観測者の手帳
猫耳を外しているあいだ、私は少しだけ馬鹿になる。そして今日は――びっくりするくらい、身体が重い。
「……うー、頭痛い。動けない。お腹すいた。零、プリン」
「断ります。二日も寝込んで最初の一言がそれですか。それと無色さん、プリンを食べる前に、まずはそのソファのクッションと同化するのをやめてください」
白峰無色は、ソファの上で完全に伸びていた。黒い猫耳はガラステーブルの上に放置されている。前夜の地下劇場で、確率0.0001%の未来を強引に引き寄せ、現実に固定した代償。脳のリソースを限界まで焼き切られたツケは、凄まじい頭痛と倦怠感になって無色を襲っていた。
「嫌だ。私は今、地球の重力と一体化してるの。……ねえ零、やっぱり私、あの耳もうつけたくない。本当に壊れちゃうよ、私の脳みそ」
「……」
いつもなら「仕事になりません」と冷淡に返すはずの零が、珍しく黙り込んだ。無色を支えたときの、あの血の気が引くような彼女の悲鳴。常識人の彼だからこそ、あのガジェットが秘める底知れない危険性を察知していた。
「……ねえ零。私が寝てるあいだ、ずっとここにいた?」
天井を見上げたまま、無色が訊いた。
「いいえ」零は、即座に否定した。それから、ほんの少しだけ、間を置いた。「ただ、その猫耳が、また勝手に暴走しないか、見張っていただけです」
ガラステーブルの上の黒い猫耳は、いつでも引き剝がせるよう、零の手の届く位置に、きっちりと寄せられていた。二日間、ずっと。
「ふうん」無色は、それ以上は、訊かなかった。訊かないでおくのが、礼儀だと思ったから。
その時、事務所のインターホンが軽快に鳴った。
「私が。無色さんはそのまま死んだ魚の目でプリンでも乞うていてください」零がドアへ向かう。「はーい。……って、あなた、なぜここに!」
玄関先から零の張り詰めた声が聞こえる。無色がのそりと首だけを向けると、リビングに入ってきたのは、くたびれたジャケットを着たあの男だった。
「やあ、白峰無色さん。体調はどうだい?」
「……倉田」
地下劇場で無色と「観測戦」を繰り広げたコーヒー占い師。零が鋭い殺気を放ちながら身構えるが、倉田は全く意に介さない様子で、両手に提げた荷物をテーブルに並べ始めた。高級そうなコーヒー豆の袋、サイフォン器具、そして――一冊の、手垢で酷く汚れた古びた手帳。
「一億円の依頼料は九条院様から振り込まれているはずだからね。今日は純粋なプライベートさ。君の脳を労うために、最高級のブルーマウンテンを淹れにきた。敵意はないよ、僕はただの『研究者』だからね」
「お帰りください」と冷たく言い放つ零を無視して、倉田は手際よくコーヒーを淹れ始める。部屋の中に、深く香ばしい匂いが立ち込める。
無色はソファに座り直し、テーブルの上に置かれた黒い革張りの手帳を見つめた。「……その手帳、何?」
「君のお祖父さん――白峰家の先代観測者が遺した日記だよ。裏のルートで手に入ってね」
倉田は穏やかに微笑み、無色にコーヒーカップを差し出した。「読んでごらん。君と全く同じ苦悩が、そこに書いてある」
無色は躊躇いながらも、手帳を開いた。黄ばんだ紙に、殴り書きのような文字が並んでいる。
『――猫耳を外すと、世界が遠くなる。自分がただの無能になったようで耐えられない。だが、装着すればするほど、私の脳は世界の因果に侵食されていく。見える。見えすぎてしまう』 『今日、破滅するはずだった男の線を、無理やり生存の線へ誘導した。頭が割れるように痛い。耳の奥が拒絶反応を起こしている。私は予知しているのではない。世界を改変しているのだ。その歪みは、どこへ行く?』 『この耳には、はっきりとした順序がある。ただ視るだけ――予知は、ほとんど代償を取らない。だが、線を固定し、誘導し、捻じ曲げる“書き換え”は、そのつど脳を焼く。選ぶ線の確率が低いほど、灼ける熱は跳ね上がる。