今までどおり
彼氏ができても、幼なじみがいなくなるわけではない。
灯はそう信じています。3人がそれぞれの「今までどおり」を探す1週間です。
火曜日の朝、灯が玄関を出ると、門柱の前には誰もいなかった。
約束の時刻までは、まだ1分ある。陽流が先に出ているはずはないと思い、灯は門扉のそばで待った。携帯電話を取り出し、画面の数字が変わるのを見届ける。さらに1分が過ぎても、隣の家の玄関は開かなかった。
――まだ?
送ってから隣家の2階を見上げる。陽流の部屋のカーテンは閉まっていて、返事も来ない。
寝坊したのかもしれない。珍しいこともあるものだと思いながら電話をかけると、呼び出し音が2度鳴ったところで切られた。代わりに短いメッセージが届く。
――もう学校に向かってる。
「え?」
灯は画面を見たまま声を漏らした。
どうして、と打つより先に鞄を抱え直し、門を飛び出す。いつもの道を早足で進み、角を2つ曲がったところで、見慣れた背中を見つけた。陽流は片方の肩へ鞄をかけ、1人で歩いている。
「陽流!」
呼ばれて振り返った顔には、驚きよりも見つかったという気まずさが浮かんだ。灯は走って追いつき、その前へ回り込む。
「どうして待っててくれなかったの?」
「間に合ったんだからいいだろ」
「よくないよ。何も言わずに先に行くなんて」
「昨日、直人と付き合ったって聞いたから」
言われた意味がわからず、灯は瞬きをした。
「それと、陽流が私を待たないことに何の関係があるの?」
「直人に悪いじゃないか。彼女が毎朝ほかの男子と学校へ行ってたら、嫌かもしれないだろ」
「ほかの男子って、陽流のことでしょ?」
「俺だって男子だよ」
当たり前のことを言われたはずなのに、灯はすぐに返事ができなかった。
陽流は陽流だ。隣の家に住んでいて、朝になれば門の前にいて、灯が遅れれば呆れながら待っている。男子かどうかを考えて一緒に歩いてきたわけではない。
「直人くんと付き合うことと、陽流と学校へ行くことは別でしょ」
「灯がそう思っても、直人は違うかもしれない」
「じゃあ、直人くんに聞く」
「そこまでして一緒に行かなくてもいいだろ」
陽流が歩きだそうとしたため、灯はその制服の袖を掴んだ。
「陽流は、私と一緒に行きたくないの?」
足が止まる。
車の走る音が大通りから聞こえ、2人の横を自転車が通り過ぎた。陽流は灯の指が掴んでいる袖を見下ろし、ゆっくり顔を上げる。
「そうじゃないよ」
「じゃあ、勝手に先に行かないで」
「でも、全部今までどおりってわけにはいかないだろ」
「陽流がいなくなるわけじゃないんだから、今までどおりでいいでしょ」
「いなくならないよ」
陽流はそれだけ答え、灯の手から袖を静かに抜いた。
「ほら、急がないと遅れる」
並んで歩きだしたものの、いつもの朝には戻らなかった。灯が話しかければ陽流は返事をする。狭い道で車が来れば、何も言わず車道側へ移る。それでも2人の間には、昨日までなかった言葉が落ちている。
全部、今までどおりにはいかない。
なぜ陽流がそう決めるのか、灯にはまだわからなかった。
*
教室へ着くと、直人はすでに自分の席にいた。灯を見るなり挨拶をしかけ、その後ろから入ってきた陽流へ視線を移す。
「おはよう。2人とも走ってきた?」
「私は途中だけ。陽流が置いていくから追いかけたの」
「置いていったわけじゃないよ。先に出ただけ」
「それを置いていったって言うんでしょ」
灯が言い返しても、陽流は鞄を持ったまま自分の席へ向かった。直人はその背中を見送ったあと、灯へ向き直る。
「何かあった?」
「直人くんに聞きたいことがあるの」
机へ鞄を置くより先に言うと、直人の肩がわずかに強張った。付き合い始めて最初の朝に何を聞かれるのかと、身構えたらしい。
「私が陽流と学校に来るの、嫌?」
「え?」
「陽流が、直人くんに悪いからもう一緒に行かないほうがいいって。私は今までどおりでいいと思うんだけど」
「湊が、そう言ったの?」
「うん。だから今日は先に行ったの。直人くんが嫌なら考えるけど、本当に嫌?」
直人はすぐには答えなかった。灯から教室の後ろへ目を向ける。陽流は席に着き、こちらへ背を向けたまま教科書を机の中へ入れていた。
