第十六章 名前のない関係
┌─ 【手記・DAY 40】
│ 犬がいる。
│ 犬は、よく食べる。
│ 犬は、よく笑う。
│ 犬は、人間ではない。
│ 犬は、人間ではないから、僕の中の、何かを、揺らさない。
└────────────
1
僕は、彼女を「おい」と呼んだ。
「おい、起きろ」
「おい、飯だ」
「おい、外に出るな」
彼女は、それに、ひとつずつ、嬉しそうに、頷いた。
「うん、ご主人さま」
「うん、ご主人さま」
「うん、ご主人さま」
──ご主人さま。
彼女が、自分から選んだ、僕の呼び方。
僕は、その単語を、否定しなかった。
否定すれば、彼女との、距離が、近すぎる場所に、戻ってしまう。
「ルナ」と呼べば、僕は、また、彼女を、守らなければ、ならない。
守ろうとして、ガルドのときみたいに、間に合わなかったら。
守ろうとして、ヴェイルのときみたいに、彼女の最期の言葉が、僕に届かなかったら。
──そうなる前に。
僕は、彼女との間に、線を、引いた。
「おい」と「ご主人さま」の、線。
彼女は、それを、笑顔で、受け入れた。
ある夜、僕は、剣を、磨きながら、ぽつりと、呟いた。
「おい」
「うん?」
「なぜ、お前は、僕を、怖がらない」
「なんで?」
「僕は、一都市を、吹き飛ばせる。撃たれても死なない。お前を、一回、振り払うだけで、お前は、たぶん、死ぬ」
「うん」
「この国の人間は、お前みたいに、僕を、見ない。彼らは、僕を見ると、まず、自分の小さな板を、構える」
「そうなんだ」
「だから、聞いている。なぜ、お前は、僕を、怖がらない」
ルナは、しばらく、僕を、見つめていた。
そして、自分の、ちっぽけな両手のひらを、僕の前に、広げた。
「ね、ご主人さま」
「ん」
「私の法衣、ぜんぶの物理攻撃、無効化、できるの」
「知っている」
「核兵器も、無効化、できるの」
「知っている」
「ガルドおじさんの、盾も、ね、本気で構えれば、ミサイル、止められたの」
「ああ」
「ヴェイルおねえちゃんは、ね、千年生きたの。クロードおじさんは、人の心を、ぜんぶ読める。ノアおねえちゃんは、誰の姿にでも、なれる」
「……」
「ご主人さまだけが、怖い力を、持ってるんじゃないんだよ」
僕は、剣を磨く手を、止めた。
「私たち、ね、ぜんぶ、怖い力を、持ってる」
「……」
「でも、私たちは、お互いを、怖がらないでしょ?」
「ああ」
「なんで?」
僕は、答えられなかった。
ルナは、にっこりと、笑った。
「お互いを、ちゃんと、見ているからだよ」
「……」
「板の向こうから、見るんじゃなくて、ちゃんと、目の前で、見ているから」
彼女は、自分の指で、自分の目を、指さした。
「だから、私は、ご主人さまを、怖がらない」
──十歳の少女が、僕の、自己嫌悪の、ひとつを、ほどいた。
僕は、剣を、鞘に、納めた。
「おい」
「うん?」
「お前は、賢いな」
「えへへ」
彼女は、嬉しそうに、自分の頬を、両手で、押さえた。
2
僕たちの、新しい隠れ家は、群馬の、ガルドの墓の、近くだった。
クロードが、ヴェイルの死後、ここに、用意してくれた。彼は、もう、声に出して連絡してこない。ただ、隠れ家の冷蔵庫に、定期的に、食料と、お金と、新聞が、補充されているだけだった。
つまり、彼は、まだ、僕たちを、見ている。
ある朝、ルナが、台所で、おにぎりを、握っていた。
「おい」
「うん」
「何をしている」
「ガルドおじさんに、お供えするの」
彼女の手のひらは、米粒で、白くなっていた。
「ご主人さまにも、つくるね」
「いらない」
「つくる」
「いらない」