先日、髪一本の生存線を掴んだ夜は、三日、起き上がれなかった』 『そして、どうしても越えられない壁が、ふたつある。ひとつ――観測されていないものは、視えない。確定した明日を持たぬ者は、私の網にはかからない。もうひとつ――観測する者は、自分自身を観測できない。視る者は、決して、視返されない。だから観測者は、いつも独りだ。視るだけで、誰にも、視返してもらえない』 『郊外の研究室で、また夜を明かした。相棒のFは、私が猫耳で壊した確率の帳尻を、機械の側から、黙って受け止めようとしてくれる。私がどれだけ世界を歪めても、その歪みが、誰かを呑み込まないように。――この機械だけは、ひとりでは、回せない』
無色は息を呑んだ。文字から滲み出る、圧倒的な依存と、コンプレックス。「これ……本当におじいちゃんの日記だ。私と同じ……」
その歪みは、どこへ行く?――日記の、その一行が、妙に、引っかかった。あの夜、地下劇場で線を固定した、あの瞬間。痛みの裏で、自分の輪郭が、世界からほんの少しだけ浮いた、あの感覚。あれと、この問いは、どこかで繋がっている気がした。けれど、像を結ぶ前に、するりと、すり抜けていく。
「先代も君と同じ天才で、同じように猫耳を嫌い、そして頼っていた」倉田はコーヒーを啜り、目を細める。「白峰無色さん。君は『シュレーディンガーの猫』の思考実験を知っているね。箱の中の猫は、蓋を開けて観測されるまで、生存と死亡の状態が重なり合っている。――では、箱の外にいる『観測者』が、もしもその状態を自由に操れるとしたら?」
「それが……私の、この耳の能力でしょ。私が箱のナカミを都合よく書き換えている」
「――仮説だけどね」
倉田が、眼鏡の奥の瞳を怪しく光らせた。
「仮説?」
「世界は帳尻を合わせたがる。無理やり消し去ったはずの “死ぬはずだった確率” のゴミは、一体どこへ消えると思う?……君のお祖父さんは消えた。なら、その分の代償は支払われたのさ」
「それだけで……?おじいちゃんは、どこへ行ったの?」無色の声が、初めて恐怖で震える。
「さあ。研究者は証明できないことを断定しない。ただ、白峰家の先代は、ある日突然この世界からいなくなった。死体も見つからず、まるで最初から存在しなかったかのように、誰の記憶からも、世界の確率の波の中からも消滅したんだ。……僕はね、君にそうなってほしくない。先代のようになってしまう前に、君を研究し、救う手立てを探したくて、ずっと君を探していたんだよ」
部屋の中に、重苦しい沈黙が降りる。無色は自分の両手を見つめた。もしまた、あの地下劇場のような無茶をすれば、今度は自分の輪郭が消えていくのかもしれない。
「……待ってください」今まで静かに話を聞いていた零が、手帳の最後のページを指差した。「この日記の余白。先代が消える直前に書いたと思われる、殴り書きがあります」
無色と倉田が、同時に手帳を覗き込む。そこには、乾いたインクで、たった1行だけ、不気味な事実が付け足されていた。
『――巫女が来た日の翌朝、いなくなった』
「巫女……?」無色が呟く。
「白峰家の記録に、そんな人物の来訪はありません。先代の完全な密室失踪の謎。……これが、原因ですか」零が眉をひそめる。
倉田もまた、その1行を見て顎に手を当てた。「ふむ。僕もこれは初見だ。九条院様からは聞いていないな。巫女、か……」
その時だった。テーブルの上に放置されていた、あの「真っ黒な封筒」――地下劇場への招待状が入っていた、あの封筒の中から、ハラリ、と、今まで気づかなかったもう一枚の小さな紙切れが床に落ちた。
零がそれを拾い上げ、書かれた文字を読み上げる。
「……『猫耳、貸してください』」
繋がっていく因果。先代を消し去ったかもしれない存在。世界のすべてを裏から操る恐怖の黒幕――九条院玻璃が、今、確実に自分たちのすぐ近くまで来ている。