「正直に言えば、少しは気になる」
「やっぱり嫌なんだ」
「最後まで聞いて」
直人は困ったように笑い、机の上へ置いた筆箱の向きを直した。
「灯と湊が幼なじみなのは、告白する前から知ってたから。今までしてきたことまで、俺と付き合ったからって急に変えてほしいとは言わないよ」
「じゃあ、明日からも一緒に来ていい?」
「いいよ」
直人は頷いたあと、少しだけ視線を逸らした。
「その代わりって言うのも変だけど、帰りは、たまに俺と一緒に帰ってほしい」
「たまにでいいの?」
「毎日って言ったら、小坂に怒られそうだし」
「そこは私が決めるところじゃない?」
「そうでした」
素直に言い直した直人がおかしくて、灯は笑った。
「帰れる日は一緒に帰ろう。私も直人くんと話したいし」
「うん。ありがとう」
直人の表情が明るくなる。少し離れた席で朝の読書をしていた真帆が、本から目だけを上げた。灯と目が合うと何も言わず、また同じ行へ視線を戻す。けれどページはしばらくめくられなかった。
*
1時間目が終わると、灯はすぐに教室の後ろへ向かった。
陽流は数学の問題集を開いていた。休み時間になったばかりなのに、授業で解き終えなかった問題の続きをしている。灯が机の横へ立っても顔を上げないため、開いたページの上へ手を置いた。
「見えないんだけど」
「直人くんはいいって」
動いていたシャープペンシルの先が止まった。
「朝、一緒に来てもいいって言ってた」
「本人がいいなら、いいんじゃない」
「じゃあ明日から待っててね」
「灯が時間どおりに来たらね」
「今日は私が待ったよ」
「2分だけだろ」
「陽流がいつも数えてるから、私も数えたの」
灯が手を退けると、陽流は問題集へ視線を戻した。けれどシャープペンシルは動かず、灯の手に隠れていた問題の答えは、とっくに書き終わっている。
「帰りは、たまに直人くんと帰るから」
「それは俺に言わなくてもいいよ」
「でも、待ってたら困るでしょ」
「もう勝手に待たないから大丈夫」
朝の仕返しのように聞こえ、灯は眉を寄せた。陽流はそこでようやく顔を上げ、少しだけ笑う。
「冗談だよ。帰る時は連絡して」
「うん。ちゃんとする」
いつもに近い顔を見られたことに安心し、灯は自分の席へ戻った。
真帆が椅子を反対向きにして座り、待っていたように灯を見上げる。
「無事、今までどおりになった?」
「なったよ。直人くんもいいって言ってくれたし、陽流も明日から待ってくれるって」
「そっか」
「何、その顔」
「別に。灯の彼氏は心が広いなと思って」
「陽流も変なこと気にしすぎだよね」
「うん。そうかもね」
真帆はそれ以上何も言わず、自分の席へ戻った。
*
翌朝、門を開けると、陽流はいつもの門柱にもたれていた。
灯の顔を見る前に携帯電話の画面を確かめる。
「1分遅い」
「待ってたのに遅刻した人と、先に行った人なら、どっちが悪いと思う?」
「昨日の話、まだ続いてるの?」
「陽流が1分くらいで文句を言うからでしょ」
灯が隣へ並ぶと、陽流は少しだけ歩幅を緩めた。昨日は何度話しかけても埋まらなかった隙間が、それだけで元の広さへ戻ったように思えた。
学校では、直人との時間も少しずつ増えていった。
水曜日の昼休み、直人は弁当と一緒に1冊の文庫本を机へ置いた。紺色の表紙に、鍵のかかった古い洋館が描かれている。
「この前言ってた本?」
「うん。灯も推理小説を読んでみたいって言ってただろ。これなら読みやすいと思って」
「貸してくれるの?」
「俺が最初に読んだ推理小説。犯人は最後までわからなかった」
「直人くんは、どの本でもわからないんじゃなかった?」
「それは言わなくていいから」
灯は表紙を開き、最初のページに書かれた登場人物の一覧へ目を通した。知らない作家の、今までなら手に取らなかったかもしれない本だった。
「読み終わったら、感想教えて」
「犯人がわかっても言わないほうがいい?」
「絶対に言わないで。灯が先に当てたら悔しいから」
「じゃあ、直人くんにだけは秘密にするね」
2人で話していると、真帆が自分の弁当を持って前の席へやってきた。
「今日は私も一緒でいい?」
「もちろん。ね、直人くん」
「俺に確認しなくても、小坂が灯と食べるのはいつものことだろ」
