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地下劇場

「……やっぱり、最悪な場所ね」

 繁華街の裏通り、錆びついた雑居ビル地下二階。鉄錆とカビの匂いが混じる長い廊下の先、重厚なオーク材の扉を押し開けた瞬間、白峰無色は不快そうに眉をひそめた。

 そこは、悪趣味な円形劇場だった。すり鉢状に配置された赤い絨毯の客席には、仕立ての良いスーツを着た男や、宝石を散りばめた女たちがひしめき合っている。彼らの瞳に宿っているのは、金、酒、そして――他人が地獄に落ちる瞬間を見たいという、湿って腐った熱狂だ。

「賭場ですか。それも、一番質の悪い」

 隣に立つ橘零が、冷徹な声で呟く。客席の中央、劇場の舞台を真っ二つに横切るように、一本の細いワイヤーが張られていた。高さは五メートル。下にはマットも、安全ネットもない。落ちればコンクリートの床が待っている。

「あれ、先週のお客さんじゃん」

 無色の視線の先。ワイヤーの手前に、顔面蒼白で立っている男がいた。帝都建設の宮内。先週、無色のオフィスに一億円を積み、「来年六月に着工しろ」と告げられた男だ。彼は今、借りてきた猫のように全身をガタガタと震わせている。

「……なるほど。あの様子だと、私のアドバイスを無視して『秋の延期』を選んだわけね」

「欲に目が眩んで自滅し、裏カジノの借金のカタに『見世物』として差し出された、といったところでしょう。自業自得です」

 客席では、宮内が「渡りきれるか」「落ちて死ぬか」の賭けオッズが目まぐるしく変動している。無色はため息をつき、頭の上の猫耳をそっと押さえた。この劇場全体から放たれる人間の強欲と興奮が、猫耳を通じて濁流のように脳内へ流れ込んでくる。

「またくだらない趣味人が、私を驚かせようと仕組んだ狂言誘拐かと思ったのに。肝心の主催者(九条院玻璃)の席は空っぽ。……ねえ、誰が私を呼んだわけ?」

「僕だよ、白峰無色さん」

 穏やかな声が、舞台の袖から響いた。現れたのは、くたびれたジャケットを着た、中途半端に整った髪の男だった。男は小さなデミタスカップを手に、舞台中央のテーブルへ腰かけた。

「僕は倉田。占い師みたいなものさ。正確には、君とは少しアプローチの違う同業者かな。――僕は主催者じゃない。九条院様に『面白い観測者がいる』と聞いて、君を見に来ただけのしがない研究者さ」

 倉田が笑う。その瞬間、無色の猫耳がじりじりと熱を持った。(……変。この男の周りだけ、世界の『線』が不自然に絡み合ってる)

「簡単なゲームをしよう」倉田はカップを置き、怯える宮内を指差した。「宮内さんが、あのワイヤーを渡りきれるかどうか。君の猫耳で『予測』してほしい。……いや、もう盤面は始まっているか」

 倉田がパチンと指を鳴らす。それを合図に、黒服の男たちが宮内の背中に銃口を突きつけた。宮内は悲鳴を上げ、涙目でワイヤーに足をかける。客席の熱狂が跳ね上がった。

 無色は歯を食いしばり、猫耳の出力を限界まで上げた。視界が切り替わる。世界が数式と確率の枝(世界線)に分解されていく。

(……見えた。でも、これは――)

 無色は息を呑んだ。宮内が三歩進んでバランスを崩し、頭から落ちる線。五歩進んで足を滑らせ、背骨を折る線。無数に広がる未来の枝。だが、その九割九分が『落下して死亡する』という結末に収束している。

 倉田がコーヒーの滓を見つめたまま、静かに告げた。

「僕の杯には『死』が出ている。彼が渡りきれる確率は、限りなくゼロだ。それが、今の世界が選ぼうとしている最も太い『正しい線』だよ。君の負けだ、白峰さん。君の猫耳は、世界の流れをただ『予知』しているに過ぎない」

