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分解禁止令

白峰事務所の防衛戦は、九条院玻璃が「愛車のマイバッハ(お抱え運転手付き)」で乗り付けてくるようになってから、完全に日常の一部と化していた。

「白峰様!本日こそその猫耳、ネジを一本……いえ、カバーの隙間からテスターの端子を突っ込ませていただくだけで結構ですので、わたくしに触らせてくださいまし!」

「だからダメだって言ってるでしょ!帰れ!」

 ソファの上で、愛用の黒い猫耳ケースを文字通り死守する無色。

 その横では、なぜか倉田がマイカップを持参してソファに深く腰掛け、零が淹れたコーヒーを優雅に啜っている。

「いやあ、橘さんの淹れるブラジル・サントスは最高ですね。白峰さん、諦めて九条院さんに剥ぎ取らせてあげればいいじゃないですか。ついでに脳波の測定もさせてほしいです」

「倉田、あんたなんで毎日うちの事務所に居座ってんのよ!?あと零、なんで普通にこいつらに美味いコーヒー振る舞ってんの!?」

「仕事ですから」

 零はプロのメイドさながらの完璧な手際で、玻璃の分のアールグレイをテーブルに置きながら淡々と言った。

「それに、九条院様からは毎日、弊社の経営を十年は維持できるレベルの『迷惑料』が口座に振り込まれています。無色さん、諦めてネジの一本くらい差し上げてください」

「身内に裏切り者がいる……!!」

 無色は絶望した。

 あの二人と出会う前は、自分は「他人の運命を弄ぶニヒルなチート能力者」のはずだった。それがどうだ。今や世界線を裏から操る理論オタク(倉田)と、謎の超巨大名家のお嬢様(玻璃)に挟まれ、ただひたすらに自分の所有権を守るためだけに叫んでいる。

「冷たいですわ、無色さん!わたくしたち、もうお茶を3回も一緒に飲んだ仲ではありませんこと!」

「カウントが浅い!帰れ!」

「そこをなんとか!ほんの少し、カチッとカバーを外すだけで……!」

 ガラスのテーブルを挟んで、身を乗り出す玻璃。

 その時、玻璃のらんらんと輝いていた瞳が、ふと、無色の腕の隙間から見えた「猫耳の側面」に固定された。

「……あら?」

 玻璃の動きが、ぴたりと止まる。

 賑やかだった室内に、ふっと静寂が落ちた。

「九条院様?」

 零が不審に思って声をかける。玻璃はいつもの無邪気な笑顔を完全に消し去り、大真面目な「研究者」の目で、無色の手元を凝視していた。

「無色さん、少しだけ、そのままで動かないでくださいまし」

「え、何……?」

 玻璃は懐から、細身のルーペと特殊なライトを取り出すと、無色の膝の上にある猫耳の「ネジの溝」へ顔を近づけた。先ほどまでのドタバタが嘘のように、彼女の纏う空気が鋭く張り詰める。

「……無色さん」

 玻璃は珍しく笑っていなかった。

「……何よ」

 引きつった無色の声に、玻璃は猫耳のネジ穴を指先でそっとなぞりながら、静かに告げた。

「これを改造した人、かなりおかしいですわ」

「だから、おじいちゃんじゃ――」

「違いますわ」

 即答だった。

 部屋の空気が、完全に止まる。

「少なくとも、普通の人間ではありません。このネジの溝の規格……我が九条院の『神具』のものではありませんわ。それどころか、現行の世界のどの工業規格にも存在しない、未知の多次元半導体が強引にハンダ付けされています」