「倉田くん、ちゃんとわかってるね」
真帆は満足そうに椅子へ座り、3人で机を囲んだ。付き合い始めたからといって、昼休みをいつも2人きりで過ごすわけではない。それでも机の端には直人が選んでくれた本があり、灯には昨日までなかった約束が1つ増えている。
放課後になれば、直人と途中の交差点まで一緒に帰った。
「どこまで読んだ?」
「まだ最初の事件が起きたところ。庭師の人が怪しいと思う」
「早すぎるだろ。まだ全員出てきてもいないよ」
「最初から出てくる人ほど怪しいって聞いたことあるよ」
「誰に?」
「陽流」
答えたあと、直人が一瞬黙ったことに気づいた。灯は文庫本を抱えたまま、その横顔を覗き込む。
「やっぱり、陽流の話をするの嫌?」
「嫌じゃないよ。ただ、灯の中では何の話をしても湊に繋がるんだなと思って」
「家も隣だし、小さい頃からずっと一緒だから」
「うん。知ってる」
直人は笑った。いつもと同じ笑い方だったが、少しだけ無理をさせた気がして、灯は次に何を話せばいいのか迷った。
その沈黙を埋めたのも、直人だった。
「でも、その本を貸したのは俺だから。読み終わった時の感想は、最初に俺へ教えて」
「うん。それは約束する」
灯が答えると、今度は直人も本当に嬉しそうに笑った。
*
木曜日の体育では、男子が校庭でサッカーをしていた。
女子は体育館へ移動するため、灯は渡り廊下の窓からグラウンドを見下ろした。直人が相手のボールを奪い、そのまま前へ走る。少し離れたところにいた陽流へ蹴ると、陽流は足元で受け、すぐに直人へ返した。2人の間をボールが往復し、最後は直人がゴールへ蹴り込む。
男子の歓声が窓越しに聞こえた。直人は陽流の肩を叩き、陽流も何か言い返している。
「普通に話すんだね」
灯が呟くと、隣で髪を結んでいた真帆が窓の外を見た。
「何が?」
「陽流と直人くん。私が直人くんと付き合ったら、気まずくなるのかなって少し思ってたから」
「湊くんと倉田くんは、灯だけで友達になったわけじゃないでしょ」
「そうだよね」
「それに、2人とも灯より大人だから」
「どういう意味?」
「そのままの意味だよ」
真帆は結び終えた髪を背中へ払い、先に体育館へ向かった。
灯はもう一度だけ校庭を見る。陽流からボールを受けた直人が、今度は別の男子へパスを出していた。今までどおりに見える2人を確かめ、灯も真帆のあとを追った。
*
金曜日の朝も、陽流は門柱の前で待っていた。
灯は時間どおりに家を出たつもりだったが、陽流は携帯電話の画面を見て首を傾げる。
「今日は早いね」
「遅れても早くても何か言うの?」
「灯が時間より前に出てくるの、珍しいから」
「陽流がまた先に行かないように急いだの」
「もう行かないよ」
その返事を聞き、灯は満足して隣へ並んだ。
歩き始めたところで、鞄の中から携帯電話の振動が伝わる。画面には直人からメッセージが届いていた。
――明日、駅前のショッピングモールに行かない? この前言ってた本の続きもあると思う。
灯は歩きながら返事を打ちかけ、前から来た自転車に気づくのが遅れた。陽流が灯の肩を軽く引き、自分が外側へ入れ替わる。
「歩きながら見ると危ないよ」
「ごめん。直人くんからだった」
「そう」
「明日、駅前のショッピングモールに行かないかって。2回目のデートになるのかな」
「付き合ってるなら、なるんじゃない」
「そっか」
――行きたい。何時にする?
送信すると、すぐに既読がついた。待っていたのだろうかと思うと嬉しくなり、灯は画面を見たまま笑った。
その隣で、陽流は何も尋ねずに歩いている。自転車が通り過ぎても車道側から戻らず、灯が白線の内側にいることを時々確かめていた。
「やっぱり朝は、陽流と一緒が落ち着く」
灯が言っても、陽流は答えなかった。
ただ少しだけ歩幅を緩め、灯が携帯電話を鞄へしまうまで隣を歩いた。
灯は、朝だけは今までどおりに戻ったのだと思った。
陽流がその言葉に何も答えなかった理由までは、まだ考えなかった。
直人との新しい約束を増やしながら、朝だけは陽流の隣へ戻る灯。
今までどおりに見えるほど、3人の距離はもう同じではありません。
次話「つないだ手」へ続きます。




