1億の無色
猫耳を外した瞬間、世界は静かになる。そして私は、少しだけ馬鹿になる。
「……あー、平和」
白峰無色は、黒い猫耳を両手で持ち上げて頭から外した。ぱち、と微かな静電気みたいな音がして、耳の付け根から銀色の光が散る。途端に、部屋の中から“うるさいもの”が消える。冷蔵庫のコンプレッサーの寿命の予兆。スマホの通知が鳴る三秒前の回線の気配。そういう全部が、消える。
「無色さん。その顔でソファに沈み込まれると、廃人感が増します」
代理人兼世話係の橘零が、書類の束を抱えたまま淡々と言った。
「失礼な。私はただ、文明の恩恵を噛みしめてるだけです。……零、私、今日こそ思うんだけど。これ、いずれ完全に卒業したい。だって嫌なんだもん、この耳」
黒い猫耳は、いかにも可愛いアクセサリーです、みたいな顔をしてガラステーブルの上に置かれている。実際は、白峰家に伝わる観測補助具。もっとも、家の連中は大真面目にそう呼ぶけれど、見た目はどう見ても猫耳だった。つけているあいだ、無色の脳は異様に冴える。世界が情報網の塊に見える。逆に外しているあいだは、勘が死ぬ。カップ麺の醤油と味噌で三分迷うくらいには死ぬ。
その耳をつけていれば、世界じゅうの誰の明日でも視える。けれど――こちらを視返してくる視線だけは、ただの一度も、拾えたためしがなかった。「嫌なんだもん、この耳」。さっき零にこぼした軽口の底には、本当は、もう一段だけ深い願いが沈んでいる。いつか、これを外して。ただの白峰無色として、誰かと、まっすぐ目を合わせてみたい。
「引退は結構ですが、つけないと仕事になりません。先方、まもなく到着です。本日の着金額は一億円。国家の裏予算や大財閥でもない限り、一般人が一生かけても払えない額ですよ。月に一本あるかないかの特級案件です。働いてください」
「……つけるか」
「現金ですね」
無色は猫耳を頭に載せる。ぱちり。その瞬間、世界が戻ってきた。空気が、情報になる。零の心拍。エレベーターの下降速度。うるさい。でも、見える。
インターホンが鳴り、零が案内してきたのは、高級スーツを着た恰幅のいい男――帝都建設の宮内だった。部屋に入るなり、宮内は無色の頭の猫耳を見て、あからさまに不快そうに鼻を鳴らした。
「おい、橘くん。冗談じゃないぞ。我が社の一世一代のプロジェクトの命運を託しに、一億円もの大金を積んだんだ。それが、こんな小娘のふざけたコスプレごっこに付き合わされるためか?」
傲慢な大企業の役員の態度。けれど無色は表情ひとつ変えず、ため息をつきながら、こめかみに触れるように頭の上の猫耳の根元を指先でなぞった。
「質問は一つ。工場を建てるならいつがいいか、で合ってる?」
「……フン、そうだ。我が社の優秀なシンクタンクが弾き出したデータでは、秋着工がベストだ。お前のくだらないオカルトで、その裏付けが欲しいだけだ」
「じゃあ十秒で終わる。――建てるなら来年六月。秋は絶対にやめなさい。破滅するわよ」
「なんだと!?」
宮内が机を叩いて立ち上がる。
「いい加減にしろ!根拠もなしに我が社の経営計画を愚弄する気か!所詮はガキのハッタリ――」
「データねえ」
無色は冷たく言葉を遮り、男を睨み据えた。
「あなたの言うデータって、どれのこと?……例えば、あなたが愛人に貢ぐために流用した、開発予定地の裏金口座のデータ?」
「なっ、う、何を……!?」
宮内の顔から一瞬で血の気が引いた。
「秋に延期したらどうなるか、教えてあげる。いま、あなたの会社の専務が、まさにその裏金を告発する文書を書き終えたところよ。秋の着工に合わせて、それが週刊誌にリークされる。当然、プロジェクトは凍結。会社は倒産、あなたも逮捕されて破滅。でも、すべてを前倒しにして『六月』に着工すれば、あなたの裏金はただの必要経費の中に綺麗に隠れる。専務の告発状も、ただの言いがかりに変わるわ」
無色は、冷え切った紅茶を一口すする。
「……これでも、秋がいい?」
先ほどまでの威勢はどこへやら、宮内は膝をガタガタと震わせ、椅子に崩れ落ちた。額から滝のような油汗が流れる。無色の猫耳は、世界に存在する無数の可能性の枝が、男の選択によってどう収束していくのかを完全に捉えていた。
「ひ、一億じゃ足りない……!追加でいくらでも払う!だから、専務を止める方法を……!」
「お断り。私は未来の可能性を提示するだけ。選んで動くのはあなたよ、宮内さん」
宮内は蜘蛛の糸にすがるような顔で、何度も頭を下げながら、惨めな悲鳴を上げて部屋を飛び出していった。
ドアが閉まると同時に、無色は猫耳をひったくるように外した。
「……あー、疲れた。やっぱりつまんない。みんな自分で決める勇気がないから、私に責任を押しつけに来るだけじゃん」
「その責任転嫁に一億払ってくれるのですから、ありがたいことですが」
無色はソファに倒れ込んだ。猫耳を外した頭は軽い。けれど、心のどこかが空洞になる。嫌いなのに、これがないと世界と繋がれない。
「……ほんと、いつか外せる日が来ればいいのに」
ぽつりと漏らした声に、零は何も言わなかった。その代わり、手元のタブレットを見て眉をひそめる。
「無色さん。妙な入金があります。一億。……そして、今、ドアの隙間にこれが」
零が拾い上げたのは、真っ黒な封筒だった。中には、たった一枚の銀色のカードキー。そして、流れるような文字で書かれたメッセージ。
『白峰無色様。あなたの“量子観測”で、我が地下劇場の箱を開けていただきたい。――九条院玻璃』
無色は、怪訝に思いながら猫耳を再び耳に当て、カードキーに触れた。瞬間。
「っ……!?」
無色は目を見開いた。いつもならカードキーに付着した指紋、製造元、持ち主の悪意など、無数の『線』が流れ込んでくるはずだった。なのに――空白。何も見えない。まるで、その部分だけ世界から綺麗にくり抜かれているかのように。
「……見えない。私の観測が、完全に弾かれてる」
「無色さん?危険です、今回の案件は断りましょう。九条院といえば、表に出ない裏社会のフィクサーの家系です」
零の制止を無視して、無色の唇がゆっくりと吊り上がった。いつもは憂鬱でしかない猫耳の奥が、今は心地よく、熱く脈打っている。
「断るわけないじゃない。私の猫耳を騙せる世界が、まだあったなんて」
無色はソファから跳ね起きた。
「行くよ、零」
不敵に微笑む主人の姿に、橘零は深くため息をつきながらも、すでに上着を手に取っていた。
「私の猫耳が嫌がるほど、面白い箱らしいから」