「多次元半導体……?」

「ええ。この半導体、理論上は存在できます。でも製造できません。三百年前はもちろん、現代の最新技術を以てしても不可能ですわ」

 倉田の眉が、ピクリと動いた。

「……未来技術だと?」

「いいえ」

 玻璃は静かに首を振った。その瞳には、いつもの好奇心ではなく、研究者が未知の深海生物を初めて見つけた時のような、純粋な「畏怖」だけが宿っていた。

「わたくしには、これが――『どこか別の世界で作られた部品』に見えますの」

 沈黙が、重く事務所を支配する。

「……そんなもの」

 無色が、乾いた声で呟く。

「あるわけないでしょ。別世界なんて」

 玻璃は答えなかった。ただ、冷たいライトの光に照らされた猫耳を、じっと見つめ続けていた。


観測できない少女

「別世界の部品」という玻璃の不気味な言葉が残した、重い違和感。それが引き金となったかのように、翌日、白峰事務所に初めての「イレギュラー」が舞い込んできた。

 持ち込まれたのは、数日前から「行方不明になった十四歳の少女・ともり」の捜索依頼。

 無色はいつものように、ソファで黒い猫耳を頭に装着し、少女の写真に視線を落とした。

――その、瞬間だった。

「キィィィィィィン――ッ!!」

 脳を直接、冷たい鉄パイプで殴られたような、凄まじい高周波が頭の中を駆け抜けた。

「あ、が……っ!?ああぁっ!」

 無色は頭を抱え、ソファから床へ転げ落ちた。

 視界に広がるはずの世界線――未来へと分岐する無数の「枝」が、少女の姿を中心にして、まるで黒いインクをぶち撒けたように次々と暗転し、消失していく。

「見えない……!死んでるとかじゃない!世界線の『線』自体が、この子の周りだけエラーを起こして消えてる……っ!」

 冷や汗を流し、痛みに悶絶する無色。その異常事態に、事務所の空気が一変した。

「素晴らしい……!」

 倉田がガタッと立ち上がり、狂ったようにホワイトボードに数式を書きなぐり始める。

「弾かれてる……視るこっちが、ぜんぶ逆に弾かれてるんだ……!ああ、実に美しい!」

 一方、玻璃は持ち込んだ測定器の数値を凝視し、いつになく顔を強張らせていた。

「無色さん、これ、猫耳が拒絶しているのではありませんわ。耳の奥の『あの部品』が、少女の存在に共鳴して勝手に暴走していますの……!」

 零だけが冷静に少女の足取りをタブレットで追い、潜伏先とおぼしき郊外の廃工場を割り出した。

「行くぞ」

 零の短い言葉に、全員が動く。無色は頭痛の恐怖に身体を震わせながらも、少女を救うため、ポケットに猫耳を押し込んで立ち上がった。

 夜の廃工場。崩れかけた天井から月光が差し込む最奥に、その少女・灯はぽつんと座っていた。

 四人の足音に気づき、ゆっくりと顔を上げる。

 無色はおそるおそる、ポケットから出した猫耳を頭につけ、出力を最小にして起動した。

 視界に走る、激しい幾何学的なノイズ。その歪む世界の向こうで、少女が静かに口を開いた。

「……後ろ」

「……え?」

 無色が痛みを堪えながら問いかける。

 だが、少女の瞳は、無色を見ていなかった。

 少女の視線は、無色の顔を真っ直ぐに通り抜け――彼のすぐ後ろ、誰もいないはずの漆黒の空間を、じっと凝視していた。

「あなたの後ろにいる人……ずっと見てる」

「誰が……?」

 無色の背筋に、氷を突きつけられたような悪寒が走る。

 倉田が怪訝そうに一歩進み出た。「君は何者だ?なぜ因果を歪めている」

 しかし、少女は何も答えない。ただ、無色の背後にある暗闇を怯えた目で見つめ続けている。

 その瞬間、猫耳が突如、前回の比ではないレベルで大暴走を始めた。

「あ、あああ、あァァァッ!!」

 無色が頭を抱えて絶叫し、床に倒れ込む。耳の隙間から、赤い血がタラリと滴り落ちた。同時に、少女・灯も頭を抱えて苦しみ始める。空間そのものが、パチパチとガラスが割れるような音を立てて歪みだした。