「……うるさい」

 無色の胸の奥で、猛烈な怒りが燃え上がった。

「うるさい、うるさい、うるさい!占い師風情が、分かったような口を利かないで!」

 無色は自分の髪をかきむしるように、猫耳の根元を強く掴んだ。銀色の静電気のような火花が、今までで一番激しく弾ける。

「宮内さんはクズよ!私の警告を無視して自滅した、ただの馬鹿!でもね――私が一度『六月まで破滅しない』って答えを出したのよ!私が一度でも観測し、一億円の価値を与えて固定した未来だ。その因果の責任は、世界が何と言おうと私が持つ。それを、あなたの安っぽい杯なんかで捻じ曲げられるなんて、絶対に気に入らない……!」

 私が観測した未来を、世界の都合で殺させない。それが、白峰無色という観測者の、唯一のプライドだ。

 脳が爆発しそうなほど熱くなる。無数の死の枝の隙間に、無色は見つけた。髪の毛一本ほどの、あまりにも細く、今にも消えそうな、あり得ない奇跡の線。

 宮内が、偶然飛んできた一陣の風に乗り、ただの「運」だけで渡りきる、確率0.0001%の細い線。

(宮内さん……あんた、まだ生きたいの!?)

 無色の意識が、ワイヤーの上の宮内を捉える。男は涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、心の中で絶叫していた。『死にたくない、死にたくない……!孫の顔を見るまでは……!!』

(――よし。そのクソみたいな執念、私が拾ってあげる!!)

 無色は、その極細の線を、脳内で限界まで強くイメージした。「その線になれ」と、世界を睨みつけながら、望む未来を指先で強く固定する。

 その瞬間。猫耳の奥で、カチリ、と世界が「噛み合う」音がした。

 無数の「死の枝」が、一瞬にしてガラスのように砕け散る。代わりに、無色が見つめた「奇跡の1本」の線が、猛烈な勢いで栄養を吸い上げるように太く、強固に膨れ上がっていく――!

「……っ!?なんだ、これは……!?」初めて、倉田の顔から余裕が消えた。彼の手元のコーヒーカップが、ピキリと音を立ててひび割れる。

 舞台の上。完全にバランスを崩し、真っ逆さまに落ちるはずだった宮内が、突風に煽られて不自然に前傾姿勢になった。そのまま、まるで何かに引っ張られるように、猛スピードで足を動かす。タタタタタン、と、まるで熟練のピエロのような足さばきで、ワイヤーの上を駆け抜けていく。

 ドサッ、と宮内の身体は、対岸の舞台袖へと転がり込んだ。生還。確率0.0001%の、完全な生存。

「が、はっ…………!」

 劇場の静寂と同時に、無色の口から短い悲鳴が漏れた。頭が割れるような激痛。視界が真っ赤に染まる。猫耳の付け根から、バチバチと激しい不協和音を立てて火花が散り、無色の意識を急速に刈り取っていく。

 その一瞬、痛みとは別の、奇妙な感覚が走った。自分の輪郭が、ほんの少しだけ、世界から浮く。足の裏が、床に着いているのに、着いていない。すぐに激痛がそれを塗り潰し、無色は気のせいだと思った。気のせいの、はずだった。

「無色さん!?」零が血相を変えて彼女を抱きとめた。

「はは……素晴らしい。素晴らしいな……!」沈黙を破ったのは、倉田の歓喜に震える声だった。粉々に砕け散るデミタスカップを顧みず、彼は狂ったように無色を凝視している。

「君は未来を『予知』してなんかいない。固定か?いや、違うな……可能性の誘導か?それとも因果の強制収束か……!?世界のルールを強引に書き換えている。だが、その代償として脳のリソースを焼き切っているのか……!」

 倉田はブツブツと呟きながら、ふらふらの無色を見つめた。

「最高だ。君の先代がどうなったか、ますます確信が持てそうだよ。……すべては、九条院様の予測通りでした。今日のところは僕の負けだよ、白峰無色さん」

 去りかけようとする倉田の背中に、無色は外れかけた猫耳の奥から、必死で声を絞り出す。

「……今、誰の名前を言った?」

 倉田は振り返らず、ただ楽しそうに手を振って、闇の中に消えていった。

 残された地下劇場で、無色の意識は闇に落ちる。激しい頭痛の残響と、九条院という不気味な名前だけを、その脳裏に深く刻みつけて。



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