブレットで追い、潜伏先とおぼしき郊外の廃工場を割り出した。
「行くぞ」
零の短い言葉に、全員が動く。無色は頭痛の恐怖に身体を震わせながらも、少女を救うため、ポケットに猫耳を押し込んで立ち上がった。
◇
夜の廃工場。崩れかけた天井から月光が差し込む最奥に、その少女・灯はぽつんと座っていた。
4人の足音に気づき、ゆっくりと顔を上げる。
無色はおそるおそる、ポケットから出した猫耳を頭につけ、出力を最小にして起動した。
視界に走る、激しい幾何学的なノイズ。その歪む世界の向こうで、少女が静かに口を開いた。
「……後ろ」
「……え?」
無色が痛みを堪えながら問いかける。
だが、少女の瞳は、無色を見ていなかった。
少女の視線は、無色の顔を真っ直ぐに通り抜け――彼のすぐ後ろ、誰もいないはずの漆黒の空間を、じっと凝視していた。
「あなたの後ろにいる人……ずっと見てる」
「誰が……?」
無色の背筋に、氷を突きつけられたような悪寒が走る。
倉田が怪訝そうに一歩進み出た。「君は何者だ? なぜ因果を歪めている」
しかし、少女は何も答えない。ただ、無色の背後にある暗闇を怯えた目で見つめ続けている。
その瞬間、猫耳が突如、前回の比ではないレベルで大暴走を始めた。
「あ、あああ、あァァァッ!!」
無色が頭を抱えて絶叫し、床に倒れ込む。耳の隙間から、赤い血がタラリと滴り落ちた。同時に、少女・灯も頭を抱えて苦しみ始める。空間そのものが、パチパチとガラスが割れるような音を立てて歪みだした。
「相互観測のフィードバックだ! 世界線が限界を迎えるぞ!」
興奮してノートを開く倉田。少女の身柄を確保すべく地を蹴る零。
――その中で、九条院玻璃だけが、全く違う行動を取った。
「無色さん――ッ!!」
玻璃は、高価な巫女服が泥に汚れるのも一切気に留めず、床に膝をついて無色に飛びついた。
「耳を外して! 今すぐですわ! 脳が焼き切れてしまいます!」
だが、無色の身体は強硬に硬直しており、自分の手は耳に届かない。
玻璃は自らの懐から、数億円は下らないであろう独自の計測ガジェットを取り出すと、それを躊躇なくコンクリートの床に叩きつけた。
ガシャァァン!
内部の超伝導ジャマーが剥き出しになる。玻璃はその火花散る精密機器を、無色の猫耳へと力づくで押し当てた。
「出力遮断しますわよ! 止まりなさい、このバカ機械――っ!!」
強烈な電磁ノイズと共に、猫耳の明かりがぷつんと消えた。
空間の歪みが収まり、無色は激しい呼吸のまま、玻璃の腕の中に崩れ落ちる。
玻璃は、泥と油にまみれたまま、本気で怯えた涙目のままで、腕の中の無色を見下ろしていた。猫耳のデータなど、今の彼女の頭には一切なかった。
「……っ、う……」
少女・灯はそのまま意識を失い、前に倒れ込んだところを零がそっと抱きかかえる。
「……無色さん、九条院様。少女のポケットから、このようなものが」
零が静かに差し出したのは、少女の衣服からこぼれ落ちたという、奇妙な質感の小さな金属片だった。
それを見た玻璃の顔から、一瞬で感情が消えた。
「……これ」
倉田が覗き込む。「何です?」
玻璃は震える指先でその金属片を拾い上げ、掠れた声で呟いた。
「……第5話の……いいえ、あの猫耳の奥にあった部品と、全く同じ材質ですわ」
沈黙が、夜の廃工場を支配する。
灯は何者なのか。この部品はどこから来たのか。
何も分からない。確定した答えは一つもない。ただ、胸がざわつくような、圧倒的な「気持ち悪い違和感」だけが、冷たい月光の下に満ちていた。
ソファーで頭に包帯を巻いた無色に、玻璃が、少し気まずそうにハーブティーのカップを差し出してきた。その白い指先は、まだ微かに震えている。
「……無色さん。我が九条院の地下に眠る、さらに古い『観測機群』の記録を洗う必要がありますわ」
玻璃は無色の目を真っ直ぐに見つめ、静かに、しかし確かなトーンで続けた。
「……一緒に行ってくださいます? 我が家へ」