「観測が……互いに、喰い合ってる……!このままじゃ、世界線が、もたないぞ!」

 興奮してノートを開く倉田。少女の身柄を確保すべく地を蹴る零。

――その中で、九条院玻璃だけが、全く違う行動を取った。

「無色さん――ッ!!」

 玻璃は、高価な巫女服が泥に汚れるのも一切気に留めず、床に膝をついて無色に飛びついた。

「耳を外して!今すぐですわ!脳が焼き切れてしまいます!」

 だが、無色の身体は強硬に硬直しており、自分の手は耳に届かない。

 玻璃は自らの懐から、数億円は下らないであろう独自の計測ガジェットを取り出すと、それを躊躇なくコンクリートの床に叩きつけた。

 ガシャァァン!

 内部の超伝導ジャマーが剥き出しになる。玻璃はその火花散る精密機器を、無色の猫耳へと力づくで押し当てた。

「出力遮断しますわよ!止まりなさい、このバカ機械――っ!!」

 だが――玻璃のジャマーが触れきるより、ほんの一拍だけ早く。暴走していた猫耳の銀光が、まるで内側から誰かにそっと電源を絞られたように、ふっと、自分から弱まった。

 追いかけるように強烈な電磁ノイズが走り、半分死にかけていた猫耳の明かりが、ぷつんと、完全に消えた。

 空間の歪みが収まり、無色は激しい呼吸のまま、玻璃の腕の中に崩れ落ちる。

 玻璃は、泥と油にまみれたまま、本気で怯えた涙目のままで、腕の中の無色を見下ろしていた。猫耳のデータなど、今の彼女の頭には一切なかった。

「……っ、う……」

 少女・灯はそのまま意識を失い、前に倒れ込んだところを零がそっと抱きかかえる。

「……無色さん、九条院様。少女のポケットから、このようなものが」

 零が静かに差し出したのは、少女の衣服からこぼれ落ちたという、奇妙な質感の小さな金属片だった。

 それを見た玻璃の顔から、一瞬で感情が消えた。

「……これ」

 倉田が覗き込む。「何です?」

 玻璃は震える指先でその金属片を拾い上げ、掠れた声で呟いた。

「……これ……いいえ、あの猫耳の奥にあった部品と、全く同じ材質ですわ」

 沈黙が、夜の廃工場を支配する。

 灯は何者なのか。この部品はどこから来たのか。

 何も分からない。確定した答えは一つもない。ただ、胸がざわつくような、圧倒的な「気持ち悪い違和感」だけが、冷たい月光の下に満ちていた。

 ソファで頭に包帯を巻いた無色に、玻璃が、少し気まずそうにハーブティーのカップを差し出してきた。その白い指先は、まだ微かに震えている。

「……九条院さん。あんた、手、震えてんじゃん」無色は、受け取ったカップ越しに、玻璃を見た。「サンプルが壊れかけて、そんなにショックだった?」

「ええ」玻璃は、即答した。それから、めずらしく、目を伏せた。「……いいえ。違いますわ」

 らしくない、小さな声だった。

「分解したいのも、基板が見たいのも、本当です。でも――」玻璃は、震える指先で、無色の包帯に、そっと触れた。「あなたが、どの結末を選ぶのか。それを、いちばん近くで視ていたいのですわ。先代と同じ場所に、消えてしまうのか。それとも――誰も選べなかった、別の道を、選ぶのか」

「……別の道、って何よ」

「さあ」玻璃は、ぱっと顔を上げ、いつもの無邪気な笑みに戻った。「分かりませんわ!だから、視ているんですの!ああ、早くあなたの脳波も測りたいですわ!」

「やっぱり研究じゃん」

 無色は呆れて、ハーブティーをすすった。けれど、ほんの一瞬――カップを差し出していた玻璃の指の震えは、壊れたサンプルを案じる研究者のものには、見えなかった。

「……無色さん。我が九条院の地下に眠る、さらに古い『観測機群』の記録を洗う必要がありますわ」

 玻璃は無色の目を真っ直ぐに見つめ、静かに、しかし確かなトーンで続けた。

「……一緒に行ってくださいます?我が家へ」



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