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猫耳を貸してください

『巫女が来た日の翌朝、いなくなった』。先代の遺した最悪のメッセージと、不気味な紙切れの襲来から数日。

 白峰事務所の空気は、かつてないほどに凍りついていた。ガラステーブルの上には、いつでも持ち出せるように猫耳が厳重なケースに入れて置かれている。世界を裏から操る謎のフィクサー、あるいは先代を消し去った恐怖の巫女。いつそんな化け物が襲撃してくるか分からない。

 その時、ピンポーン、と、静寂を切り裂くようにインターホンが鳴り響いた。

「――っ!来ましたか。無色さん、私の後ろへ」零が鋭い目をして玄関へ向かう。無色もごくりと唾を呑み、ソファの陰から様子を伺った。

 零が重々しく、ドアを開ける。ガチャ。

 そこに立っていたのは、月光のような銀髪をハーフアップにまとめた、不気味なほどに美しい少女だった。最高級のシルクで誂えたかのような、お淑やかで上品な「巫女服」を着こなしている。

 零の目が一瞬で細くなった。「……あなたが、地下劇場の。――九条院玻璃」

 玻璃は完璧な所作で、優雅にペコリと一礼した。「はじめましてですわ、橘零さん。白峰無色さん。お噂はかねがね」

 言葉遣いも、立ち振る舞いも、非の打ち所がない名家のお嬢様。だが、その瞳には一切の感情が宿っておらず、底の知れない深淵を覗かせている。

「何の御用でしょうか。一億円の件なら、すでに倉田という男から受け取っていますが」警戒を隠さず、ドアの隙間を狭める零。

 玻璃は静かに微笑み、鈴を転がすような声で、淡々と告げた。

「猫耳を貸してくださいまし」

 空気が、一瞬で凍りついた。零の身体が、明確な殺気を帯びて強張る。

「……あれは白峰家の家宝です。他人に貸し出すようなものではありません」

「いいえ、我が九条院の神具ですわ」玻璃は表情一つ変えず、静かに続けた。「大昔にあなたのご先祖様が借りていかれたまま、戻ってきておりませんの。ですから、一度お返しいただくか、それが無理なら、数日ほどわたくしに貸していただきたいのです」

「お断りします」

「白峰様のお祖父様にも、お貸ししましたのよ?」

「――っ!?」ソファの陰で、無色の心臓が跳ね上がった。

 玻璃は感情の読めない瞳のまま、首を小さく傾げる。「お祖父様は、わたくしが神社でお貸しした翌朝には、綺麗さっぱり消えてしまいましたけれど。……あの密室から、まるで最初から存在しなかったかのように。不思議なことですわね」

 最悪だ。笑顔のまま人を消し去る、本物の化け物――裏社会のフィクサー。無色は震える足を無理やり動かし、零の隣まで進み出た。玻璃を真っ直ぐに睨みつける。

「……あんた、何者なの。おじいちゃんを消して、今度は私を消しにきたわけ?」

 緊迫感が最高潮に達する。無色の問いに対して、九条院玻璃は、ふふ、と上品に袖で口元を隠して笑った。

「消しにきた?まさか!わたくしはただの、神具工学の研究者ですわ」

「……は?」無色が出した間の抜けた声が、緊密な空気にピキリと亀裂を入れた。

「ええ!」玻璃は急に、それまでの冷徹なお嬢様の仮面を脱ぎ捨て、目をらんらんと輝かせた。「あの猫耳の内部構造を調べたいだけですわ!三百年前の量子観測機構とか、オーパーツすぎて最高ではありませんこと!?回路はどうなってますの?基板の材質は?量子もつれをどう処理して未来を確定させてますの!?わたくし十年間ずーっと気になって夜も眠れませんでしたの!」

「は?」無色は一歩、後退りした。

「世界の未来なんてどうでもいいですわ!政治も経済も興味ありません!わたくしはただ、その猫耳の基板が見たいだけですの!さあ、触らせてくださいまし!分解させてくださいまし!」

 玻璃は信じられない馬力で零の腕をすり抜け、リビングに不法侵入してきた。そしてガラステーブルの上のケースを見るなり、よだれを垂らしそうな勢いで顔を近づける。

「な、なんなの、こいつ……!!」無色は本気でドン引きし、ケースを抱え込んでソファの端へと避難した。

「九条院様、先ほどご自身で言われましたよね?」零が冷や汗を流しながら、玻璃の前に立ちはだかる。「先代は、あなたと会った翌朝に消えたと。無色さんも、前夜の能力使用で脳に深刻なダメージを負っています。使い続ければ、この世界から存在が消えるかもしれないんですよ!?」

 だが、それを聞いた玻璃は、胸の前で手を合わせて「あら!」と嬉しそうに声を弾ませた。

「それは大変ですわね!ですので、完全に消えてしまう前に、ぜひ一度分解させてくださいまし!消滅してしまったら、サンプルが失われてしまいますもの!」

「帰れ!!!」

 無色の絶叫が事務所に響き渡った。

「冷たいですわね!十億円払いますわよ!?」「お金の問題じゃない!」「零!塩!バケツ一杯持ってきて!」「承知しました。最高品質の粗塩を用意します」

 大騒ぎになる室内。完全にただの「猫耳研究バカのお嬢様」にしか見えない玻璃の猛攻に、無色と零が総出で応戦する。

――そのドタバタの最中。

 九条院玻璃の視線が、ふと、無色が抱きしめている黒い猫耳のケースへと向いた。

 その瞬間。彼女の顔から、完全に「熱」が消えた。

「……おかしいですわね」

 誰にも聞こえないほど小さな、掠れた呟き。

「?」その声音の異様な冷たさに気づき、無色がハッと振り返る。

 だが、玻璃は瞬時にいつもの無邪気な笑顔へと戻り、「いいえ、なんでもありませんわ!」とパタパタと楽しそうに手を振った。

「今日はこれくらいにしておきますわ。でも、絶対に諦めませんからね!」

 そう言って、玻璃は優雅に踵を返し、玄関へと向かう。ドタバタが去り、無色と零がようやく安堵の息を吐きかけた、その時だった。

 ドアノブに手をかけた玻璃が、動きを止め、一度だけ振り返った。

「白峰無色さん」

「……なによ」

 背筋が粟立つような感覚に、無色の声が強張る。開いたドアの向こう、逆光に照らされた玻璃の顔は――やはり、一切の感情が削ぎ落とされた、美しい人形のそれだった。

「お祖父様も、最初はあなたと同じことを仰っていましたわ」

「……え?」

「『私はまだ消えない。因果の責任は私が持つ』と。……誇り高くて、とても素敵なお方でした」

 玻璃は、三日月の形に目を細め、静かに微笑む。

「だから、不思議なのです」

「……なにが」

「どうして、あなただけが、まだそこに残っているのでしょう?」

 バタン。

 静かに、ドアが閉まった。

 残された事務所には、静寂だけが帰ってきた。さっきまでのコメディの熱気は一瞬で消え去り、無色の手の中にある猫耳ケースが、氷のように冷たく感じられた。



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