「つくる」
僕は、議論を、諦めた。
彼女は、僕の前にも、白い、塩むすびを、ひとつ、置いた。
僕は、それを、見つめていた。
食べなかった。
ただ、見つめていた。
ルナは、何も、言わなかった。
彼女は、自分のおにぎりを、ひとつ、口に入れて、ガルドの墓へ、出かけて行った。
僕の前に、塩むすびが、ひとつ、残された。
夕方、僕は、それを、食べた。
塩の味が、した。
──ただ、塩の味が、した。
僕は、もう、泣かなかった。
3
ある夜、ルナが、僕の隣に、ぺたん、と、座った。
僕は、剣を、磨いていた。
もう、誰も、斬る予定が、なくても、剣を、磨いていた。
それが、僕の、唯一の、まだ自分でいられる時間だった。
「ご主人さま」
「ん」
「お話、していい?」
「短くしろ」
「うん」
ルナは、自分の膝の上に、両手を、揃えて、置いた。
「私、ね」
「ん」
「ガルドおじさんと、おなじ、場所に、いたの」
僕の、剣を磨く手が、止まった。
「ルナ」
「うん」
「同じ、場所、というのは」
「人を、売り買い、する、場所」
「……」
「私、最初に、捕まったのは、関西の、別の場所、なんだけど。そのあと、神戸の、オークションに、出される前に、別の、施設に、移されたの」
「うん」
「そこに、ガルドおじさんも、いた」
僕は、息を、止めた。
「……ルナ」
「うん」
「お前は、ガルドに、会ったのか」
「会った」
ルナは、僕の顔を、見上げた。
「ガルドおじさんは、ね。檻の中で、笑ってた」
「……」
「『お嬢ちゃん、心配ねえぞ。レインが、来る』って、言ってた」
僕の、磨いていた剣が、膝の上から、滑り落ちた。
4
「ガルドおじさんは、自分のことより、私のことを、心配してた」
ルナの声は、淡々としていた。
「『お嬢ちゃんは、絶対、傷つけられねえように、檻の格子の、隅に、隠れろ』って、言って、自分の手のひらで、私の前に、壁を、作ってくれた」
「……」
「私の檻が、別の場所に、運ばれていく時、ガルドおじさんは、ずっと、見送ってくれた」
「……」
「『レインに、伝えとけ。俺は、最後まで、ちゃんと、巨人だった、って』」
ルナは、ぼろぼろと、涙を、流した。
でも、声は、震えていなかった。
「私、ね。ガルドおじさんの、こと、ぜんぶ、覚えてる」
「うん」
「忘れたくない」
「うん」
「だから、ご主人さま」
「ん」
「私が、覚えてるから、ご主人さまは、忘れていいよ」
僕は、しばらく、彼女の、横顔を、見ていた。
──十歳の少女が、僕の、傷を、肩代わりしようと、している。
──ガルドの死を、彼女が、ひとりで、覚えていてくれる、と、言っている。
僕は、剣を、地面から、拾った。
そして、剣を、鞘に、納めた。
──忘れなくて、いい。
ガルドを、忘れる必要は、ない。
だが、ガルドを、思い出すたびに、世界を、壊そうとするのは、もう、やめる。
「ルナ」
「うん?」
僕は、彼女の頭に、手を、置いた。
「ガルドのことは、二人で、覚えていよう」
彼女の目が、ぱあっ、と、明るくなった。
「うん!」
──このとき、僕は、彼女を、「おい」と呼ばなかった。
だが、まだ、彼女の名前も、呼ばなかった。
僕の中の、線は、まだ、消えていなかった。
◆ ◆ ◆
── 第十六章 了 ──
次章「少女の理由」へ続く
ここまで読んでいただきありがとうございます。
レインたちの物語を、もう少しだけ見届けていただけると嬉しいです。
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次回もお楽しみに。




